誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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佐藤賢一『カペー朝』『ヴァロア朝』『ブルボン朝』子供の読書

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佐藤賢一カペー朝』『ヴァロア朝』『ブルボン朝講談社現代新書

どんな作品、著作であれ、まずは読者がいなければ話にならない。これは筆者の考えである。もちろん、どちらが、偉い、という話ではない。お客ではあっても、神仏のたぐいでは、まるでない。上の言い分は、読者は読めなければ話にならない、ということでもあるから。

さて、取り上げた3冊だが、勇気のある、自信のあるタイトルだ。まずは読者が興味関心をもって手に取ることを願うなら、『カペー朝』『ヴァロア朝』『ブルボン朝』とは何事だろう。

きょうび、タイトルが一文をなして内容を説明していて、それならもう読まなくてもよさそうな書籍が多い中で、ずいぶん堂々としている。筆者はひそかにアレは中身の見える福袋だと思っているが…。

それでも、おもて表紙には「フランス王朝史」とあるから、かろうじて中身は推察できる。著者は西洋歴史小説家で有名な人物だから、そのネーム・バリューなら必ず売れるという自信だろうか。

学校で教わることになっている歴史は、万国史と一国史をないまぜにして教えるから、わけがわからないのである。ほんらい一つのものを別物として、なおかつ一緒にどちらも教える。やむなく同時並列進行する時間を、前後左右にゆきつもどりつ教えるわけだが、おそらくこれは一番わかりにくい教え方である。そしてそこに、よせばいいものを、文化史や風俗史などを添える。知っている人間にはわからぬでもないが、知らない人間には全く伝わらない仕組みになっている。

国策で歴史に人民が親しまないようにあやつっているんじゃないかとさえ思う。

さて、本書はそうした歴史のなかでフランス史。その歴代王朝の歴史を、紀伝体で描いたものだ。それぞれの王とその名前、在位が記され、その業績悪行人柄善徳という、ひとたび生きてやがて死んだ人間のできごと、が物語の文体で書いてある。

これによって、あたまのなかで、ごちゃごちゃになっていたルイやらフィリップやらシャルルが一本の線に沿って躍動し、展開する。筆者はかつて遭難し行方不明になっていた、記憶の断片たちが救出されるのを、目の当たりにするような気がした。

該博な知識を、該博なまま語る者はある。あるいはその広大さの断片だけ教える者もある。しかし、該博を読者と分かとうとする者は稀だ。分かちもつかどうかは、読者の責任である。

むかし、「伝記」という子供向けの本があった。おそらく今もあるだろう。偉人とされる古今東西のひとびとの一生を描いたお話だ。艱難辛苦汝を珠にすべし、とか。正直者は報われる、とか。刻苦勉励こそ立身出世の道なり、とか。ずいぶんお節介なことも書いてあった記憶もあるが、もちろん子供はそんな処など読んではいない。そこにあるこの世の不思議と、その不思議にじぶんも含まれている不思議に感じ入るのである。子供ならば、その程度の読書センスはある。のちに失うだけだ。

本書もその「伝記」の精神が生きている。カペー朝の由来となる始祖ユーグ・カペーから始まった物語はボナパルト・ナポレオンを経てオルレアン朝ルイ・フィリップまで続く。「大革命」を経たフランスは、共和制へと移行し、王そのものがいなくなる。

なぜか、と感想が残る。

なんとなく、子供の読書に似ている。

答えではなく、問いそのものを問うことを体験するのが読書なら、これは上出来の感想だろうと筆者は思っている。