誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

MENU

H・G・ウェルズ『世界文化小史』世界最終戦争の顛末

 

大戦争

日本にとって世界大戦といえば、第二次世界大戦がまず頭に思い浮かぶが、世界史つまり西欧史では第一次世界大戦のことを言う。

英語でも、いまだに定冠詞をつけて“The Great War”〈大戦争〉と言う。

本書『世界文化小史』は、1920年に刊行された邦題『世界文化史大系』*1を2年後の1922年に1/5のコンパクト版にして小冊子にまとめたものである*2

発行年を見れば分かるように、〈大戦争〉後の混迷のなかで、指針を示すべく書かれたのが本書である。

今でいうサイエンス・フィクションの元祖とされるウェルズだが、1901年に書かれた『世界最終戦争の夢』は、結果として予見された虚構が実現してしまったわけだ。

もちろん、占い師じゃないから予見や見識をほこる者などいない。今ならいるかもしれないが、そういう趣味はウェルズにはない。そもそもそんな甘い状況に、ヨーロッパはなかった。

そこで書かれた本書は、歴史を知っていれば、歴史に学んでいれば文化を死滅されるような〈大戦争〉を避けえたのではないか、という啓蒙的な意図をもっている。

本書の特徴

本書の特徴は、空間と時間から歴史を説き起こすところにある。

時空間からはじまって、原生生物、魚類、爬虫類、鳥類、そして哺乳類へと続いてゆく。

つまり化学、物理学から生物学へと展開してゆくそれを歴史とみなしている。歴史を人類ひとりに独占させないのである。

猿人類、原人、ネアンデルタール人をめぐる記述には、こんにちからすれば訂正箇所もあるだろうが、それは一人の人間が歴史を書くことの限界と栄光だから、どうでもいい。

そして現生人類が登場するところで本書全体の1/5がかかっている。まどろっこしいだろうか。けれども、実際の時間軸におきかえたら、これでもずいぶん短縮させたものだ。

また、古代地中海にまず文明を見出すいっぽうで、ユダヤ人、仏陀孔子老子にまで目を配る視座は、世界平和“Pax Mundi”への、お祈りが入っている。もちろん、このバランス感覚は、西欧史を語るうえで、ウェルズに相対的な分析と記述をもたらしている。よって、あんがい〈公平〉に書かれているのである。

歴史学が、西欧中心主義からの脱却を大仰に唱え始めるのが、やっと第二次大戦後だったことを思えば、はるかに早い。

西方での機械革命によってヨーロッパ人にもたらされた、旧世界の他の部分に対するまったく一時的な優越性が、蒙古人の大征服のような事件をまったく知らない人々によっては、ヨーロッパ人の永久的で保証された人類指導権の証拠だとみなされていた。こうした人々は、科学やその成果が移転しうるものだという感覚を持たなかった。彼らは、中国人やインド人が、フランス人やイギリス人と同じように、立派に研究事業を続けうることに気づかなかった。西方には何か生得的な知的推進力があり、当方には何か生得的な怠惰や保守主義があり、ヨーロッパ人に世界の支配を永久に保証するものだと信じていた。*3

ポール・ヴァレリーの見識に近いが、モンゴル帝国の隆盛から産業革命、そしてアジア侵略まで簡潔に書ききる文体は、見通しがいい。しかし、本書が第一次世界大戦の顛末とありうべき未来への提言として書かれたことを思えば、上記の記述は、西欧文明の傲慢への批判と読むべきものだ。

大戦争〉後

よって、コンパクト版の本書でも、〈大戦争〉後のヴェルサイユ条約をめぐる記述は分量が多い。

われわれは、ごらんのとおりの恐ろしくも無法な、あの闘争が終わり、何物をも開始せず、何物をも解決しなかったことに気づきはじめている。それは何百万もの人々を殺し、世界を荒廃させて貧困に陥れた。《それはロシアをすっかり粉砕した》。それはせいぜいわれわれが危険な同情のない世界で、たいした〈計画〉や先見の明もなく、愚かで混乱した生き方をしていたことを想い出させる、激烈な、ぞっとするほどの事件であった。

大戦争〉を「事件」と言っているのは、有史以来の歴史のなかに、第一次世界大戦をも、なんとか収めようというウェルズの意図である。しかし、その苦心より苦悩と認識がまさっているようだ。

戦争のために組織化された国家が戦争を起こすのは、雌鶏が卵を産むのと同じくらい確かなものだ

という皮肉はとても笑えない。またこの皮肉は、国際連盟を呼び掛けた、時の合衆国大統領ウィルソンにも向けられる。当時、一時的にではあれ平和の輿望を担ったウィルソンだが、

こうした期待を彼がどんなにか完全に失望させ、また《彼の作った》国際連盟というものがどんなにか弱体でくだらないものであったかということは、〈ここで語るにはあまりにも長く、あまりにも悲痛な物語である〉。

よって、ウェルズの未来展望は暗い。末尾で、発展と栄光を謳い、それを信ずることを表明するウェルズだが、

人間のしてきたこと、人間の現状のささやかな勝利、そしてわれわれの述べてきたこのいっさいの歴史は、人間が今しなければならない事柄の序曲を形成しているにすぎない。

かろうじて立ち上がり、前を向く、というような結びで本書を終える。

「序曲」がなんの「序曲」になったかを読者は知っているわけだが、人類が人類に懲りるということはないらしい。ウェルズの顰にならえば、人類は日に新たで、日々に新たで、また日に新たなのである。まあ、笑っている場合ではない。今日も人類が人類を殺している。とてもではないが、元気なことを言う気にはなれない。

 

*1:原題は“The Outlines of History”『歴史の概要』

*2:本書解題による

*3:H・G・ウェルズ『世界文化小史』角川文庫より引用。以下、引用は同書による

福沢諭吉『学問のすゝめ』第三編 パクス・ブリタニカの時代

ヴィクトリア女王の時代

およそ人とさえ名あれば、富めるも貧しきも、強きも弱きも、人民も政府も、その通義において異なることなし*1

第三編は「国は同等なること」として、第二編において説いた個人の権利を、国家間のレベルで論じたものになる。すなわち、

今のこの義を拡(おしひろ)めて国と国との間柄を論ぜん。

今さらだが、小泉信三による福沢諭吉の評伝*2を読んでいたら気づかされた。福沢の一生はほぼビクトリア女王の治世に重なる。

ヴィクトリア女王の即位は1837年。その2年前に福沢は生まれており、1901年にどちらも亡くなっている。渡英したばかりの夏目金之助が遭遇した行列は、この世界に君臨した女王の葬送の列である。明治34年

満つれば虧くるの譬えではないが、ビクトリア女王の治世は前後期に分けられ、後期になるとそのほころびが目立ってくるわけだが、それゆえ強引な、大英帝国のインド・清への支配と侵略は「国は同等」でないことを福沢に知らしめたろう。

また、列強諸国が東アジアを植民地化してゆくありさまと、ロシアの南下、合衆国の来航による不平等条約。すべての発端が、パクス・ブリタニカと呼ばれる女王の治世下であったことは、とりわけて英語の学者、思想家であった福沢をして、

自国の富強なるをもって貧弱なる国へ無理を加えんとするは、いわゆる力士が腕の力をもって病人の腕を握り折るに異ならず、国の権義において許すべからざることなり。

と言わしめる。ここで、その「富強」への道を、「学問」による「一身独立」に見出したことはすでに初編に説かれていることだが、福沢はさらに敷衍する。

一身独立して一国独立すること

この章は三つの条に分けられている。それぞれ

第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。

第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。

第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。

である。

見落としてならないのは、これが書かれた当時、ほとんどの列島住人は〈近代国家〉とか〈民族国家〉とかを知らない、ということである。洋学者や政府枢要の地位にあれば知っていたかもしれないが、それさえ、実地に西欧諸国を視察してそれぞれの理解力に応じて知ったものだ。

よって、外夷への恐怖は、お化けのたぐいの話で、前回記した民衆擾乱が荒唐無稽の流言によって巻き起こったことからも分かるように、無知と言って無知で片づけきれない環境がまず国内にあった。

そして儒教とその影響下に成立した国学イデオロギーは、基本的に〈仁恤〉を治世の徳目においており、為政者は人民に対し、仁徳を垂れることが期待された。中世期以降、それが徳政と呼ばれたことは、どこかに書いたが、多くの民衆騒擾、一揆、打ちこわしが、具体的な要求をもたない自然発生的な騒動であったことからも、為政者は人民の意図を汲むことが期待されし、人民は為政者がそれを汲むことを期待した。

しかし、それでは〈近代国家〉創成はできない。少なくとも西欧列強に侵略されないだけの国家はできない。

第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず

そこで福沢はここで「独立」とは何かについて述べる。それは〈近代国家〉の重要な条件であるからだ。

独立とは自分にて自分の身を支配し他によりすがる心なきを言う。みずから物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵によらざる独立なり。

これは儒教の徳目と対蹠的である。すなわち、

民はこれによらしむべしこれを知らしむべからず

の思想からは出てこない。鼓腹撃壌では、国家はその危機に立ち向かえない。

英人は英国をもってわが本国と思い、その本国の土地は他人の土地にあらず、わが国人の土地なれば、本国のためを思うことわが家を思うがごとし。国のためには財を失うのみならず、一命をも抛(なげう)ちて惜しむに足らず。これすなわち報国の大義なり。

福沢はここでだいぶ危ういことを言っている。

そして、歴史に喩えを求め、桶狭間で今川兵が四散したことに対し、普仏戦争で皇帝捕縛のあともパリが抵抗をつづけたことを比較して、封建的主従とネーション・ステート=国民国家との強弱を論ずる。

もちろん、ナショナリズムとその民族自決が、批判的に論ぜられるために人類は二つの世界大戦を必要としたのだからやむを得ない*3が、列強諸国と呼ばれる国々が、ネイション=国民というものから成り立っていることを見抜いた慧眼は見逃してはなるまい。

第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。

もちろん、福沢に、のちの超国家主義者たちが見出すようなネイションに関する〈美学〉はない。愛国心に美しさや素晴らしさを見出してはいない。初編で述べているように、そういう〈美学〉は「さまであがめ貴(とうと)むべきものにあらず」と言っている。「あがめ貴(とうと)むべきもの」への傾倒や、依存を批判しているのである。

よってこの第二条において、

独立の気力ない者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつ)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきことを恥じず、論ずべきことを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。

