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中島敦『山月記』誠実な自己批判

 

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中島敦『李陵・山月記新潮文庫(昭和44年9月20日発行)

言語は、といってややこしいなら、言葉は。言葉は、ひとびとの想念のなかに棲む。筆者は、中島敦山月記』について書こうとしている。高校生の教科書や副読本にも出ているから、よく読まれた小説のうちに入る。

 

冒頭から難しい漢字が出てくる。注がたくさん附されていて、漢和辞典のようになっている。あらすじは書かない。みなさんご存知のはずだから。

珍しく難しい漢字が多いからといって、書かれている内容が難しいわけではない。内容、意味はいたって簡素である。

こういう文章を日本語では漢文と、おおざっぱに認識している。中島敦の漢文の素養を論ずる向きもあるだろう。しかし、この「漢文」がなにを指すのかは案外、不明である。

学校で教え習うことになっている漢文は、授業漢文である。先秦から漢、魏晋南北朝、唐代、宋、元、明、清と変化し続けた〈中国語〉を、便宜的に、統一的な文法で習うものだ。とうぜん、日本漢文の歴史的なそれも統一化されている。漢文、というものは、あるといえばあり、ないといえばないのである。

幕末明治の日本人に愛読された『日本外史』でさえ、山陽の創作で、当時一般的な知識人はああいった漢文は書かなかったらしい*1

そんな中で、『山月記』の文体を漢文と呼んでよいのかどうか、筆者にはわからない。漢字の占める割合、だろうか。戯れに思ってみる。

むかしの、『山月記』発表当時の日本人にもだいぶ難しく珍しかったに違いない漢字、熟語が並ぶ。それに比べて、文構造は簡明で、ややこしいところはない。もっと言うと、難しい漢字からニュアンスだけ伝わればいいように書かれている。そのニュアンスは、日本人の想念に棲む漢文である。漢字の意味がおぼろげにしかわからなくとも、想念の漢文世界が読者のなかに立ち上がるようになっている。

それによって、古典文学の言葉の自律性が機能する。つまり、言葉と言葉どうしが緊密に結びついてそれ自体として起律する文体が、文章の暴走と氾濫を食い止めている。

もちろん、暴走し氾濫しようとしているのは李徴の「内面」である。しかも、その「内面」は、芸術家の自己批判という、自己弁護か自己露悪にしかならない醜悪なものである。このテーマは、既存の、私小説のような文体では小説にならない。

しかも、この告白はその内容を見ればわかるように、必ずや〈誠実なもの〉でなければ意味がない。

そうした意味では、『山月記』の「漢文」は、「内面」の檻であり、舞台である。〈内面〉をめぐる〈誠実さ〉の装置になっているとも言える。

じっさい、「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のせいである」と吐露する李徴は、もはや「漢文」では語っていない。

そして「事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てであったのだ」李徴の慟哭ともいえる告白は、読者の心をうつだろう。

しかし、その告白は同情や共感をさそうのではない。〈誠実な〉自己批判として、読者の心に鋭く刺さるのである。

だからどれほど珍しく難しい漢字が出てきても、それは読まれる。それが高校生であっても必ず読まれる。なぜなら。ここは小さな声でいうほかないのだが、筆者も、高校生であったことがあるのである。

 

 

 

*1:齋藤希史『漢文脈と近代日本』NHKブックス