石原慎太郎『太陽の季節』読まれること
石原慎太郎が亡くなったという。
筆者が今の世に生きている証明というわけでもないが、少し書く。
『太陽の季節』を読み直してみた。かつて読んだときに記憶していた、鮮やかさ、はちょっと見当たらなかった。時代が違うんだといえばそれまでだが、軽快で闊達で、暴力的で軽薄な文体の向こうにある、なんといったら良いのだろう、あまりの脆弱さと繊細さが目についた。
書かれている内容と、男性性への自信をにじませる文体だが、その被嗜虐性は、作者じしんの眼をも眩ませるようなところがある。なんとなく、今読み返すまでは気にもしたことがなかったが、作者が政治という現実らしい現実に身を置き続けざるを得なかった理由が、なんとなく、思われた。
最近読み直したせいかもしれないが、三島由紀夫の『沈める滝』を思わせる設定だ。
もちろん、と言っては故人に失礼かもしれないが、三島には比べるべくもなく、及ぶべくもない。三島は好感を持ったろうが、その目指すところは可愛げがあるくらい存外他愛ないのである。
じつは「書くこと」が何もないということを、文体で以て証明してみせたに過ぎないのである。
もちろん、その一方で、文壇的な通例をことごとく、意図的に踏み破ることで、新しさ、も生み出している。これを戦略的とみるか、あざとさとみるか、したたかさとみるか。または、意外に切迫した何かを書いたのだと、いささか過剰にその心事を読むか。いずれにしても、「読まれる」ことに特化はしている。
そういう意味では、メディアのまえに仮面なり本音なりを晒し続けなければ、存在を維持できない存在であったようだ。それは、あまりに正直すぎる生き方であったとも言える。
作家として、政治家として、テレビ・タレント、評論家として「読まれ」続けることは、果たして、彼にとって禍福いずれであったのか。
もちろん、筆者はそんなことまでは知らない。
憎まれっ子で差別主義者でミソジニーの典型、そしてもしかすると逆説的アメリカの手先で自民党の補完勢力の頭目で弟へのコンプレックスがとうとう晴らせなかった男でマザコンで矢鱈と読みにくい悪文を書いた作家で立川談志の理解者親友で子煩悩で東京都政を壟断した害悪で日本国総理を待望され死ぬ間際には作家に戻った男、彼。
その死を思うと、ちょっと息が詰まりそうになる。
もちろん、どんな人間であっても必ず死ぬということを再確認しただけだ。
冥福を祈る。