「依頼」すること、「恐る」こと、「諛う」こと、そしてそれに「慣れる」ことを否定し、それらからの「独立」を説いている。そのための「学問」ではないか。

第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。

先に福沢の論の危うさと書いたが、洋学者でありながら西洋崇拝に陥らない思考は、その徹底した相対主義によって支えられている。当時の日本がおかれた環境、世界の情勢のなかで、よりマシな選択を重ねて書かれている。今川兵とフランス人を比較するのも、彼此の善悪を言っているのではなく、あくまで強弱を相対的な観点から見ている。

よって、この第三条では、

国民に独立の気力いよいよ少なければ、国を売るの禍もまたしたがってますます大なるべし。すなわちこの条のはじめに言える、人に依頼して悪事をなすこととはこのことなり。

とたとえば「外国人雑居」などで「その名目を借りて奸(かん)を働く者」の害を指摘しているものだが、「外国人」が悪いのではなく、「その名目を借り」る者が悪いという論旨になる。それは「独立」ではないからだ。もちろん、これは道徳的な善悪ではない。その「依頼」が「国を売る」ことによる「禍」の大きさ、つまり大小を言っている。

日本語の〈売国奴〉に含まれる感情的な罵言としての語感はここにはない。

パクス・ブリタニカの時代

福沢はオランダから大英帝国ヘゲモニーがうつった、その全盛期と世界に住んでいた。当時、どうにもならないほどの小国であった日本が生き残るためには、〈美学〉や絶対主義に陥ることは許されなかった。

インドや清が抵抗したように抵抗すれば滅ぶしかないし、といってその文明をなし崩しに受け入れればそれはもはや日本ではない。

『学問のすゝめ』において称揚された「実学」は、〈虚学〉=〈美学〉に対置されるものだ。相対主義と絶対主義の違いである。絶対主義が世界の向こうにあるべき姿を見出すのに対し、福沢の相対主義は、あるがままの世界を見る。あるがままの、その世界というゲームのルールを認識させる。前者がゲームのルールに文句をつけることを専らとするなら、福沢はとにもかくにもルールを覚えることを説く。福沢にとって一身一命を賭けて学んだ洋学すら、ここにおいては「実学」、一個の道具に過ぎない。

しかし、そこでうまく立ち回ればいいわけではない。それだけでは「国を売る」ことをも厭わない輩を生むからだ。

よってその「独立」とは、個人や国家、それから列強の作ったルールからの「独立」をもさしている。彼此を比べて相対的にあらゆるものから「独立」してゆくなら、それは当然の帰結である。

今の世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀(はか)り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商ともに独立して国を守らざるべからず。概してこれを言えば、人を束縛してひとり心配を求むより、人を放ちてともに苦楽を与(とも)にするに若(し)かざるなり。

第三編を、福沢はこう結ぶ。余計ごとかもしれないが、ここの「愛国」はナショナリズムを意味していない。繰りかえすが、彼此を比べて相対的にあらゆるものから「独立」してゆくなら、その陥穽からも「独立」できるからだ。強いていうなら、仏法にいう方便である。

もちろん、日清戦争だけを見届けて亡くなった福沢諭吉にとって、その先のことはその先の日本人の仕事であったろう。それはヴィクトリア女王が、ヨーロッパ中にいた自分の子や孫同士が、互いに殺しあう、第一次大戦を見ずに崩じたことに、似ているのかもしれない。

いつでも平和は、生きている人間の責任である。

 

*1:青空文庫『学問のすゝめ』より引用。以下引用は同書による

*2:小泉信三福沢諭吉岩波新書

*3:E・ケドゥーリー『ナショナリズム学文社。アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム岩波書店アントニー・D・スミス『選ばれた民』青木書店。参考

福沢諭吉『学問のすゝめ』維新と腐敗

明治初年は文芸文学の空白地帯とされる。

それを埋めてあまりあったのが福沢諭吉『学問のすゝめ』や中村正直『西国立志伝』、他、明六社同人の啓蒙活動である。

その「実学」への偏重は、文学はともかく明治以降の「学問」のありかたを決めた。それについては明六社のはなしになるから譲るが、近代文学史が近代思想史からはじまることは、不思議といえば不思議である。

少なくとも『学問のすゝめ』は、文学っぽくない。

それは昔のひともそう思ったようで、この作文でもしばしば参照にしている筑摩書房の『明治文學全集』はその第一巻を「開化期文學集」と銘打って戯作文学からはじめている。

正しいかどうかまでは筆者には分からないが、れっきとした編集方針が察せられる。

第一、二巻を戯作にさき、第三巻で明六社。それから政治小説、翻訳小説とつづいて、第八巻目にしてやっと福沢諭吉を配置している。

すぐれた全集というものは、背表紙だけでも勉強になるらしい。

さて、言わずと知れた福沢諭吉の『学問のすゝめ』。筑摩の全集には載っていない。手に入りやすいものは他に譲る、というのが編集方針だからだろう。これも『明治文學全集』の特徴である。

著作の多い作者の場合、取捨選択に編集子の苦労がしのばれる。

よって今回は、青空文庫の『学問のすゝめ』を使って読んでいる。管理者並び耕作員諸氏に深く感謝する。

『学問のすゝめ』初編から第三編

思想家で思想の暗さがないのは福沢の特徴で、それをよく表わしたのが『福翁自伝』である。からっとして快活なところは『氷川清話』とともに明治の自伝物、その双璧をなしている。しかし、死ぬまで政治家であった海舟は『清話』といいながら、韜晦をちりばめていて、言葉のままには受け取れない。その点、福沢のほうが発言に負債が軽くてすんでいる。立場と生き方の違いである。

幕臣から転じて在野の教育家・思想家としての明治を迎えた福沢諭吉は、当時すでに一級の著名人であった。『西洋事情』はじめ著書は、旺盛であった西洋文明にたいする知識欲によってよく読まれ、よく売れた。

しかし、それは西洋文明の紹介屋のしごとで、思想家としてのそれではなかったとも言える。そうした中で、系統だっているとは言えないが、少なくとも読み書きができるなら誰でも分かるように〈思想〉を述べたのが、『学問のすゝめ』になる。

初編は明治5年(1872)2月刊行。これが飛ぶように売れたとは服部撫松の回で記したとおりだが、翌6年に第二編、三編、7年に第四、五編が刊行。明治9年までに全十七編が書き続けられ、今見る形と内容の一書が完成する。

この作文では、初編から第三編までに触れる。構成と内容上、四編以下とは分けて読まれるべきだろう。

攘夷から開国

何度も言っているが、明治5年は、版籍奉還廃藩置県の強行とその意外な成功に意を強くした新政府が、海外視察に向かったその年である。

もちろん「意を強くした」のは福沢も同じであった。

そもそも明治維新には、言ってみれば、詐術があった。国内の尊王攘夷派や草莽の諸隊、農民一揆などの勢力を討幕にもちいたが、これらをことごとく裏切ることで維新政府は成立した。dokusyonohito.hatenablog.com

そのためには神権的な天皇をいただく政体をも、一時的にとはいえ採用さえ、した。*1

しかし、明治4年(1871)太政官職制を定め、政権の枢機を薩長土肥で独占する有司専制体制を敷く。目的は、近代文明国家をつくるためで、反対勢力を権力から放逐した。

まず旧大名が版籍を失った。尊攘勢力の牙城であった刑部省と弾正台は廃止、司法省へ移管。大学は文部省へ、神祇官は神祇省へ格下げ。民部省は大蔵省に合併されて国内財政の中央機関になり、宮廷からは女官がいっせいに罷免された。また事実上の東京遷都が確定するのも同じ時期だ。四民平等。「穢多・非人」の称の廃止。

暗殺の心配

開明開化へと一気に舵が切られたのである。福沢が「意を強くした」のは、じしんの「開明文化論」がうけいれらる情勢になったという判断である。この判断の背景には、

私の言行は有心故造(ゆうしんこぞう)わざと敵を求める訳(わ)けではもとよりないが、鎖国風の日本に居て一際(ひときわ)目立つように開国文明論を主張すれば、自然に敵の出来るのも仕方がない。その敵も彼是(かれこれ)喧(やかま)しく言うて罵詈(ばり)するくらいは何でもないが、ただ怖(こわ)くてたまらぬのは襲撃暗殺の一事です。*2

と「暗殺の心配」という一章を立てて記しているように、開明反動派による「暗殺」が、現実の心配としてあったということがある。それまでの福沢が、読者を知識人層にかぎった「紹介屋」にとどめていたのは、こうした現実情勢も影響しているだろう。

こうした「心配」が杞憂でもなんでもないのは、明治2年には大村益次郎が襲撃され、落命していることからも窺われる。政治家が政争によって殺されるのは、桜田門外の変以来ずっとつづいていた現象だが、明治になったにも拘わらず、純粋なテクノクラートであった大村の死は、福沢を「心配」させたに違いない。

そうしたなかで、政府による開明開化政策に、抵抗や反動がなく、むしろ新文明を受け入れようという機運の高まったことを見た福沢は、彼の思想を、知識人に限らず、大いに語り始めたのである。

『学問のすゝめ』初編

本書が〆て十七編あることはすでにふれたが、初編から第三編までは意味内容からひとまとめにできそうだ。第六編以降になると文体も変わり、多少知識が無いと難しくなる。そして時代情勢を反映して、論旨もすこし変わってくる。

よってまず、初編から第三編までで、くくって読む。まずは初編。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言へり。*3

読んだことがなくとも誰でも知る書き出し。天賦人権論と呼ばれる人権思想、それから平等が説かれている。とはいえ、貴賤貧富、賢不肖は存在する。それを「学問」によって越えることができるというのが福沢の説く平等と権利である。

「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。

明治4年に刊行された中村正直の『西国立志編』にも見える〈自助論〉である。むりやり延長させれば、こんにちの自己責任論にまでつながる誤解を生む元だねとも言える。そしてその学問によって結果としての「貴賤・貧富」の違いが出てくることを述べた上で、

学問とは、ただむずかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上の実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦(よろこ)ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴(とうと)むべきものにあらず。

学問の虚実を分け、「実学」の貴ぶべきことを指摘し、

士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身を独立し、家も独立し、天下国家を独立すべきなり。

という。「文学」と言っているが、漢文を筆頭にいただいた古典世界および、儒教国学からの離脱を指している。ちなみに、福沢を襲撃しようとした中に増田宋太郎がいたことは『福翁自伝』にも出てくる。増田は福沢にはいとこにあたるが、水戸学を学んだ尊攘派の人物である。「調法なれども」「さまで」というあたりに、断言しきらない逡巡が見える。

