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三島由紀夫『沈める滝』人工恋愛

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三島由紀夫『沈める滝』新潮文庫(昭和38年12月5日発行)

だしぬけで恐縮だが、筆者は文学がわからない。

小説、詩のたぐいがよくわからない。

それら創作が情感や情緒にかかわるものだとするなら、それらの欠落、未発達に由来して、言語芸術の門まえで立ちすくんでいるのが筆者だと思ってもらっていい。筆者の前に、その門はけして開くことがないのである。

 

『沈める滝』。章立てで全7章。

「人間」というものを信じていない主人公城所昇が、同じくそれを官能として知らない他人の妻、顕子に出会う。世間で情愛と呼ばれている関係性を拒絶し、また拒絶されているふたりは互いの内に、似たものを見出し、「人工的恋愛」の約束を交わす。嘘から真を。すなわち「愛を合成できる」のではないかと。それは王朝文学に属する、古典的ですらあるとも言える方法であった。見ぬ恋。逢わぬ恋。忍ぶ恋。疑似恋愛からまことの恋愛へ。それは叶うだろうか。

 

小説の構造は、はじめに章立ての数を挙げた通り。4章を中心に二つ折りにしてみると分かりやすい。昇が越冬調査で日常世界を離れる4章を折り返しにした「行きて帰る物語」になっている。

試みに、トーマス・マン魔の山』の構造を参考にしてみると、「山」という異界に向かい、魂の遍歴を経て、喪失と獲得の果てに、異界から日常世界に帰還するというビルドゥングス・ロマンの構造も見て取れる。

すると、主人公昇の喪失と獲得が、この小説の主題になってくるわけだが、この小説において、疑似恋愛という方法を用いた喪失と獲得は、発動しない。

「石と鉄」ばかりを信じ、「人間」を信じていないという昇の自己認識は、彼の聡明さもあり、透明で計測されている。その計測の確かさは、あたかも彼がダム建設に携わり設計を引く確かさに比類される。そしてこの計量のたしかさだけが、昇を昇たらしめている。いっぽうで、自身のうちに巣食う、不鮮明で不確かな、「人間」への憧憬だけが見えていない。見ることができない。

疑似恋愛という方法は、官能を伴った人間性の獲得でしか確認できないものだ。すこし下世話な見方をすると、これは女性には確認できるが、男性には観測することしかできないのである。下山後の昇の、あまりに月並みな顕子への懐疑は、方法論的失敗であると同時に、その月並みさゆえに、彼を恐懼させる。彼の憧憬は、強迫に変わる。変わるというよりその本質が露呈される。

そうした意味では、昇はハンス・カストルプではなく、ハムレットだったとも言える。ならば、オフェーリアは溺死するほかないだろう。

昇を恐れおののかせる「人間」への強迫は、「人間」という「愛」を求めたものでありながら、そこへと彼を赴かせない。ダムの越冬調査という設定と、疑似恋愛の方法は、彼にとって可能性を示唆するように見えて、当然起こりうべき「山」という異界での葛藤や相克に対して、昇にはなんの行動のきっかけを与えてくれない。彼のための物語でありながら、彼のために、物語はけして発動しないのである。わずかに、顕子を偲ぶ象徴として「小さな滝」を見出す昇だが、「見ている」ことに彼は充足することしかできない。

筆者は、昇が「行動」を起こすべきだった、と言っているのではない。そんな自己啓発本みたいな話ではない。「行動」のためのとっかかりがどこにもない。そのことがこの悲劇の骨子をなしているのはないか。

ゆえに下山後、「見ている」ことから一転して「行動」を強いられた昇には、なすすべがない。瀬山を始めとした「人間」たちのあまりに「人間」的な営為のなかに放り込まれた昇は、顕子の夫と面会する。

このとき、“cocu”、寝取られ男として現れる顕子の夫のまえで、羞恥と焦燥にかられた昇は、はじめて、一瞬だけ、年相応の「人間」らしい「人間」になる。このとき、彼の秘められた、意識化されたことのない願いは達成される。女の死と、「人間」でしかない者たちの営為によって。

しかも、女の死、顕子の死と死体を引き受けるのは昇ではない。「事務的」に、処理してゆく、昇にとっては軽蔑と憎悪を伴うその「行為」を引き受けるのは、けして彼ではないのである。

その後の昇は、「行為」を剥ぎ取られた、社会的には有能で無害な「人間」として在る。「行きて帰る物語」は終わる。喪失とさえ呼べない主人公の毀損によって物語は終わる。

 

この作文の冒頭で、筆者は文学がわからぬと言った。

筆者は、昇の強迫を訝しい思いで眺めている。「本当」や「愛」や「人間」を求め焦がれる欲求の不可思議を見ている。しかしながら、この絶望はいまやありふれたことで、ありふれた筆者は、意外にそこに安住しているのである。よもや、私「たち」とは言うまい。