「今は亡き王女のための」について書いてから間が空いた。
筆者はサルトルの『嘔吐』を読んでいた。なんと面倒なことだろう。今回取り上げる短編(あるいは「スケッチ」)は『嘔吐1979』だ。
こんにち、サルトルがどういう評価になっているのか筆者はしらない。ただ、大昔、というのは戦後から1970年代くらいまで、ものすごく人気があったようだ。
類似点、翻案、影響などをリストアップしてもいいが、出来の悪いレポートを見せられては読者も迷惑だろう。手短に言う。
サルトルの『嘔吐』
そもそも、『嘔吐』は正確には嘔吐「感」である。いっぽう、本作はそれそのまま。尾籠な話だが、じっさいにひたすら吐いている。前者が「不快感」に苛まれるのに対し、後者は「不快感」はない。
『嘔吐』の主人公ロカンタンが、外界の物質に覚える不快感を「存在」として見出し、人間も含めた「存在」が「本質的に」「偶然」であると見出すようなことは、本作「彼」には起きない。手軽な不倫をつづけ、食べ、飲み、ただ、吐く、だけである。
ちなみに『嘔吐』は、このタイトルに決定するまで候補がいくつかあったらしい。そのひとつが、『アントワーヌ・ロカンタンの驚異の冒険』で、読後解説を読んでいて得心がいった。「存在」の「偶然性」をめぐる主人公ロカンタンの「冒険」ばなしとして読める。
さて、比較はこれくらいにしよう。まずは目の前の作品を読むことだ。
「電話」の呼ぶ名前
「嘔吐」は生理的身体的な反応である。「吐き気をもよおす」と言った場合、論理思考を拒絶して、感情的に、生理的に受け付けないことを指す。もちろん、「もよおして」いるだけで、実際には吐かない。いっぽう、異物を、腐敗物を、飲み込んだ場合、消化器である胃から逆流する。どうも汚いはなしがつづく。
彼の「嘔吐」の日記*1は、吐いたことを書く一方で、彼の食べた物のリストでもある。「ハムとキュウリのサンドウィッチ」にはじまり、「鰻」「マーマレードつきのイングリッシュ・マフィン」以下略。
そして、彼は
彼が出ると男の声が彼の名前を告げて、そして電話はぷつんと切れた。
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』「嘔吐1979」より引用
という電話を毎日受けるようになる。
「嘔吐」という不条理に、電話がかかってくるという不条理が重なる。
不条理は、じしんの予断が裏切られたとき主観的に見いだされる。よって、人はかならず必然を見出そうとする。たとえば歴史は、時間の累積がただ積み重なることに人間が耐えられないことによって生みだされる。
「嘔吐」をつづける彼も、不条理の必然を見出そうとするが、彼の暮らしに必然はないのである。きまぐれな不倫に親密性を見出したり、ヴァリエーションに富んだ酒と食事を済ませたり、結婚に懐疑的なことを言ってみたり。必然に帰結する行為を回避している。あるいは「僕」が現実的な対応、病院、警察などへの相談と協力を願わなかったのか、という当然すぎる疑問に対しても、彼はその「現実的」そのものを否定する。「嘔吐」はこの「現実」の拒否であろうか。
要するに自分一人の力でなんとか片づける以外に方法はないんです。
前掲書より引用
偶然から必然に帰結するものを「現実」と呼ぶなら、彼によって偶然から必然に向かう道は閉ざされている。彼は偶然という不条理の虚空に、宙づりにされているとも言える。
そのことを彼に知らせるように「彼がひとりの時に」電話はかかってくる。普通に読めば、この電話の主の声は、彼じしんであろう。外的に、電話がかかってきているかどうかを保証する客観性はどこにもないのである。
ひとりきりの人間が、自分が自身であることを証明するすべはない。それは社会的役割や人間関係のなかで構成されるものだからだ。かろうじて、自身で確認できるのは、自身の「名前」だけである。
だから、「電話」はかかってこなければならない。「嘔吐」という拒否と否定をつづける彼じしんを保証しているのは、「電話」が彼の「名前」を呼んでくれるからだ。
これが、内面の声でもなければ、もうひとりの自分の似姿でもなく、機械の電気信号であることは、電話によって繋がったと誤認される人間関係を思えばいいだろう。電気信号でも、人間は孤独ではないと思い込めるのである。
「嘔吐」したのか?
さて、ここで筆者は迷っている。
彼はほんとうに「嘔吐」したのか、という疑問である。
彼自身「分裂症」を疑っているが、作品を読む限り、「電話」同様、これを裏付ける根拠は見当たらない。「嘔吐」も「電話」も彼がひとりのときに発生している、と読める。
すると、「嘔吐」は「現実」の拒否である、と先に筆者が書いたことは成立しない。
ここでサルトルの『嘔吐』にひきよせて読むなら、ほんとうは、彼の「嘔吐」は、彼自身の「冒険」でなければならなかったはずだ。冒険への召命から始まり、難関難題を乗り越えて、エンディングまでたどりつく物語。
それなら、彼の「日記」はある種の冒険譚をつづった物語、になるはずだ。ずいぶん尾籠な物語ではあろうが、本作末尾で「僕」が言うように、「学び」はあったはずだ。得たもの、失ったもの。教訓。反省。なんでもいい。
「日記」の証明
本作の彼の話は、彼の話というより、彼の「日記」の話である。「日記」がもとになっている。「嘔吐」と「電話」は、「日記」に書かれた物語だと言える。彼がどれほど正直に事実を書いたと主張しても、彼にはその真偽を証明するすべがない。まして、必然性による「現実」を拒否する彼にとって、必然の累積である「事実」とその「日記」とは何だろう。
作中には、リアリティの根拠になるはずの、小道具や年号日付がちりばめられているが、これらが集積するほど彼じしんにとってのリアリティは増し、じぶんで疑うことができない状況に追い込まれている。
彼自身が言うように、いっそ「分裂症」ならいいのである。
そうではなくて、「現実」を拒否していると目される「嘔吐」じたいが、「日記」のなかだけに存在し、それを証明することができないまま、彼はその「日記」という「現実」を生きなければならないとしたら。
「分裂症」が幻覚妄想に支配されるとするのは、対置される「現実」が保証されているからである。サルトルの『嘔吐』のロカンタンが奇妙な現実の歪みを意識できるのは、「現実」の確かさがゆらぐからだ。
しかし、「現実」そのものを担保する確かさがそもそも成立していないならば、人は「分裂症」になることもできない。
このへんの、危うさと曖昧さは、彼と「僕」によって、本作末尾で問答される。
理由なく始まったものは理由なく終る。逆もまた真なり。」
「嫌なことを言いますね」(中略)「ねえ、ほんとうに来ると思います?」
「そんなことわかるわけないさ」と僕は言った。
(中略)
「あるいは、それは今度はぜんぜん別の人の身に起こるのかもしれませんよ。
前掲書より引用
……ほんと「嫌なこと言いますね」。