いっぽうで、

学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繋(つな)がれず縛られず、一人前(いちにんまえ)の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限(ぶんげん)を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。

J・S・ミルの『自由論』に見えるような、ある種の〈愚行権〉によって、「自由」を補足、定義している。

そして「自由独立」を「人」から「国」に拡大して同様の論をすすめる。「自由独立」によって「互いの交わりを」「結」ぶことができると説く。

支那人などのごとく、わが国よりほか国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤しめこれを嫌い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘(くる)しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。

アヘン戦争以降、大いに国力を落とした清国への批判は、手厳しい。のちに『脱亜論』に結びつく視点である。また、アジア的封建性が西欧文明に屈するすがたに同情しないのは、福沢自身の幕臣としての経験、封建的機構の内側にいた経験からの分析であろう。清国の凋落に対し、日本は王政復古により「政風大いに改まり」、

今より後は日本国中の人民に、生れながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処(きょしょ)とによりて位もあるものなり。

儒教に基づく身分制はなくなったのだから、

人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、これを包みかくして暗に上(かみ)を怨(うら)むることなく、その路を求め、その筋より静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶うならば、一命をも抛(なげう)ちて争うべきなり。これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。

これこそが「自由独立」の「人民」のすがたであるとする。こうした「自由独立」を守るためには「一命をも抛」つべきだが、しかしそのためには前提となる「物事の理」を知らなければならない。よって、これを知るために「学問」が「急務」なのだと説く。

しかし、ここに「自由」のために暴力に訴えることは否定する。

知恵なきの極(きわ)みは恥を知らざるに至り、己(おの)が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴(ごうそ)・一揆(いっき)などとて乱暴に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。

先に述べた〈自助論〉と同じ理屈のように見えて、為政者の視点である。あるいは社会の混乱を予見した理屈である。政治の主体が、どこにあるのかわかりにくい。読みようによっては民権論から民主主義、共和主義から無政府主義アナーキズムまで引き出すことも可能だ。よって「徒党を結び強訴・一揆などとて乱暴」は許されないとそれを否定するわけだが、この「乱暴」への抑止は、「恥」と「法」という儒教ふうの道徳倫理を持ち出すしかない。フランス大革命以降の混乱が念頭にあったものか。

また、「愚民の上に苛(から)き政府あり」と「西洋の諺(ことわざ)」を引用した福沢は、「学問」によって「智恵」を身につけ、「文明の風に赴」けば、「良政」の政府をいただくことができると言い、

大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行いを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政(まつりごと)を施すに易(やす)く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。

と結ぶ。

『学問のすゝめ』の目論見

江戸末期から横溢していた〈世直し〉の機運と意志が、討幕維新へと歴史を動かしたことは先に述べた。そのエネルギーは、強大と思われた幕府という政治権力をも打ち倒すものであった。これに何らかの方向性をあたえて矯めなければ、その矛先が新政府に向かうことは火を見るより明らかなことであった。

明治4年太政官職制他の政策は、政治によるこの方向性の提示であり、『学問のすゝめ』はとうぜんこれに呼応したものだ。けして抽象的な理想論ではありえない。

ややもすれば無政府主義を志向しそうなそれを、つなぎ止め、方向性を与えようとする意図が見える。

「自由」「平等」を唱えたから福沢先生は偉いんだろうと思って読むから、そう読めるだけだ。今なお生き続ける思想、というなら、今だに果たされていない思想とも言えるのである。

啓蒙思想の弱点は、抽象的な、普遍的なことがらを論じている場合には、威風堂々、敵するものはないのであるが、それを具体的に社会にあてはめて論ずる際、急に調子が弱くなる点にある。

四民平等を唱えた論旨は、具体化されると「分限」をわきまえるという儒教的階梯のはなしになってしまうし、四海同胞の世界認識に、「支那」は含まれない。

しかし、この背反した論理も含めて、というより、この二律背反の矛盾こそが民衆に広く受け入れられた秘訣なのではないか。その都合のいい矛盾が。

さきに自由民権運動と言ったが、明治の労働争議や社会運動は、この矛盾を突いたものである。「徒党を結び強訴・一揆などとて乱暴」する暴力的側面を含む〈世直し〉への希求が、活動家たちをそこへ導く。そして、彼らがことごとく潰えていく例は、たとえば草莽の相良総三が諏訪で斬首されたように、いくたびも繰り返される。

もとより、それら頓挫の原因はひとつではないが、日本的風土の特徴とだけ言っておく。以前書いた中野重治の『村の家』にも繋がるそれは、矛盾が、活動家や知識人が論理的に批判するよりも、ずっと緊密に、権力と民衆を結んでいることだ。矛盾は矛盾だが、それによって権力と民衆はひそかに結託しているのである。

おそらく福沢はそこまで見抜いたうえで、新しい思想を「すゝめ」る。しかし、新しい倫理、思想を支える倫理は提示しない。それが末尾の「一身の行いを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて」云々である。修身斉家治国平天下。福沢の否定した儒教そのものではないか。

しかし、幕末から襲撃暗殺謀殺にさらされた、そしてそれを生き延びた福沢は、生きる「智恵」を身に着けていたはずだ。正しいことだけを正しく言う者がつぎつぎと斃死してゆくのを見すぎるほど見ていたろう。

しばしば、明六社中、福沢諭吉だけは体制寄りでなかったとされるが、ほんとうだろうかというのが筆者の疑念である。

穏健な中立派こそが体制を支えるのは古今変わるまい。

『学問のすゝめ』第二編、第三編は、好評を博した初編につづいて書かれたもので、初編の補足とその敷衍である。

素読と会読

古来世の人の思うごとく、ただ文字を読むのみをもって学問とするは大なる心得違いなり。*4

これは素読が、初等教育であった当時には新しい考え方であっただろう。

福翁自伝』に「年十四五にして初めて読書に志す」の項に、初めて素読を習った話がでているが、素読はまずともかく読むことだけを覚え、しかるのち「会読」といって意味を取るのだが、初歩であっても福沢は素読を教えてくれた先生に「会読をすれば、必ず」「勝」ったと言っている。また、緒方洪庵適塾の教え方も同じであったようだ。「素読を授ける傍らに講釈をも聞かせ」「文典が解せるようになったところで会読をさせ」たものらしい。

ここで福沢は学問の種類を挙げて「心学」「神学」「理学」を「無形」とし、「天文」「地理」「窮理」「化学」を「有形」としている。とうぜん、いずれも「知識見聞を開く」ためのもので、「文字を読むことのみを知りて物事の道理をわきまえざる者はこれを学者と言うべからず」と。

そして、実地になにごとをかなさない学問は「無用」すなわち実学という考え方が示される。

天賦人権論

ここまでが第二編の「端書」でつづいて「人は同等なること」として人間の平等を説く。「権理道義の等しき」と書いている。

その喩えとして「大名」「人足」「役人」「商人」あるいは「相撲取り」「お姫様」とこの世にさまざまな「人々」があるけれど、

その権理通義とは、人々その命(いのち)を重んじ、その身代所持のものを守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心の動きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛けを設けたるものなれば、なんらのことあるも人力をもってこれを害すべからず。

前回は天賦人権論とかんたんに書いて澄ましていたが、この福沢の説くところは、個人に不可侵の権利が先験的にそなわっているのだとしたら、社会の主体者はその構成員である個人になる。たとえば加藤弘之は福沢と同じ天賦人権論を主張していたが、のち〈転向〉して儒教の身分制を認める。人はもともと不平等だという考えにかわる。民選議員設立には時期尚早を唱えるに至る。

それは政治的、現実的な判断であったといえようが、権力の暴圧に抵抗する民衆に〈言葉〉を与えたという意味で『学問のすゝめ』の価値は重い。家永三郎の『革命思想の先駆者』(岩波新書)という植木枝盛の評伝によれば、外国語のできない植木枝盛は「三田と明六社」の講演に足しげくよったらしく、また『西洋事情』や『学問のすゝめ』を愛読していたという。

腐敗と擾乱

しかるに今、富強の勢いをもって貧弱なる者へ無理を加えんとするは、有様の不同なるがゆえにとて他の権利を害するにあらずや。これを譬えば力士がわれに腕の力ありとて、その力の勢いをもって隣の人の腕を捻(ねじ)り折るがごとし。隣の人の力はもとより力士よりも弱かるべけれども、弱ければ弱きままにてその腕を用い自分の便利を達して差しつかえるなきはずなるに、いわれなく力士のために腕を折らるるは迷惑至極と言うべし。

言うまでもなく、「力士」は政治権力の謂い、「隣の人」は国民民衆の喩えである。

「そもそも」と福沢は言う。

そもそも政府と人民との間柄は、前にも言えるごとく、ただ強弱の有様を異にするのみにて権理の異同あるの理なし。百姓は米を作りて人を養い、町人は物を売買して世の便利を達す。これすなわち百姓・町人の商売なり。政府は法令を設けて悪人を制し、善人を保護す。これすなわち政府の商売なり。この商売をなすには莫大の費えなれども、政府に米もなく金もなきゆえ、百姓・町人より年貢(ねんぐ)・運上(うんじょう)を出(い)だして政府の勝手方を賄(まかな)わんと、双方一致のうえ相談を取り極めたり。これすなわち政府と人民との約束なり。

ちょっと長く引用してしまったが、明治5年のいわゆる留守政府において、前回見た太政官制改革から始まった国内整備は加速した。攘夷思想から急な開明思想への転換は、多くの反動的な混乱を巻き起こした。*5

民衆のあいだには、たとえば戸籍制度や徴兵令に関して文字通りの膏血を絞るためだなどの風聞が伝播し、新政府に反対する一揆が各地で起きた。被差別民部落への放火、殺戮も発生し、維新そのものを否定する動きすら見せていた。

また新政府の財政も、廃藩置県によって財政規模こそ拡大したが、支出のうち1/3は家禄支給であるという悲惨とも言うべきありさまであった。

そして、明治5年(1872)、山城屋事件が起きる。陸軍御用商人山城屋和助がとうじ65万円(一円あたり今でいう二万円に該当か)にのぼる陸軍省の公金を借り受けていたが、返却に失敗し、同年11月、陸軍省一室で証拠書類一切を破棄して自殺した。江藤新平司法卿は近衛将校とともに厳しく追及したが、和助の自殺により追及は頓挫した。しかし、山城屋による長州閥への多額の遊興費の贈賄もあきらかになった。

