誰かあの本を知らないか

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葛西善三『悲しき父 椎の若葉』創作と生活

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葛西善三『悲しき父 椎の若葉』講談社文芸文庫(1994.12.10第一刷発行)

私小説私小説は、ししょうせつ、ではなく、わたくししょうせつ、と訓むべきだと、どこかで読んだが思い出せない。

 

創作と生活が一致しなければならないと言えば、今なら誰でも嗤うだろう。つまり、フィクションと現実の区別がついていない、と。

けれども、西欧数百年の文化が、わずか数年のうちに奔流のごとく押し寄せたかつての日本にとって、それは洗礼とよぶにはあまりに苛酷で滑稽で凄惨な反応を引き起こした。

ふるくは透谷が早すぎる自裁をえらんだように、西欧文化を受け取る対価として生活と人生を差し出すほかない場合がしばしば存在した。差し出すことでしか、その真偽を測ることができなかったともいえる。

これは、幼い読者が、聞いたお話をなんでも本当ごとだと思うことに似ている。言うまでもないことだが、幼い読者は幼稚だから読み方が拙いのではない。交換し、差し出せるものがそれしかないのである。読むことの誤魔化しが少ないぶん、誠実な読み方ではあるのだ。

いっぽう、創作する場合、同じ幼い作者ははじめ夢中になりやがてこれを人に見せることを恥じらう。もちろん、作の出来不出来を恥じているのではない。創作の嘘、欺瞞を本能的に感じ取って、他人に見せるべきではないと判断しているのである。

知恵がつき、知識が増えれば上記のような幼さ、拙さは少なくなる。が、少なくなるだけでけして消えはしない。むしろ、より一層深く沈潜し、誠実さは失われ、欺瞞は自他ともに欺くようになるかもしれない。

 

ながながと前置きを書いてしまった。言い訳をすると、何度もこの小説『椎の若葉』および『湖畔手記』を読み返したが、どうもよくわからないのである。

凄惨な内容が書かれているが、露悪はない。誠実だが、行為は鬼畜、外道である。文体は簡素だが、独自性のあるスタイルは作者じしんを救うところはなく、むしろそういったスタイルを拒絶したところに特徴があると言っていい。

自分が人間としてダメなやつだということを好んで売りにした創作はいくらもある。葛西の名声の多くも、その作家態度、生活と、おそらくはスキャンダラスな内容であったろう。

たとえば、『椎の若葉』末尾、「親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分かを僕に恵め」と小説は結ばれる。いい気なもんだと突っぱねれば何も残らないような書きぶりである。また、『湖畔手記』には「秋ぐみの、紅きを噛めば、酸く渋く、タネあるもかなし、おせいもかなし」と救いようのない短歌のごときも出てくる。

言っていいことと悪いことの判断がついていないのではないかといえば尤もで、判断すべきところで葛西の判断は停止される。それは善悪の判断という、知恵知識が発動したときに起こる欺瞞からの回避なのではないか。幼い者だけが直観する理性の欺瞞からの。

人間は知恵知識により欺瞞を免れない。しかし、創作だけなら辛うじてそれを免れ、誠実であることすら叶うのではないか、という実験にも見える。そんな実験に、生活のために分け与える生活など残されているわけがない。

 

今でも奥日光湯ノ湖には葛西善三の文学碑がある。筆者も現地で見たが、『湖畔日記』上記の歌が記してある。小説を知っていたら、とても観光地に置くようなものではないだろう。