本書によれば、「ホームレス問題」は第一義には当然、社会弱者が困窮している状態を、同胞として見過ごすべきではなく、また社会の成員として労働と納税によって国家に参与させるべきだという、道義と法律による「良心的」な問題としてあることが書かれている。
しかし、この「良心」がしばしば行政、警察、あるいは個人の、暴力を伴って発揮されることもまた書かれている。
筆致はユーモラスなところがあって読みやすい。人によっては深刻で陰惨な内容も、軽やかに、よく整理されているので、読んでつまづくということはない。
当問題の両義性も、順追って読んでいけば明らかになるように、取材記事の配置がなされている。売り物の本なんだから当たり前だろうといわれればその通りなのだが、この本には書いていないことがある。本書の美点だと筆者は思った。
それは「ホームレス問題」の是非である。
解決すべきだとか、保護すべきだとか、排除すべきだとかという「良心」に、本書は乗っ取られていない。なにかというと、やおら源平合戦をはじめてしまう風潮のなかで、いいとも悪いとも書いていない。
「良心」はその善きこころゆえに人を、なにより自身を欺く。人の心が人を欺かないことはまれである。
本書に「良心」がないのではない。うまく御されているのである。「好奇心」という御者によって。
もちろん、毒を以て毒を制すの観がないでもないが、善きこころが人間界を滅ぼすさまを存分に見せつけられてきた私たちには、この軽やかな「好奇心」は存外功徳があるのではないか。
当世、いちいち善悪是非を問い又答えるのが流行りで、みんな、なんでもすぐ「理解」してしまう。それは無数にある選択肢を、効率と効果を指標に選び、時間と成果を競うやりかたが優勢であるためで、洗練された資本主義とはそういうもの、ではある。
しかし、この資本主義から脱落したとき、または逃亡したいとき人はどうすればよいのだろう。この「敗北主義」に対して、「生きろ」と言って援助するのも、「死ね」と言って排除するのもじつは同じなのではないかというのが、本書の「好奇心」とそのありようなのである。
さいごに、ちょっと膝を崩して言うと、ダメでよくわかんない奴がいても別にいいよ、くらいの社会のほうが住みやすそうだよね。