さらに明治6年(1873)、これも陸軍御用達三谷三九郎が投機失敗により破綻。明暦以来の豪商であったが、山城屋同様、陸軍省からの公金の前貸しが発覚した。

また、明治4年に起きた尾去沢鉱山払い下げをめぐる疑獄も発覚。それぞれ山縣有朋井上馨は、辞任、罷免されたが新政府の職権乱用や贈収賄がはびこっていた。

厳しく追及を行ったのは江藤新平だが、明治6年に江藤は下野。さらに翌7年佐賀の乱連座して梟首された。「梟首」に山縣や井上の憎悪を見るべきだ。

よって、「権理の異同あるの理なし」の一文は原理論でありながらも、ただの一般論を述べているのではない。また、「政府と人民との約束」は社会契約論のことだ。

しかるに幕府のとき政府のことをお上(かみ)様と唱え、お上の御用とあらばばかに威光を振うのみならず、(中略)旦那が人足をゆすりて酒代を取るに至れり。沙汰の限りと言うべし。

「幕府」と言っているが当然、新政府のことをもさしている。そして、平等は、法の下の平等へと論が進む。

およそ人を取り扱うには、その相手の人物次第にておのずからその方の加減もなかるべからず。

しかし、「人民」における蒙昧も新政府同然であることを言う。

その無学のくせに欲は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁(のが)れ、国法の何ものたるを知らず、己(おの)が職分の何ものたるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子繁盛すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず。

つまり、

これすなわち世に暴政府のある所以(ゆえん)なり。ひとりわが旧政府のみならず、アジア諸国古来みな然り。されば一国の暴政府は必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず、その実は人民の無智をもってみずから招く禍なり。他人にけしかけられて暗殺を企つる者もあり、新法を誤解して一揆を起こす者あり、強訴を名として金持の家を毀(こぼ)ち、酒を飲み銭を盗む者あり。

ずいぶんと引用ばかりしてしまったが、最後に新政府の改革に反対した騒擾をあげておく。

明治5年(1871)8月、広島芸備16郡での「郡中百姓騒動」。廃藩置県に伴い、藩主浅野公が離藩すれば、「世の中は暗闇の様に成る」という藩主の東京移住に反対したものである。流言飛語繁く、「太政官は異人が政事を取扱う処」。あるいは、庄屋に太政官が「耶蘇宗の秘仏」を渡した。「異人」に百姓の娘や牛馬を差し出せたなど。太政官が異人に支配されているという誤認と、藩主という「お上」不在の不安から騒動になった。*6

また同年9月には旧福山藩でも藩主を引き留めるため、官員宅や富豪の家に放火があった。このときも、芸備16郡同様の流言がなされた。

さらに同年暮れから翌明治6年にかけて、高知県北西部でも同様の騒擾があった。

明治6年(1873)に発令された徴兵令がこれを加速させた側面があり、明治7年(1874)には秋田県平群郡では「血税」の誤解による騒擾事件が起きた。

挙げればきりがないので、もう止すが、以上は『明治初年農民騒擾録』に詳しい。

ただ、これらの騒擾の対象でもっとも数多くの死者を出したのが被差別部落襲撃であったことを付け加えておく。

腐敗した政府に、蒙昧な人民、そしてその人民はさらに弱者をなぶりものにする。

 

『学問のすゝめ』は、抽象的な理想論ではなく、今そこにある現実への批判と啓蒙の書であったのである。

 

*1:以下『岩波講座 日本通史』第16巻「一八五〇ー七〇年代の日本ー維新変革ー」安丸良夫を参考

*2:岩波文庫福翁自伝』より引用

*3:青空文庫『学問のすゝめ』より引用。以下引用は同書による

*4:青空文庫『学問のすゝめ』より引用。以下引用は同書による

*5:以下『岩波講座 日本通史』第16巻「一八五〇ー七〇年代の日本ー維新変革ー」安丸良夫を参考

*6:以下『岩波講座 日本通史』第16巻 鶴巻孝雄「民衆運動と社会意識」を参考

坪内逍遥『河竹黙阿弥伝 序』歌舞伎の歴史

坪内逍遥が「新旧過渡期の回想」*1と題して、明治初年から10年あたりまでの文学の動向を、懐古的に記している。

小説神髄』を著して、ちょっと外に類例のない実践編を含む概括的な理論書をものした逍遥だから、目配りがきいていて、全体像をつかむことに優れている一篇になっている。

明治10年で区切る、というのは数字としてキリがいいからではなく、この年に西南戦争があったからである。不平士族の乱に見られる維新のやり直し、その武力抵抗が終焉を迎える。これを受けて、そののちの自由民権運動は、言論による維新の素志を継いだものとなる。西南の役で、鎮台兵の大砲や小銃が薩兵を攻略したように、新聞・雑誌によって形成される世論を、明治政府は新聞条例や讒謗律でとりしまり、その記者たちを下獄せしめた。成島柳北末広鉄腸、藤田茂吉。

文学史でいえば、政治小説ならびに翻訳小説の時代となり、長谷川二葉亭の文壇への登場で明治20年。このあたりになると急に目の当たりが明るくなるのは、小説偏重の文学史でものごとを捌いていけるからである。

はなしを戻す。

歌舞伎の歴史

逍遥は明治10年までの「民間文芸」を振り返ってこう書いている。

社会一般は、まだまだ四分六分の継粉よろしくで、ほんの橋渡しが済んだばかりの過渡状態に止まっていた。随って其反映である所の民間文芸が混沌未分の境に彷徨していたのは自然の数である。其うち劇だけは、作者に、五瓶、南北以来の巨匠河竹新七の其水(黙阿弥)がおり、三世治助や三世如皐がおり、若手の俳優には、――最も多く嘱望されていた彦三と田之助は、ちょうど其頃相ついで夭折してしまったものの、――例の団、菊、芝、左が恰も躍進しはじめた時であったので、むしろ一種新鋭の意気を発揮しはじめていたともいえる*2

さて、これだけではわかりにくいので、小西甚一の『日本文学史*3を頼りに歌舞伎史をたどってみる。

江戸初期

まず、歌舞伎の隆盛は安土桃山から江戸初期にかけてである。そして元禄期には初代団十郎藤十郎が東西にあった。ただ、このあたりは不詳である。文字だけで書かれた創作にくらべて、舞台で演じられることで一回ごとに完成する演劇は実態が伝わりにくい。能狂言の台本、謡曲集などをいじくり回したテクストだけを独立させた分析も、ずいぶん昔からあるが、たいして面白くはない。演劇は演じられて観られなければ完成しないのである。

そして、歌舞伎の場合、その黎明期にすでに東西の二大俳優をもってしまったために、役者をまず鑑賞するという今にまで通じる観劇法を確立してしまった。そのせいもあって正徳年間(1711-1715)にはいると、話の筋が売りの人形浄瑠璃に圧され、やっと宝暦年間(1751-1764)に勢いをとりもどす。

江戸中期

歌舞伎再興の功績者は、大阪の並木正三。そして江戸では桜田治助(初代)。今、鑑賞観劇されている歌舞伎はこの時代の後継である。せり上がりや回り舞台は並木正三の工夫である。また、初代治助が、今でも観られる、常磐津、富本(とみもと)、豊後節系統の浄瑠璃を地方(じかた)につかった舞踊劇を数多くつくった。治助が改良に大きくかかわった「助六」は江戸歌舞伎の傑作のひとつとなる。

浮世離れした江戸歌舞伎に対し、京阪の上方歌舞伎は世話物をよくし、両者の融合をはかったのが初代並木五瓶であるが、このころ松平定信による寛政の改革がおこる。

弾圧された歌舞伎は、舞台技巧と官能的刺激に活路を求め、鶴屋南北(4代目)の時代となる。知られたところで仕掛けと早替わりで、有名な「東海道四谷怪談」では技巧と官能、といっても暗い官能が、尽くされている。

南北において、ある種の、悪の美学が見いだされ、5代目松本幸四郎が活躍した。

江戸後期

文化文政以降、扇情的な、濡れ場、殺し、に見せどころを置く。そして成熟した観客は、定型化した芝居を求めるようになる。このころ清元がおこり、清元・常磐津・富本のほか長唄が地方になり、七変化、十二箇月などの短い舞踊がつくられる。

幕末には市川海老蔵(七代目団十郎)があらわれる。九代目団十郎において実現する「勧進帳」の新作など時代に先んじた取り組みがあった。

そして嘉永年間から登場するのが河竹黙阿弥で、四代目市川小団次、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、七代目市川団蔵と、それほど詳しくなくとも名前くらいは知っている名優たちに、描き分けた手腕は特筆すべきものがある。

しかし、明治20年まで、君臨といってもいいほどの名声と権力を歌舞伎にふるった黙阿弥の保守性は、江戸歌舞伎の集大成をこそなしとげたが、近代劇への変化を妨げ、いわゆる歌舞伎の近代化、は二代目市川左団次を俟たなくてはならないのである。

古典芸能と近代文学

なんだか、Wikipediaみたいなことを書いてしまったが、演劇ではなく〈文学〉として見た歌舞伎はちょっと論じようがないのである。舞台を観た楽しさが、詞章をいじくるつまらなさを際立たせる。観るものではあっても、読むものではない。

舞台上で、身体性や空間性に飛躍拡大してゆく楽しさを切り捨てたところに、文字だけによる〈文学〉が成り立っている。

おそらく読者のおおくが呆れたであろう、今回の歌舞伎史は、近代文学が捨てた古典の遺産のひとつである。もちろん、歌舞伎は滅びもしなかったし、今なおある。けれども、戯作と花柳界と浮世絵とが混然と文化をなしていた世界は今ではちょっと想像が難しい。

dokusyonohito.hatenablog.com

前に三島由紀夫の『近代能楽集』をほんの少しだけ書いたが、たぶん、三島は能楽堂で〈観て〉いない。〈観て〉この作品を書いたかどうか疑わしい。筆者は〈読んだ〉ものだろうと思う。しかし研究者でもないから、証明もできないので、明らかに疑わしい「弱法師」一篇だけを取り上げた。

