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森鷗外『阿部一族・舞姫』疲れる「内面」

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森鷗外阿部一族舞姫新潮文庫(昭和43年4月20日発行)

「内面」は疲れる。

これを抱えて社会を右往し、あるいは左往する。夜には胸に抱えて眠りにつき、心理学の説くところによれば夢にさえ出るらしい。潔癖なものあり、醜悪なものあり、勝手に感動をもたらし自ら感動し、たとえばそれを嫉妬と名付けることもできないまま、こころの嵐に曝される。疲れないわけがない。

疲れて思うのは鷗外である。

今回取り上げた一冊は、この疲れる「内面」とそうでない「何か」を配置した良書だ。『舞姫』『うたかたの記』という告白からはじまり、ふいに中世の英雄豪傑が現代に現れたかのような『鶏』。告白から一歩進めて社会心理分析的な『かのように』。そして内面を拒絶した『阿部一族』『堺事件』という歴史小説。とはいえ内面を拒絶もできないのが近代だ。『余興』という近代の不思議で可笑しな辛酸に遭う。そのあとに『じいさんばあさん』。個人の歴史のようでありながら、読者は書かれていない翁媼の内面に感を覚えるだろう。ひょうげた雰囲気をただよわせる『寒山拾得』は、自らも「文殊」なのだと結ぶ。なんのことだ。

筆者はくたびれた折々『舞姫』を流し読みにして『鶏』を読む。『阿部一族』をぱらぱらめくって『寒山拾得』を読む。

自律した古典世界のような安心感がありながら、古典世界の文学ではない。

「内面」という、影のように付き纏いながら、影よりずっと喧しいそれを、一時忘れることができるような気がするのである。もちろん、気がするだけだから、その報いはあとで受ける。「内面」という「私」は嫉妬深いのである。

それゆえその嫉妬は、古典世界の安楽という妄想に眠ろうとする筆者を叩きおこす。

飄逸な『寒山拾得』の向こうに、『舞姫』の告白を書かざるをえなかった鷗外を見せるのである。なんと心無い奴であろう、わが「内面」とは。

もちろん、言われなくとも知っている。その「内面」は筆者の、わたしたちのご先祖である。

知りすぎるほど知っているに決まっているではないか。