田山花袋『蒲団』うつろな内面
田山花袋『蒲団』の感想。今さらか。今さらである。
主人公はみずからの内面を語るにたとえてツルゲーネフを引き合いに出す。なんのことであろう。ハウプトマンの『寂しき人々』だと言う。独白にしてはやかましい。彼がもだえながら己の内面に繰り広げるのは、当時西欧から渡来した恋愛小説のあれこれである。彼が「文学者」だからか。そうではない。恋愛小説の詰まった内面が彼の「文学」なのである。そのようにしてこの有名な小説は始まる。
章立てとあらすじ
章立てで11章。今なら短編の部類に入る短さである。それでいて短く区切って11章も並んでいる。まるで新聞小説のようだ。あらすじと言ったが書かないでおこう。書くより読んでもらった方が早い。それでも一言でいえば、妻子持ちの中年男が、弟子にとった若い娘にひとり勝手に恋慕して、勝手に失恋する話である。その「煩悶」と主人公が称する、性欲と利己心を「そのまま」書いた小説である。
筆者もこう書いているだけで、まあまあ気持ち悪い。
懺悔文学
こういった内面の暴露を、文学と呼んだ時代がある。懺悔文学と言った。のちの藤村が尊敬されたのはその懺悔の姿勢で、実際書かれた『新生』(1919年)はそのように読まれた。花袋のこの小説も、ふつうならとても人に言えないようなことを、恥ずべきことを書き、評価された。
もちろん、懺悔とは神に対してなされる宗教行為である。聖アウグスティヌスの『告白』がそうであるように、信仰を守ってゆくうえで自らの犯した過ちを包み隠さず、神に「告白」し、許しを乞う制度のことだ。そして「性的」な相克と葛藤、肉体の苦悩が主たる要素になる。それが何故かはキリスト教史のはなしになってしまうので措く。ここでは、心と体の二元論が発生し、その両者の齟齬と連絡が「性」にあることだけ指摘しておく。
近代小説では、この「告白」の制度が、小説のリアリティという話の本当らしさを担保する方法として確立された。さきがけは言わずと知れたルソー。日本では鷗外『舞姫』藤村『破壊』他。
懺悔文学の特徴は、その許しを神に対して行うのではなく、読者という世間に向かってなされた点にある。
内面の発生
「性」の懺悔が読者に向かってなされたとき、これに「内面」とリアリティが見出されたことは、もっと考えてみないとわからないことだが、興味深い。表現に先立って「内面」があったのではなく、紙に文字が印刷された小説という虚構によって、謂わば倒錯的に「内面」は見いだされたわけだ。冒頭でも述べたが、主人公の「内面」に詰まっているものが、読みかじった恋愛小説ばかりなのもそうした理由による。そしてその後天的に覚えこんだ起源を忘却して、それを自分の「自然」と思い込む。これが倒錯でなくてなんだろう。
こんにちの読者が、花袋以降の小説を読めるのも、この「内面」を共有しているからである。この時期以前の文学を読んだときに感ずるリアリティのなさは、それが「自然」でないと感ずることで、「内面」に共感できないのである。
内側へ向かう文学
表現とは内側にある何かを絞り出すように外に向かって表出することだ。
それをたとえば詩経では「詩は志なり」とした。幕末から明治に至っても漢文学を中心にした士大夫の文芸は、こころざし、を述べるものであった。多くは悲憤慷慨し、憂国の士をしてその志を歌わせ、折々花鳥風月を詠んで慰めとした。じっさい、維新の志士たちは詩を書いた。書けなければ志士ではなかった。
それらの漢詩を文学というなら、一面的には明治維新は「文学者」による革命であったとも言えるだろう。維新後もこの「文学者」たちは悲憤慷慨をつづけた。かつて徳川幕府と戦った彼らは今度は明治国家と戦ったのである。自由民権運動は「文学者」という行動する政治家によって争われた。明治文学は『雪中梅』のような「政治小説」と呼ばれる政治理念の表出から起こり、その挫折で潰えたのである。
言うまでもなく、その転機は1905年の日露戦争の戦勝だ。
「文学者」たちが批判し対峙し争いつづけた相手は、強大な近代国家になっていた。この戦勝、一等国になったという自意識は、「志」の文学の終わりも意味していた。近代国家というシステムのどこにも「志」の居場所はなかったのである。
明治政府の悲願であると同時に、存在理由でもあった不平等条約改正が、最終的に税権の回復という形で改正されるのは1911年。そして『蒲団』が雑誌『新小説』に発表されたのは1907年である。
それからの日本国家が第一次大戦への参戦、海外植民地の獲得、大陸への進出と対外拡大路線をとるのは諸賢ご存じのとおり。
よって、このときに「内面」が発見されたのは偶然ではないだろう。文学は近代日本国家の拡張によって現実世界への居場所を失い、無限とも言える「内面」への拡張を始めたのである。
うつろな内面
拡張とは言っても、先に述べた通り、「内面」を満たすものは外国文学の受け売りであった。「内面」はその受け売りの何かを復唱するか、規範を持たない露出をもっぱらとするかしかなかった。規範がないのは、足場を置くべき現実世界という外側への接点を失ったからである。
じっさい『蒲団』において、主人公の葛藤は女弟子である芳子によって引き起こされるように見えて、すべて「内面」での葛藤である。外面上の、ようするに周りから見えたであろう主人公の生活はとくに何の変化もない。出来事らしい出来事が何も起こらないのである。かりに出来事を中心に整理してみると、主人公は芳子で、彼女の行動的な恋愛劇とその顛末があらすじにさえなってしまう。主人公はただの傍観者にすぎない。
しかし主人公は「かれ」なのである。なぜなら、彼だけが「内面」を持っているからだ。
この独善的な「内面」は他者の「内面」に気づかない。周囲の人間の思惑に迂闊なほど気づかない。正確には、気づけないのである。外界を断ち切って成立した「内面」には出口がなく、有名な小説末尾に見えるように、主人公は芳子の「蒲団」のにおいを嗅ぎ、「夜着」の「汚れたビロードの襟に顔を埋めてに泣」くことしかできない。
「内面」には彼のほかには誰もいないのである。