しかし、仮に三島が〈読んだ〉としても批判とか非難のつもりはない。

江戸期の文化が混然と一体化していたような回路が、近代文学には無いのである。

逍遥と黙阿弥と桜痴

「『河竹黙阿弥伝』序」*4坪内逍遥の手によるもので、黙阿弥の評伝評価としては随一のものだ。

近松門左衛門を「徳川文芸の興隆期に於ける最初の最大の集大成者」とし、黙阿弥を「其頽廃期に於ける最後の集大成者」とする評価はおそらく今なお変わらない。

逍遥は、江戸期の歌舞伎・浄瑠璃は「遊戯本位」で、黙阿弥もそれを免れることはできないが、「生の観察の比較的真面目にして細緻なるは彼れが作の特徴」であるとする。

そして黙阿弥が、依田学海や福地桜痴による〈演劇改良運動〉への「指導」と「橋わたしの役」をつとめたことを、功績に挙げている。しかし、啓蒙開化期の〈事実性〉を重んじる「活歴物」は先にも挙げた九代目団十郎によって実現するものの、歌舞伎は歌舞伎の中に閉じてゆく。とくに桜痴の〈運動〉への興味は渡欧したさいに観たシェークスピアに由来しているものだ。

こうしたなかで、黙阿弥は桜痴から依頼されてエドワード・ブルワー=リットンの『マネー』の翻案『人間万事金世中』を作っている。観ていないからなんとも言えないが、話の筋立てを見るかぎり、世話物として成立しているのか分からない。

また黙阿弥がグラント大統領来日に『後三年奥州軍記』を仕立てたのも、桜痴がかかわっていたらしいが、これはもう別の話なので措くしかなさそうだ。

dokusyonohito.hatenablog.com

小西甚一『日本文学史

今回参考にした小西甚一『日本文学史』は、〈文学〉を言語営為とその創作全般まで広く視野をもった文学史である。ドナルド・キーンが絶賛といってもいい評価をし、解説も書いている。歌、漢詩漢文、能狂言連歌俳諧、草子物、歌舞伎浄瑠璃から近代文学まで、「雅」と「俗」という美学的な基準で手際よく整理されている。

文学ジャンルの相互関係、相関性を述べた文学史を筆者はほかに知らないので今回参考にしたものである。

 

さて、今回はいつもにもまして散漫な話になったが、「其頽廃期に於ける最後の集大成者」である黙阿弥以降、歌舞伎=演劇と近代文学はだんだんと袂をわかってゆく。歌舞伎が歌舞伎に閉じてゆくと書いたが、近代小説もその中に閉じてゆく。たとえば漱石や鷗外などは、〈文学〉が諸文化の総合的なものであることを知っていたが、相互的な回路は閉ざされて、〈文学〉は小説を指すようになってゆく。

この作文ではずっと先の話だが、この〈文学〉が純文学と呼ばれ、やがて完全に滅び、漫画やアニメーションやTwitterのつぶやきの一分野になるところまで書けるかどうか。

そんな見取り図のために名著の力を、今回借りた。

 

*1:『明治文學全集2 明治開化期文學集(二)』所載参考。引用は仮名遣いと旧字体をあらためた。

*2:前掲書より引用

*3:講談社学術文庫

*4:『明治文學全集9 河竹黙阿弥集』所載参考。引用は仮名遣いと旧字体をあらためた。

仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』新聞連載のさきがけ

前回、『鳥追阿松』について書いた。これはもう、誰も読むひとがないだろうと思ったら、案外そうでもない。どこの誰が読んでいるんだろうと思えば興味は尽きないが、話も尽きないので続きを書く。*1

今のところ、硯友社から少し先までの本をひっくり返してながめているが、近代文学らしきは明治も30年くらいまで俟たないと出てこない。変化という点に着目するなら、そこからは大した変化がない。殆どそのまま今に至っているとも言える。

この時代、明治初年の戯作について見なければならないのは、〈三条の教憲〉を経て、崩壊寸前になった戯作が〈新聞〉という媒体を通じて変化してゆく、という処だろう。

それが〈つづき物〉であったとは前回冒頭で触れたが、その前に〈三条の教憲〉について。前回、書いてなんの説明もしていなかった。

〈三条の教憲〉と教部省

明治5年4月、〈三条の教憲〉は教部省より発令された。

一、敬神愛国の旨を体す可きこと

二、天地人道を明にすべきこと

三、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと*2

前掲書により解説を引用する。

これは、惟神(かんながら)の道に、実学思想や合理精神を加えた国教宣布の教憲で、その趣旨普及のために、神道家、仏教家、民間有識者などが教導職として動員されたが、さらに、戯作者、俳優、講釈師なども作品や舞台を通じて啓蒙に一役買うべく要請された。

教部省明治10年に廃止されるが、流れとしては慶応4年の新政府における第一次官制、太政官七科筆頭に神祇科が置かれたことが始まりだ。明治2年に令制にならって神祇官太政官のうえに置かれる。神仏分離廃仏毀釈として知られる〈国体神学〉を奉ずるイデオローグたちが現れたが、その復古主義は時代錯誤なものでさまざまな混乱をもたらしたことは、よく知られている。

dokusyonohito.hatenablog.com

明治4年島地黙雷教部省設立の建言を提出する*3。〈国体神学〉の宣布者たちが混乱をもたらしながらも訴えていたことは、西洋文明が日本に入り込み〈国体〉を損ねるというもので、黙雷はこれに仏教を加え、神仏混交の教化体制を建言した。そして発令されたものが〈三条の教憲〉になる。

そして、いささか抽象的な〈三条〉に加えて明治6年3月、「十一兼題」が定められる。

神徳皇恩、人魂不死、天神造化、顕幽分界、愛国、神祭、鎮魂、君臣、父子、夫婦、大祓*4

そしてされに同年10月

皇国国体、皇政一新、道不可変、制可随時、人異禽獣、不可不教、不可不学、万国交際、権利義務、役心役形、政体各種、文明開化、律法沿革、国法民法、富国強兵、租税賦役、産業産物*5

「十七兼題」が出される。

教部省の混交ぶりを反映して、前近代的なものと近代的なものとが混在している。もちろん、比重は前者にある。和魂洋才という月並みな言い方を借れば、技術的なものだけに西欧文明の流入を抑えようという意図が見えるだろう。

そして二つの「兼題」に基づいて、神道・天台・真言・浄土・臨済・曹洞・黄檗真宗日蓮時宗・融通念仏の合計100,435人が教導職となり、全国で説教宣布が行われるという壮大な実験が行われた。

結果は、火を見るよりも明らかとも言えるが、完全な失敗に終わった。その経緯は省くが、「兼題」の混乱ぶりと参加集団を見えれば見当がつくかと思う。

啓蒙の時代と戯作

幕府瓦解により、戯作を成立させる文化的経済的基盤を失っていた戯作者にとって、〈三条の教憲〉発令は、良くも悪くも、大転機であった。ちなみに、この発令時、仮名垣魯文は山々亭有人*6とともに戯作界を代表して答申書を提出し、〈転向〉作品となる『大洋新話蛸之入道魚説教*7』なる奇妙な作品まで書いている。連作が予定されたが第一篇で終わった。

もともと天保の改革いらい衰微していた戯作であったから、そのまま無くなってもおかしくはなかったのである。しかし、その逼迫は、その外へと世界を拓いた側面もある。今で言えば一般読者の存在を意識させることになった。

もちろん、出版全体からみれば、筆頭は言うまでもなく明治初年は福沢諭吉の時代である。『学問のすすめ』『西洋事情』『世界国尽』『窮理図解』『かたわ娘』など次々と刊行された著作は、明治の貴賤かかわりなく、字の読める者はみな読んだと思っていい。

戯作者たちの節操のなさは、これにあやかってなされた作品に見られる。『西洋事情』に『西洋道中膝栗毛』、『窮理図解』に『胡瓜遣』、『かたわ娘』に『当世利口女』といった具合である。のちに福沢が版権、著作権を訴えるに至る伏線は、こういったところにある。

しかし、一応、この戯作者たちを庇っておくと、古今のアイデア、構成、趣向、知識を、パッチワークのよりに綴れ織りに作るのが戯作の本領なので、帰属する文化が違うのである。

戯作から「外」を目指した彼らが至ったのは新聞である。当時の新聞には大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)とがあるが、ひとまずここでは小新聞について書く。
新聞記者のなかには、多くの戯作者たちがいた。仮名垣魯文に関していえば、明治10年を過ぎるまで、彼は戯作を封じ、記者に転じている。

明治5年 地理教科書『首書絵入世界都路』、実用書『西洋料理通』

明治7年 『横浜毎日新聞』入社

明治8年 『仮名読新聞』創刊

明治10年 佐賀の乱西南戦争ルポルタージュ『西南鎮静録』

これらの経験は、書くことに関する〈事実性〉というものを魯文に教えたし、また読者たちは〈事実性〉を〈新聞〉に読むようになったのである。

そしてこの〈事実性〉という啓蒙と開化の時代を象徴する民衆の関心は、先に挙げた古い宗教者たちによる〈三条の教憲〉およびその「兼題」宣布が受け入れられなかったことと同じ文脈からの反応である。

新聞と〈つづき物〉

よって、明治10年に〈国体〉イデオローグたちが、教部省廃止に伴い退場しても、戯作者たちが置かれた環境は変わってはいなかった。もはや荒唐無稽なだけの話や、くすぐり、地口、剽窃まがいのパロディ、それらが受け入れられる余地はなくなっていた。

これは、〈事実性〉の新聞によって、〈読み方〉が啓蒙されたとも言える。ほんとうに〈事実〉によって「蒙」が「啓」かれたのかどうかまではわかりかねるが、同時期、ちょうど貸本から新聞へと媒体が移り変わってゆく時期にあたることを思えば、定期連載による長編物が人気になる土壌はできていたのだろう。

その先駆けに前回挙げた『鳥追阿松』があったりするわけで、戯作とは言いながら、重んじられた〈事実性〉は、

dokusyonohito.hatenablog.com

『格蘭氏伝倭文賞』なるグラント大統領来日に書かれた〈伝記〉という形式にもみられる。

高橋お伝の略歴

さて、といって、やっと本題だとすれば手際が悪すぎるが、ここまで来たら運が悪かったと思ってもらうしかない。

明治随一の毒婦として知られた高橋お伝が処刑、しかも絞首刑を上回る斬首刑に処されたのは明治12年1月31日。*8

お伝は嘉永元年8月、上州沼田在下牧村の農家に生まれた。国定忠治刑死に先立つ二年前になる。父は高橋勘左衛門、母は春。しかし春は、沼田藩用人(ようにん)のちに家老となる広瀬半右衛門の手つきとなり、そのまま高橋家に嫁いだものらしい。

