誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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村上春樹『レーダーボーゼン』象徴の不全

 

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村上春樹回転木馬のデッド・ヒート講談社(1985.10.15第一刷発行)

筆者、冷や汗のごときをかきながら読むしかなかった。捨てようが逃げようが、それで逃げおおせる読書ならやめちまうがいい。もちろん、われとわがこころに言い聞かせている。

 

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われながらずいぶんな書き出しだ。

きみょうな書き出しなのは、今日書こうとしている「レーダーホーゼン」についての逡巡だと思ってください。

今の筆者は、村上春樹のファンではない。さりとて、アンチ・ファンでもない。なん度も言うが世界は善と悪が戦っているわけではない。ここは、むかしの詩人に倣ってみる。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ*1と。倣っても、死んだ人ならいくらか許してくれはしまいか。

ちなみに今の筆者は、ただの読者である。いささか古びて傷ついてはいるが……。

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さて、本作はそもそも「小説」ではない。これは「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」において作者も言明している。ひとまずは、それを聞き入れよう。また、これが「小説」ではないが「小説」のように書かれていることも認めよう。なにしろこれも作者が言っていることなのだ。これだって認めよう。筆者は素直な読者なのである。

言っていることの概略は、レーダーボーゼン、ドイツの半ズボンがきっかけで離婚した両親をもつ女性のはなし、である。少しばかり訳のわからない話だ。作中の「僕」が分析するように既婚女性が精神的に独立してゆく自己形成の物語に読めないでもない。ところがそうではないという。それなら「妻のかつての同級生」の「母」が主人公になるべきだろうから、これは「自己形成の物語」ではないということになる。

この話に必要なのは、「僕」と「彼女」と「彼女の母」である。語り手「僕」が「彼女」から「彼女の母」の話を聞くという、話のなかに話が収まる、入れ子状になっている。

作中の語り手が誰かから話を聞く、という物語形式は、物語の古い古い形式である。おおざっぱな言い方をすると、この語り手が抹消されたとき近代小説らしい近代小説があわられる。それ以前は、「話し手」と「聞き手」が存在しなければ物語は物語ることができなかった。この形式は、それがフィクションであることを保証していたのである。このことは、前回述べたように、近代小説とその語られる内面という癒着と馴れあいの関係を明らかにする効果がある。

よって、本作一連の「スケッチ」はまず近代小説以前の物語形式を採用した、と見ることができるだろう。序文で、「これは正確な意味での小説ではない」と作者が書いていることは、ここにひとつ証された。

先に、「語り手」の抹消と言ったのは、本来はフィクションの保証人たるべき「語り手」が、作者の中に混在消滅化してしまうことを指す。語られていることを述べているのが、「作者」なのか「語り手」なのか、まるで不分明なそれは、実は不作為である。これは読者に「フィクション」の不在を誤認させる。簡単に言うと、本当かうそかわからなくなる、ということだ。

しかし、私小説が、ほんとうらしく受け取られ「真実」を感じたのはその「フィクション」の不在、による。厳しい言い方をすると、作者の「真実」を描きたいという性急な欺瞞と、「真実」として騙されたいという読者の安易な欲求がそこにある。これらが共犯関係なのはすでに述べたとおりで、言ってみれば、両者がよってたかって「語り手」を抹消したとさえ言える。

本作では、その抹消された「語り手」が「僕」として蘇生する。この「僕」は、かつて風の歌を聴き、1973年にはピンボールをはじいたりした「僕」ではない。似てはいるが別人であり、別人でありながらやはり「僕」である「僕」。

かつての「僕」をひどく愛した読者たちは、むかしの筆者は、別離にその別れを惜しんだであろうか。

「彼女の母」の話が語られる形式は上に述べたとおり。ここにフィクションは保証されたのである。「僕」は蘇った。花が咲き乱れ、小鳥が鳴く。ファンファーレは鳴り響くだろうか。

もちろん、そんなわけはない。物語は小説に収奪されたままなのである。「語り手」が謀殺されたとき、ともに「物語」も奪われた。人生の途上で、たまにそれに耳をかたむけ涙し笑い、鳥が巣に帰るように、ちゃんとそれぞれの人生に帰っていくことができた「物語」は奪われたままなのだ。

ゆえに、そこで語られる「物語」は、本作が「正確な意味での小説でない」ように、「正確な意味での」「物語」ではない。

「彼女の母」がもし「自立を獲得する」ことができた「物語」なら、「レーダーホーゼン」は何らかの象徴であるべきだ。しかし、おおくの謎を誘発しそうなこの半ズボンは何の象徴にもなっていない。正確にいえば、本来なら象徴となるべきアイテムが、機能不全に陥っている。それでも「物語」の残滓、その構造による働きは残っているから、その働きを果たそうとした結果、「彼女」も「僕」もその半ズボンが、「それ」でなければならない、という、そのことだけは確信しているのではないか。

「この話のポイントは半ズボンにあるのよ」

「僕もそう思う」と僕はいった。

村上春樹回転木馬のデッドヒート』講談社より引用

筆者もそう思う。

 

 

*1:藤原定家『明月記』。堀田善衛に『定家明月記私抄』あり