コンラッド『闇の奥』絶望的な想像力
小説を読んでいるとたまに書籍とその書名が出てくる。
小道具としての場合もあるし、暗示だったり、象徴だったりする場合もある。
それが知った本なら親近感が湧くし、知らない本なら知見がひろがる。
まして愛読している著者の示した知らない本なら、その本はほとんど友だちの紹介みたいなものだ。そうして本は本を呼ぶのである。
『ノルウェイの森』にコンラッドが出てくる。ジョウゼフ・コンラッド(1857-1924)。主人公がなんども読み返している作家だ。今となってみれば、なんてやつだと思うが、筆者は若年すぎてさぞ素敵な本に違いないと思ってすぐに読んだ。『闇の奥』である。勘違いだけでも、意外と人生はひろがるという一例である。
もちろん、主人公がコンラッドをどう読んでいたかは、正確には描かれていない。いなかったはずだ。手元に上巻がないのでわからない。
ただ、類推すれば、ラヴクラフトの小説のように読んでいたんじゃないかと、今なら、思う。
『闇の奥』は、文明から隔絶したアフリカの奥地からさらにその奥地に、文明と人間性の深奥を見る、という小説だ。懊悩するような得体のしれない不安を、なにか絶望的な想像力で満たそうとするところ、両者似ていないでもない。
漱石に「コンラッドの描きたる自然について」という小文がある。人物を圧するくらいの、自然の描き方がよいと褒めている。自然は登場人物が動きまわる舞台の背景だ、というくらいの理解。ちょっと面白い。読み方の、時代が違うのである。
また、『闇の奥』の船乗りマーロウが、救いようのない場所へ向かうのも、『ノルウェイの森』のワタナベくんに似ていないこともない。巻き込まれるように見えながら、すこしづつ自分で赴いてゆくあたり、好んで火中の栗をひろいにゆくようなところがある。これで不幸にならないわけがない。
もちろん、繰り返しになるが、今となってそう思うだけで、はじめて『闇の奥』を読んだ筆者は、なにがなにやらさっぱり分からなかった。分からなくて頭がもやもやする小説だと本を閉じたはずだ。
そういう意味では、得体のしれない不安、を感じ取ってはいたようだ。
中らずとも遠からず。理解にはほど遠いが、直観的にはなかなか中っている。そんなことも、若いうちは、あるらしい。