出生からすでに戯作じみてきたが、つづける。

お伝が生まれて一か月で春は離縁され、お伝は勘左衛門の兄九右衛門の養女となる。

お伝17歳の時、婿養子を迎えるが夫婦の仲は悪く、お伝は家出をして中山道板鼻宿の仕出し屋で働いていたらしい。その後、正式に婿養子との離縁が決まり、慶応3年11月に同じ村の高橋波之助と結婚。しかし、明治2年ころから波之助にハンセン病の兆候が表れ、治療費のために田畠を売り、夫婦は窮し、東京に出る。明治4年12月のことという。

波之助は日雇い、お伝も奉公に出るが、明治5年9月に波之助死去。

この5年9月から9年8月に殺人容疑で逮捕されるまでの凡そ4年間、お伝はつぎつぎと男を変えて渡り歩き、古着商・後藤吉蔵殺害に及び、最期を迎える。

そして、処刑翌日2月1日から東京府下の小新聞は争うように、この毒婦の経歴を報じた。魯文の『仮名読新聞』でも連載を開始したが、2日で中絶。「絵入読本」で改めて刊行することになり、『高橋阿伝夜刃譚』として今に残っている。なお「絵入読本」は『鳥追阿松』で人気を博した形式である。

また『東京新聞』は『其名も高橋毒婦の小伝 東京奇聞』という社名の宣伝も兼ねた〈つづき物〉の連載を開始。

同年5月には新富座河竹黙阿弥による『綴合於伝仮名書*9』。曰く「新聞記事を其まゝに脚色し際物的に興行したるは実に此狂言が始まり」。これは魯文の『夜刃譚』と今でいうマルチメディアで、『夜刃譚』の「絵」は芝居の配役に合わせた似顔絵になっていた。

そのうち書くが、明治の文芸文学をリードしたのは戯作ではなくて歌舞伎、芝居なのだが、さておく。

それよりも〈事実性〉による報道の過熱を理解していただければいい。新聞、合巻、歌舞伎、さらには錦絵にまでなったらしい。

先に「ほんとうに〈事実〉によって「蒙」が「啓」かれたのかどうかまではわかりかねる」と書いたが、メディアとその受容をめぐる問題の発端が、戯作と歌舞伎というフィクションおよびそのマルチメディアによって引き起こされたことは忘れてはならないだろう。

斬首というスキャンダラスな最期を迎えたお伝は、実像という事実として在ったことを種に、ひとびとの望む毒婦へと成長・飛躍していったわけだ。また、刑死したお伝の遺体は解剖に処された。

明治12年2月12日の『東京曙新聞』にその立会人の言として

凡そ豪邁不敵なる兇徒は多く肉の油濃き者なれど永く囚獄に在ては肉食も充分ならねば油の抜る者なれどお伝は四年間獄裡に在て毫も屈せず壮健にして其肥肉の油濃かりしは舌を巻て驚く計りなりし

これを踏まえてか、『高橋阿伝夜刃譚』は

解剖検査されし脳漿並びに脂膏多く情欲深きも知られしとぞ

と末尾に書く。前田愛によれば「人間の悪を生理のレベルに還元して解釈しようとする因果論」ということになるが、こういう似非科学ふうの「因果論」はいまなお根深い。科学的データを背景にしているから、なお質が悪いのである。

 

 

*1:ちなみに今回の作文は、『明治文學全集』一、二巻所載の興津要「幕末開化期文學研究」および「〈つづき物〉の研究」よって書いている。筆者の創見ではない。

*2:筑摩書房『明治文學全集1』興津要「幕末開化期文學研究」より孫引き。旧字体を改め、仮名を平仮名に改めた。

*3:以下、記述は安丸良夫『神々の明治維新岩波新書による

*4:前掲書引用

*5:前掲書引用

*6:さんさんていありんど

*7:たいようしんわたこのにゅうどうおうせっきょう

*8:前田愛前田愛著作集 第四巻 幻景の明治』参考

*9:とじあわせおでんのかなぶみ

久保田彦作『鳥追阿松海上新話』毒婦の明治維新

解題

解題*1を始めに。

タイトルは『とりおいおまつかいじょうしんわ』と読む。

作は久保田彦作。掲載は仮名垣魯文の『假名読新聞』に明治10年12月10日から〈つづき物〉として連載された。今では珍しくない連載形式だが、もともと〈つづき物〉は、とうじの戯作者の収入安定から編み出された方法である。しかし、本作は当時の実学偏重の風潮により、連載は中止され、あらためて単行本として刊行された。

絵入りの合巻ということで本当は書誌に触れなければいけないのだが、今回は書かない。

また、明治5年に発令された「三条の教憲」以降、廃止同然になっていた戯作が再び脚光を浴びる第一作であり、また〈毒婦物〉の第一作でもある。はしがきを魯文が書いているが、あるいは本文にも彼の筆が入っているかもしれない、とされる。

次にあらすじを書いておくが、ちょっと長すぎるので飛ばしていただいてもいいです。

それから、差別表現が出てくるが、筆者はそれを容認するものではないし、助長する意図もないことを断っておく。

あらすじ

江戸は木挽町采女が原。*2

定五郎、お千代という「非人」の夫婦があり、娘を阿松といった。阿松の生業は、「鳥追」「女太夫」であった。*3

折しも明治維新のころ、江戸には「諸藩の兵隊大名」が「屯営」していた。母娘はこの「屯営」におもむき「女大夫」という門つけ芸で稼いでいた。

「屯営」する「徴兵隊」に濱田正司という男がいた。見目のよい阿松に言い寄る正司を、母娘は騙らい、二百円を騙し取る。衣類調度まで売って金を作った正司は隊長から禁足に処せられる。

阿松には吉という同じ「非人」の男がすでにいた。阿松はこの吉と語らって、こんどは浅草並木街の松屋という呉服店の番頭、忠蔵から店の金をゆすり取る。美人局である。

度重なる悪事に、江戸に居づらくなった阿松と吉は、吉の故郷である大阪へいったん隠れることにする。ほとぼりを覚ますためである。

東海道をのぼる品川で、二人は父定五郎の友、安次郎というこれも同じ「非人」の仲間のもとに泊まる。すると安二郎はこっそり「取締所」の「分営」に「注進」に及ぶ。褒美めあてに二人を売ったのである。

吉は捕縛され、市政裁判所にて裁かれ、明治3年2月、伊豆七島三宅島に配流となる。

いっぽう阿松は逃げおおせ、忠蔵と再会する。店の金を無くして自殺しようとしていたところを阿松は巧みに騙らって、忠蔵の故郷難波津へ落ち延びることにする。

ところが蒲原駅、正木の宿で忠蔵が病みつき、阿松も看病するところ、路銀を盗まれてしまう。途方に暮れていると、相宿していた甲州屋定次郎、駿府で芸者屋稼業と名乗る男があらわれて、金を出してくれるという。もとより病人の世話が嫌になっていた阿松はこれに同意し、駿河で芸者をすることにする。

しかし、じつは路銀を盗ったのは定次郎で、本当の名を、「凶状持ち甲府無宿*4の根方の作蔵」。三島から阿松に目をつけていて、蒲原で阿松忠蔵を陥れたのである。

蒲原から海沿いへと連れ出された阿松は手籠めにされそうになる。やにわに逃げ出した阿松だが、海に転落する。それでもたまたま遠州灘を航海する東京の廻漕丸という蒸気船に救われる。阿松は身分を暴かれそうになるが、ひそかに盗みおいた、忠蔵の「守り袋の臍の緒書き」で大阪の者と偽りまぬがれる。

船は神戸につき、「臍の緒書き」*5を種に、大阪心斎橋博労町、忠蔵の親、「桝や忠兵衛」のもとを訪ねる。阿松は忠兵衛夫婦に、忠蔵が路中に死んだといつわる。髪を切り落とし、尼になって菩提を弔うとの演技の迫真をして、うまく忠兵衛夫婦にとりいろうとするところに、濱田正司が現れる。来歴を暴かれた阿松は身分を明かし、そのまま捕縛される。

正司は、一旦は禁足となったが後に許され、「官軍御発行」の先鋒となり、奥羽の役に罪許されて出陣し、これがきっかけで出世していた。

阿松捕縛は正司の一計で、連れ出した阿松に、正司はじぶんの「妾」になるよう口説く。

阿松は長町浦の妾宅におちつくこととなる。

半年後、妾宅通いで身を持ち崩している正司は免官寸前になっている。正司の本妻安子は本邸に阿松を引き取ることにする。本邸に本妻妾同居しはじめたそのころ、「新政」「御発令にて」「御仁恵の御沙汰」にて放免された吉蔵が、正司の厩の中間(ちゅうげん)になっていた。

阿松は下女のおさよを味方につけ、吉へと手紙をおくり、中間部屋で再会する。

するとそこに「忠僕」佐助がふみこみ、不義の現場をおさえる。一旦はゆるされるが、二人は狂言をしくむ。

安子の実家より安子の弟洋行の不足二百円を用立ててほしいという手紙を盗み、さらに正司の手箱から二百円を盗みだして、小箱の傍らにその手紙を落としておくと、正司は安子が盗んだものと思い込み、安子を物置に監禁する。その後、安子は佐助に助けだされ逃げるが、佐助は主人に背いた責から自殺する。

正司は、この佐助の死を正しく届け出もしなかった罪により、職を免ぜられ拘留される。正司は、己の余罪を思って絶望し「囚獄所」にて果てる。

阿松と吉の二人はふたたび今度は東京へ逃げ延びることにする。

師走のころで、神戸は摩耶山のふもと、こんどは根方の作蔵にでくわす。山で狩りをしていた作蔵は手に鉄砲をたずさえ、吉に襲いかかる、吉は匕首で応戦する。吉は崖から転落。阿松は作蔵についてゆく。如月の末に、阿松は鉄砲で作蔵を殺そうとするが失敗。山刀で阿松を殺そうとする作蔵に、鉄砲の音に驚いた熊が襲い掛かり、組み合ううちに作蔵は谷底におちる。

そしてそのまま雪の山中に倒れていた阿松を、旅僧が助ける。

事情を聴いた僧は懺悔する阿松と師弟の約をするが、妖艶な顔が障りになると考え、阿松の顔を「火器」で焼く。この僧は故郷の、甲斐巨摩群延山寺村まで連れてゆき、悪業と死者たちの菩提を弔わせるが、その暮らしに飽きた阿松は、逃げ出す路銀のために僧の金を盗もうとするが発覚する。寺を追われた阿松は、顔を焼かれたせいで顔がただれたまま千住までたどりつく。

