恐る恐る本を開いてみた。何年ぶりかわからない。少なくとも筆者にとっては、わからなくなるくらいの時間経過が必要であったのだろう。
そのへんのいきさつは前に短く書いた。
今回、本書を開いて、はじめだけ読んだ。そしてすぐに閉じた。
たかが本である。もちろん虚勢である。たかが本でなかったことは筆者がいちばん知っている。
本書の冒頭にはまず「はじめに」として序文が附されていた。そこだけ読んだ。「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」。
そのレトリックは、悪くいえば、人を煙に巻くような書きぶりである。AでもなくBでもなく、且つCでもないというような。この煙に巻かれて酔うことができれば、その世界に入ってゆくことができるし、そうでなければ、目をそらして通り過ぎてゆくしかない。
この序文は「小説を書くこと」についての自己言及から始まる。
作者は、これは他人から聞いた話「マテリアル」の「スケッチ」だと書いている。そして、自分の小説は「マテリアル」そのものでは書かれていないとも言っている。挙句、いささか強い調子で、小説は自己表現でもなければまして自己の解放でもない、とさえ言い切る。ABCどれでもないと断ずる、否定神学のような言いぶりには、苛立ちがにじむ。
これは、ひとつには作者じしんの近代小説への強い不信によるものだろう。その「読む」ことと「書く」こととの甘やかな共犯関係。近代小説を信ずることができないという背教者のような立場ながら、作者が小説家である以上、棄教することもできない。
ひとことで言えば、小説の不可能性、と言ってもよいかもしれない。
しかし、世界は小説に満ちているのだ。小説のように生き、暮らし、感じ、解釈し、批判し、誤魔化し、歌をうたい、恋を囁き、死を嘆く。それらは「おり」のように社会のどこかに沈殿してゆく。消費されて、どこへもゆかない。作者は言う「我々はどこにも行けない」と。
人生は小説ではない。ないはずだ。
ところが、小説のように生きるひとびとに、そこに飼育されたひとびとに、その制度性は見えない。制度性とはじぶんの顔だけがうつらない鏡のようなものだから。
資本主義システムと相互補完的に連動する近代小説は、小説のような人生をあたかも遊園地のお客のように管理する。小説的ひとびとはそこに人生を見出す。競ったり、反目したり、協調したり、まるで「自由な競争」を謳歌しているかのように。だが、それは「メリー・ゴーラウンド」なのだ。同じ、ひとつところを巡っているだけだ。そこで「仮想の敵」を見出してくりひろげられる、人生という「デッド・ヒート」の不毛。
それでは、それでも「書くこと」とは何だろう。それを作者は「話してもらいたがっている」という。小説でもドキュメンタリーでもない「スケッチ」とは何か。
わからなくって当然だ。冒頭述べた通り、序文しか読んでいない。それ以上、読むことができなかった。
これっぱかり書くのに、書いては消した。
うかつに本を開いた罰なんじゃないかと筆者は思っている。