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安丸良夫『神々の明治維新』近代日本の精神史

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安丸良夫『神々の明治維新岩波新書(1979.11.20第一刷発行)

どこで読んだか忘れてしまったが、日本歴史学でもっとも論文著書が多いのは維新史らしい。

尤もだという気もする。そのなかで一番多いのは政治史だろう。そして珍しいのが本書のような精神思想史ではないか。

しかしそれが、すきま研究でないことはタイトルにも見て取れる。『神々の明治維新』とは大きなタイトルだ。著者の自負がうかがえる。

思想史ならまだしも、民衆の精神思想史となると、これといった形や、それ専門に書かれた文献があるわけではない。手法は、民俗学のように、歴史にちらばった欠片を丹念にあつめて読み込まなければならないだろう。そしてその資料の性質上、臆断や僻論に陥りやすい。

本書の副題にもある「神仏分離廃仏毀釈」は、政治史を中心とした歴史のなかでは、ひどく小さなトピックだ。年号を入れて、二行に分かち書きにすればそれで済んでしまう。

しかし、幕末から維新へと向かい、さらに近代国家に押し上げた、「外夷」にたいする心理的・生理的な不安と時代を動かすにいたったエネルギーは、政治史の英雄豪傑らのみではけして生み出せなかったものだろう。

どうしても歴史を「時代物」のようにとらえる癖がついているから、人間関係と芝居の起承転結で理解したがるだけである。

心理的・生理的な不安の向かうところは宗教である。江戸幕府は、宗門改めでキリシタン禁制と庶民の信仰を統制した。「淫祠邪教」を厳しく取り締まったのは、ひとえに人心収攬のためである。

幕末、とくに慶応年間に大流行した「ええじゃないか」は、お伊勢参り、おかげまいりから発展的に拡大した「淫祠邪教」だとみてよい。幕府の統制のたがが緩んだことで爆発的に流行した。これを方向づけることは維新政府の、喫緊の課題であったろう。

「ええじゃないか」の大流行が慶応年間ということは、一面的には、庶民は「ええじゃないか」と踊っているあいだに明治維新を迎え、また一面、今なおそうなのである。もちろん、感染症への皮肉である。

さて、あやうく本書の内容をつらつらと書きそうになった。解釈ならまだしも、内容を書いてもしかたない。

とはいえ、幕末期まであった民衆の信仰、宗教を、国家が再編成し、国家神道へと統合してゆくすがたを、民衆史の観点から細かな事例を拾いつつ論じてゆく本書は、面白い。信仰だとか宗教だとかいう、民衆の無意識の精神思想を、国家が読み替えてゆく壮大な作業であったことがうかがい知れる。

想像を働かせれば、のちに共産党天皇制とよぶにいたる、集団的無意識の表象が、精神史的には何であったのかにまで繋がる。

そしてそのラディカルともいうべき急進性は、なんとも日本の精神風土そのものであるように筆者には思えた。一例として美濃山間、苗木藩を挙げよう。

苗木藩の廃仏毀釈は領内の全寺院(十五か寺)を廃毀し、石像石碑にいたるまで仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させる、というすさまじいものだった。

(中略)

神葬祭改宗は、きわめて徹底したものだったため、現在でも旧苗木藩領の大部分は神葬祭である

※本書より引用

ものに憑かれたようなものだが、著者の視線は、啓蒙主義ふうの蒙昧をみる視線ではないし、民衆寄りのいわゆる温かい視線でもない。

本書の特徴だろう。

政治史を論ずるうちに論者が政治思想にとりこまれてしまうようなことは本書では起きない。まして精神思想史を扱っているわけだから、その陥穽は満ちている。危ないこと、この上ない。しかし、その罠に落ちていないのである。そして、歴史に学ばされるお節介もない。

歴史学者で歴史に学ばせない学者は貴重だと筆者は思っている。それは餅屋が餅が旨いから食えというのと一緒だ。そりゃあ旨いだろう。