いっぽう忠蔵は、息子を探して江戸に下る途中の父忠兵衛と蒲原にて再会。松屋の主人に詫びをして、松屋へ戻り、その後は自分の店をもつまでになる。そして、西新井の弘法大師へ参詣のおり、零落した阿松を見かけ、憐れんだ忠蔵は金をめぐんでやる。

明治10年2月9日に阿松は死ぬ。

毒婦物

突然〈毒婦物〉と言われて読者も困るだろうが、男勝りの女性が主人公で、ゆすり騙り、殺人などの犯罪をくりひろげる一連の戯作を、そう称する。

もともとは歌舞伎から来たものである。

それというのも、歌舞伎・戯作・花柳界・浮世絵が相関して文芸をなしていたのが江戸期における世俗文学だから、歌舞伎と戯作は今思うよりはるかに距離が近い。仮名垣魯文河竹黙阿弥と親交が深く、魯文は歌舞伎評論でも名高い。

もうちょっと言っておくと、江戸後期の歌舞伎は人形浄瑠璃にとってかわられていたから、正確にいうなら、人形浄瑠璃を加えなければいけないが、わかりやすさの利便上、歌舞伎、と言っておく。

本作『鳥追阿松海上新話』で言うと、忠蔵の親、忠兵衛宅で正司に身分を暴かれた阿松が

いつ迄知れぬと思いの外、釘をさされた其のお詞(ことば)、斯(こ)う顕れる上からは今更包むも詮なきこと。此身の素性を打明せば、羽生の小家(こや)の賤しい身のうえ、幼少(ちいさい)時から母親(おっかあ)が教えた敦賀新内節、弾(ひく)三弦(しゃみせん)が調子づき、采女の原の葭簀張で粂三阿松(くめさおまつ)といわれた体、女だてらに素人衆が、何の彼のといわれたので、一人や二人は宿(うち)へとめ、色に此身を切売もだんだんに、越た遠州灘沖に……*6

言うまでもない。『白波五人男』だ。

弁天小僧は女装して身分を偽るのに対し、阿松はその才覚と美貌で「非人」であることを偽るわけだ。

男の言いなりになるのではなく、逆に手玉にとって次々と男の身を滅ぼし、死に追いやるとも、それに痛痒など覚えない、そんな造形が〈毒婦物〉の特徴で、本作はそこに被差別者を主人公として据えたものとなる。

解放令

背景には明治4年(1871)の解放令がある。

明治四年八月二十八日発第六十一号布告
穢多非人等の称を廃され候条自今身分職業共平民同様たるべき事*7

もちろん、これは一夜にして解決されることなく、長い長い闘争として続く。

dokusyonohito.hatenablog.com

しかし、この明治10年前後までの開明開化期、その啓蒙と実学尊重の風潮のなかで、「阿松」は、その上昇志向の興趣をもって迎え入れられたものだろう。

「温故知新の大実録」(本作、仮名垣魯文による序文から引用)

と魯文が記すように、「明治初年の戯作や歌舞伎が、実学尊重の風潮に迎合して事実性をことさら強調した」*8ことは知られている。

同時代のベストセラーを思えば、たとえば福沢諭吉の『学問のすすめ』であり、加藤弘之の『国体新論』である。

自由民権運動に接続する自由平等主義はみなぎっており、解放令の発布にしても、明治4年1月に、土佐藩士・大江卓の意見書から、民部省の採用するところとなり、民部卿大木喬任が同1月に「穢多非人烟亡(おんぼう)を平民となすの儀」を出し、解放令発布に至るという速さで、政府内にも同じ機運が醸成されていたとみてよい。

もちろん、それは早々に画餅に帰す。維新の志が、破綻してゆく過程としての明治史がここにもある。

毒婦の明治維新

「非人」である阿松が、「徴兵隊」隊士や「呉服屋」の番頭というこれまで自分を差別して来た階層に向かって上昇、侵食してゆくエネルギーは何だろう。

明治維新は、一面的には幕末の一揆打ちこわし、ええじゃないかなどの体制を破壊するエネルギーを討幕に転化したもので、新政府という新たな体制はこれを段階的にとりしまってゆく。何度も触れたとおりだ。

しかし、この横溢するエネルギーを、例えば福沢諭吉は〈学問〉による〈立身出世〉という、功利的な方便で、なんとか社会制度のなかに収めてゆくことをはかったわけだ(『学問のすすめ』参考)。結果としてその「功利的な方便」つまり〈立身出世〉だけが残ったことは周知のとおり。

また、維新は、近代イデオロギーによる革命ではなく、中世以来の徳政一揆に見られる〈世直し〉願望が反映されているとみたほうが、よい。そして、こうしたなかで、〈学問〉に回収されない、回収しえない願望、欲望が〈毒婦物〉の受容を生んだのではないか。

そして、阿松は、徴兵隊隊士から番頭という町人、武家の娘、やくざ者、僧侶までを遍歴する。それまで階層化されてた身分を縦横に動き回る。上昇したいという欲望のなせるものながら、作品のなかで四民は平等なのである。平等に毒牙にかかる。

結末の因果応報はかえすがえすも残念だが、これは戯作というものの、お約束だから仕方ない。それでも、阿松は、ある意味で、明治維新の本懐を遂げたのである。

 

*1:『明治文學全集1 開化期文學集』筑摩書房

*2:『江戸名所図会』巻一によれば木挽町四丁目「采女が原」五丁目に「歌舞伎芝居」とあり、浄瑠璃ほか見世物小屋がかかっていたらしい。この場合の歌舞伎、浄瑠璃は民間芸能としてのそれ。

*3:「非人」の女が行った初春の門付け芸。室町期にはすでにあったようだ。職業化する以前は、田畠の害鳥を追い払う予祝行事の一つであった。諸国の大社の神事にも、鳥追いの式がある。江戸では元日から中旬ころまで新しい綿の着物に網笠をかぶり、常の浄瑠璃とは異なる節で、三味線・胡弓を弾きながら、何人かで連れ立って門付けをした。中旬以降、笠を管笠に替えるまでを「鳥追い」と言い、それ以後を「女太夫」と呼んだ。単なる門付け芸も「鳥追い」と呼んだようだが不詳。『國文学 解釈と鑑賞』昭和37年10月号参考。また喜田川守貞『近世風俗志』岩波文庫に「(非人)小屋の妻娘は女太夫と号(なづ)け、菅笠をかむり、綿服・綿帯なれども新しきを着し、襟袖口には縮緬等を用ひ、紅粉を粧ひ、日和下駄をはき、いとなまめきたる風姿にて、一人あるいひは二、三人連れて、三絃をひき、市店門戸に拠りて銭を乞ふを業とす。往々この女太夫に美人あり。市店には一文与ふのみ。他国より勤番の下士等は、邸窓の下に呼び、二、三銭を与え一曲を語らせ、あるひは花見遊山の所多く女太夫徘徊する時、かの士酒興に乗じ杯を与へ、烟管をともに吸う等言語に絶せり。」このほうが本作には近いかもしれない。

*4:喜田川守貞『近世風俗志』岩波文庫を参考にみると、「非人」と「乞食」の違いは、前者が「市中に出て銭を乞ふことはあれども、食を乞はず」という相違。また「乞食、京坂にてはこじきと云ふ。江戸にては、やどなしと云ふ。無宿なり。」とある。

*5:「ほぞのおがき」。歌舞伎ではおなじみの身分由緒を明かすお守り。古浄瑠璃にも「膚の守り」「はだのまぼり」など見え、系図を記し肌身に持っていたものと見える。説経節『さんせう太夫』で厨子王丸の由緒が知れるのもこの趣向による。

*6:前掲書引用

*7:高橋貞樹被差別部落一千年史』より引用

*8:前田愛前田愛著作集』第四巻「幻景の明治」「高橋お伝と絹の道」より引用

村上春樹『ハンティング・ナイフ』歴史の終焉を切り裂くナイフ

村上春樹『ハンティング・ナイフ』。『回転木馬のデッドヒート』最後の一篇になる。

dokusyonohito.hatenablog.com

最後だからというわけでもないが、発行年を見返したら、1984年、と書いてあった。偶然にちがいないが、オーウェルの小説がまだ一定のリアリティを持っていた時代、冷戦下に書かれた作品群であったわけだ、本書は。

そういえば『タクシーに乗った男』にも「プラハの春」が描かれていた。

dokusyonohito.hatenablog.com

dokusyonohito.hatenablog.com

オーウェルの「リアリティ」なんて言い方をしたけれど、歴史のわくぐみを外してしまえばただの寓話にすぎない。時代を超えた云々というが、かんたんに歴史を超えてはいけない。

そもそも、歴史の1984年、その「リアリティ」はオーウェルが想像したほどの「現実性」を備えていたであろうか。それは既に喪失されていたのではないか。そして、あらゆる得失が何もない、というところから作家の仕事は始まったはずだ。

1989年にはフランシス・フクヤマが〈歴史の終焉〉を語るにいたるわけだが、この西欧文明の凱歌は、とっくに死んでいた死者を埋葬したあとでなされた追認作業である。

同じ年、空疎な円転をくりかえした果てに、昭和が64年で終わっている。

そして〈失われた30年〉が始まる。

冷戦下、世界核戦争と世界の終わりという妄想に、逸楽といってもいいほどの喜びを見出し依存していたひとびとは、無限につづく、円環の〈終わらない日常〉を生きるようになる。

その後、黎明期を迎えるインターネットは、無害化された核兵器である。世界は安心してこれに依存した。無害とは、イデオロギーがない、ということだ。冷戦は、イデオロギーとその政治の権威を徹底的に失墜させた。そして無思想性と非政治性が新たな世界の教義となり、もともと無思想で非政治的な資本主義だけが生き残り、インターネット技術に代表される工学技術と結託するに至る。

まあいい。『ハンティング・ナイフ』の話をしよう。

これは「僕」の話だ。「僕」は「米軍基地」そばの海で泳いでいる。

日が上り、日が沈み、ヘリコプターが空を飛び、僕はビールを飲み、泳いだ。*1

数頁にわたってつづく描写の「絵葉書みたい」な風景。

しかしこれが現実なのだから、まあ文句のつけようがない。*2

穏やかで、空疎で、イデオロギー対立も戦火の不安もない「平和な海岸」で「僕」は過ごしている。冒頭では海に浮かぶ「ブイ」までの距離を「クロールで50ストローク」と〈正確に〉描写するように、「僕」から見える風物を余すところなく〈写生〉する。

車いすに乗った息子とその母親が出てくる。出てくるとは言っても何もしゃべらない。

本書にこれまで登場してきた彼や彼女たちの不思議なはなしに比べて、なんと平穏で無害な世界だろう。

太ったアメリカ人の女も出てくる。彼女はもとスチュワーデスで、兄は海軍の将校で、ヴェトナム戦争なんて単語までちりばめられるが、意味はない。正確に言えば、意味をなす基盤がどこにもない。それはもう失われてしまったのだ。

これらの〈写生〉はおそろしく退屈だ。問題はあるはずなのだが見当たらない。思い出せない。「米軍基地」という単語も、もはや何も喚起しない。

しかし予兆がおとずれる。

僕は目をさましたとき、すぐに枕もとのトラベル・ウオッチに目をやった。緑色の夜光塗料を塗った針は一時二十分を指していた。僕が目をさましたのは異様に激しい動悸のせいだった。*3

そんな深夜に「僕」は車いすの青年と話をする。

資本主義には強者と弱者がいる、身体的・精神的にも強者と弱者がいる。青年と彼の母はいずれも後者にあてはまる。その二分法が彼の家庭を分けていると彼は語る。しかしそれは不和ではない。ものごとの基準となるべき家庭が機能しなくなっていることを指している。

もちろん、資本主義システムとしてなら家庭は機能しているが、それは家庭だろうか。

繰り返すが、それは不和というものですらないのだ。

欠落はより高度な欠落に向い、過剰はより高度な過剰に向うというのが、そのシステムに対する僕のテーゼです。*4

家庭という「システム」の話から、資本主義という「システム」の話に転じている。家庭の不全は、個人から家庭を経て、社会、世界に通ずるルートが閉ざす。個人がダイレクトに資本主義システムにつながる世界のなかで、何もすることができない青年は、「無(リアン)」を生み出すことだと語る。

もちろん、逆説ではない。抵抗も対立も無効化した世界で、「過剰」が「過剰」を生むならば、「欠落」は「欠落」を生むだけだ。資本主義的〈生産〉だ。どこにも不思議はない。問題は見つからない。すべては終わったことだ。

しかし。

しかしそれで、青年は、「僕」は、われわれは、どこかに行けるのだろうか。本書の冒頭で作家はこう書いた。

他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我我はある種の無力感に捉われていくことになる。おりとはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。*5

どこへも行けないのである。

しかし、「僕」は、すべてが空無化し、すべてが終焉を迎えた世界で、密かな反逆を企てる。それはちょうどオーウェル1984』の主人公ウィンストン・スミスが日記を手に入れたように、「僕」はハンティング・ナイフを手にする。

僕はそのナイフを手にとり、近くのやしの木の幹に何度かつき立て、樹皮を斜めにそぎおとした。それからプールのそばにあった発砲スチロールの安もののビート板をきれいにふたつに裂いた。素晴らしい切れ味だった。*6

「僕」は世界を切り裂いていゆく。

「太った白い女」「ブイ」「海」「空」「ヘリコプター」すべては「遠近感を失ったひとつのカオス」になって「僕」を取り囲むが、

僕は体のバランスを失わないように気をつけながら、静かにゆっくりと、ナイフを空中にすべらせた。夜の大気は油のようになめらかだった。僕の動きをさえぎるものは何もなかった。*7

「僕」に抵抗の武器を与えた青年にとっては、このハンティング・ナイフはひとつの夢想である。

僕の頭の内側から、記憶のやわらかな肉にむけて、ナイフが突きささっている夢です。べつに痛くはありません。ただ突きささっているだけなんです。それからいろんなものがだんだん消え失せていって、あとにはナイフだけが白骨のように残るんです。そういう夢です。*8

青年は「僕」にハンティング・ナイフを残し、あるいは託し、「無(リアン)」に向かって消えてゆく。

もちろん夢想だ。だから「どこへも行けない」。

しかし、それでも、ささやかな、ほんのわずかな希望がのこる夢想。

「そういう夢」なのである。

*1:村上春樹回転木馬のデッドヒート』新潮社より引用

*2:前掲書引用

*3:前掲書より引用

*4:前掲書より引用

*5:前掲書より引用

*6:前掲書より引用

*7:前掲書より引用

*8:前掲書より引用

村上春樹『野球場』奇妙な観察は彼に小説を書かせるか?

今回は『野球場』。そして今回も短く書く。

dokusyonohito.hatenablog.com

だしぬけに話がはじまる。
「野球場」のすぐそばに学生時代住んでいた青年の話である。
「僕」が彼から会って話を聞く、そういう形式が提示される。

小説を書くこと

青年、彼は小説家志望ではないが、小説を書くことを希望している。それで書いた原稿を「僕」に送る。原稿内容はともかく「文字」に魅力を感じた「僕」は彼に直接会う。
それで彼から話を聞くわけだ。

青年は、いろいろと奇妙な経験をしているようで、それを小説に書きたい、というより、それが小説的だと認識して書いているのだろう。

しかし、本書のはしがきで作者が書いているように、「マテリアル」=材料があれば小説が書けるわけではない。音楽が音をつかうように、絵画が色をつかうように、近代小説は日常の平俗語をつかう、原則的に。平俗語なら誰しもつかうから、誰でも書けそうにみえるだけだ。文学なり小説なりへ向かって越えなければならない地点があるようだ。作者はそれを「宿命的な種類の欠点」と呼んでいる。「なおしようがない」と。

それにしても、なぜこの世には小説のように感じる奇妙なことが多いのか。歌舞伎ではだめなのか。人形浄瑠璃ではないのか。はたまた俳諧連歌ではないのか……。小説的人生の諸相の不可思議さ。

〈観察〉という行為

彼は「野球場」のそばに住んでいたときの話をする。

同じ大学の同じクラブにいた女性の部屋を覗くために部屋を借りたらしい。そして父親から借りた「とびきり大きいカメラの望遠レンズ」で彼女の部屋を覗くのである。

これだけ書くとただの犯罪行為だが、小説である。示唆?教唆?自己責任でお願いしたい。

しかし、覗きのごとき〈観察〉とそこから起こる〈写実〉と言ったら、まるで坪内逍遥の『小説神髄』だが、じっさい近代文学は〈観察〉と〈写実〉から始まるのである。

そして、その〈写実〉はもじどおりカメラのような遠近法、主体が人称に統一されることで初めて可能になったものだ。

よって、彼は語り時点から「五年まえ」のそのときに、文学史をたどりなおすような経験をしているのである。「五年」後の彼が、「小説」を書く機縁はそこにあるのだろう。

しかし、覗きを一旦はやめようと誓ったかれだが、もはや彼は〈観察〉することをやめられなくなる。単なる好奇心や覗き趣味ではない。

この已みがたい、あるいは度しがたい欲望を彼は「暴力的」ととらえている。

たとえば真実という名のもとに、主観的に事実がひたすら暴かれてゆく〈観察〉を、暴力と呼ばずになんと呼ぼう。

彼女の生活をのぞき見するというのは、既に僕の体の一部みたいになっていました。だから目の悪い人が眼鏡を外すことができなくなるみたいに、映画に出てくる殺し屋が手もとから拳銃をはなせないみたいに、僕はカメラのファインダーが切りとる彼女の空間なしには生活していくことができなっていたんです*1

この〈観察〉の道は、かつて逍遥や四迷にとって困苦の道で、四迷にいたっては困窮のうちに死ぬほどのものであったわけだが、それが私小説を経て、制度化されると、〈観察〉はまるで機械のような〈自動運動〉を起こすようになる。膏肓に入る習癖と言ってもいい。つまり、小説家でなくとも、小説家が〈観察〉するように〈観察〉するようになるのである。

「望遠レンズ」での〈観察〉が彼に一体化するのは、〈自動運動〉そのものだ。もともと単に技術的なモノにすぎなかった機構を、先験的にじしんに帰属する内面であるかのように錯誤するのである。

そこに彼は「グロテスク」を見出す。小説「的」なことに狎れたひとびとが見失う「グロテスク」さだ。「望遠レンズ」によって「拡大」された〈観察〉は、現実の人間存在から彼を乖離させてゆく。彼は見るべきでないものを、思うさまつぶさに見たはずなのに、その見たこと、〈観察〉したことの実存を信じられなくなる。

それゆえ〈観察〉という行為は、彼から日常をはぎ取っていく。身辺が乱れ、大学にも行かなくなった彼を解放したのは、彼女の帰省である。対象がファインダーからいなくなると、その〈観察〉は唐突に終わりを告げる。

彼に残されたのは、「本当の僕はいったい何なんだってね」(本文凡て傍点)という述懐だけである。

このときの彼はまだ小説を書こうとしていないが、「マテリアル」で小説が作りうるなら、彼は最上の「マテリアル」を手にしたはずだ。しかし、その素材は、彼に「とてもねばねばとして、嫌な匂いのする汗」をかかせる。もちろん、背徳感だけではないだろう。

〈観察〉につきまとう「暴力的」な「グロテスク」さが蘇るからだ。そして、小説に書くことは、往々にしてこの不快を〈写実〉すること、書くことで乗り越えてしまう。あるいは書くことで背徳感や不快感を内面的に正当化してしまう。

もしこの〈観察〉を彼が書いていたら、どうだろう。作者が「宿命的な種類の欠点」と呼んだそれはもしかすると、この〈観察〉なら乗り越えられたかもしれない。そんな想像をする。たぶん、書けたであろう。じぶんの何かを切り売りするような小説が。

しかし彼は書かなかった。そのことだけは書かなかった。

救いといえば、それだけが救いである。

野球場

さいごに、「野球場」について。野球は全体を見る。肉眼で客席から見るそれは物語だ。ちょうど、ちょっと俯瞰になるのも物語に似ている。

しかし、クローズアップが自在なカメラの視点は小説的だ。

未然の小説「的」行為からなんとか抜け出した彼は

ときどき夜になると窓辺に座って野球場の向こうに見える彼女のアパートの小さな灯を眺めて、ぼんやり時を過しました。小さな灯というのはとてもいいもんです。僕は飛行機の窓から夜の地上を見下ろすたびにそう思います。小さな灯というものはなんて美して暖かいんだろうってね*2

フィツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』か、はたまたサン=テグジュペリの『人間の土地』を想起させるが、〈観察〉とはこういうものを言うのである。せめて「美しく暖かい」ものを見なければならない。それはもはや文学や小説にとどまらないことだ。

 

 

 

 

 

*1:村上春樹回転木馬のデッドヒート』講談社より引用

*2:村上春樹回転木馬のデッドヒート』講談社より引用