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中野重治『村の家』転向をめぐって

〈転向の定義〉鶴見俊輔

鶴見俊輔は〈転向〉を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」*1と定義している。
これだけ見ると、「権力」と「強制」にアクセントがつきすぎていて、じっさいには自らすすんで、という自発性とうしろ暗さ、それから節を変えたという恥辱がうまく表わせていない。
日本の社会で、恥辱「恥」というものが非常な大きさで比重をしめていることは、日ごろこの社会に棲み暮らしして誰しも気づいていることだ。内面的にどれほど自分に言い聞かせ、説得しても、拭い去ることのできない汚点や傷として残るのが「恥」というものだろう。

だから、〈転向〉は〈転向〉と呼ぶほかないわけである。

そのうえ、語の内容のどこにアクセントの強弱をつけるかによって、ひどく狭いはなしにもなれば、広がりすぎてただの一般論にもなってしまう、そんな言葉なのである。

『村の家』成立の時代情勢①

1928年、水野成夫による獄中転向、1929年、佐野学、鍋山貞親らによる転向声明など、共産党員の〈転向〉が、狭義にあたると同時に、原義の〈転向〉である。このへんのいきさつを説くのは筆者には荷が勝ちすぎている。そこで、小説を一篇取り上げることで代えようというのが今回の作文になる。
取り上げる作品は、中野重治『村の家』(昭和10年)である。
狭義の〈転向文学〉でその典型と見なされる作品になる。
今からすると、おそろしく古い小説だ。理由もなしに読んだら、面白さを見出すのはちょっと難しいかもしれない。

中野重治は1902年生まれ。小説のほか評論、詩を作った。

福井県の自作兼地主の家の次男である。金沢四高で2年落第。そこから東大独文科に進学。在学中にマルクス主義に傾倒し、プロレタリア文学理論に基づく、詩、評論を発表。

卒業後も、その活動は続くが、1932年4月、参加したコップ(KOPF=日本プロレタリア文化連盟)に対する大弾圧によって捕らえられ、1934年9月、懲役2年執行猶予5年の判決で出所した。この後、「転向五部作」と呼ばれる〈転向文学〉を書くに至る。*2

2022年なのに、プロレタリア文学、なんて書くとなんだかクラクラしてくる。

『村の家』はこの〈五部作〉の三作目にあたる。くだくだしく導入を書いてしまったけれど、前段としてのいきさつが分からないと読みようがないので已むをえない。
そして、この小説は私小説である。なにゆえかというと、作者じしんが言っているからである。

「自分の直接経験した事実(現象としても事実であったもの)」を書いたもので、「すべて空想をしりぞけて事実のなかに一つの流れをさぐり」たかった*3

「事実」なら、ドキュメントかルポルタージュで書けばよさそうなものだ、と疑問がたくさん湧いてしまうところだが、それについては後で触れる。
いずれにせよ、作者じしんが、注意書きのように「事実」の私小説だと言い切ってしまうという、まあまあ珍しい小説なのである。

そして、くどくど書いた中野重治の略歴のなかで、1934年の出所前後から、中野重治じしんの作中人物勉次が実家である「村の家」に帰ってきたところから本作は、はなしが始まる。

『村の家』の内容

本作は中編小説とされているが、今ならじゅうぶん短編である。とても短い。
書かれている内容は、

  1. 知識人と日本の民衆
  2. 社会主義運動からの獄中転向
  3. 父孫蔵との相克

とおおまかに言って三つに分けられる。

知識人と日本の民衆

中野重治は東大出のインテリである。書き出しで勉次が「翻訳」をしているのも、おそらくはドイツ語であろうが、高い学歴を得た者としての描写になる。

日本の社会主義運動は、彼のようなインテリ、学生、知識人によって担われた。もちろん、都市労働者も参加したが、「指導」したのは彼らではない。よって、当局が弾圧を決意したときに、その頭から潰しにかかったのは理にかなっていたわけだ。

冒頭で、「宗門改め村人別」を眺めて「百姓の女名の変化に現われた何とか……」「そんな問題がちらっとする。」とある。これによって、インテリ知識人がその「指導」先である労働者や一般大衆を、どう見ていたのかがわかる。

問題がそんな形で頭に浮かんだこと、現象から社会的なテーマを引きだそうとすることが、恥知らずな行為に思えたのだった。

※『日本文学全集42 中野重治集』集英社より引用

社会主義運動が、決定的に敗北したことを、勉次なりに分析した結果がここに書かれている。
革命の方法や、その理論が活発に議論される一方で、今ふうに言えば、一般大衆とくに当時の疲弊した農村の実態などまるで目に入っていなかったのが、当時の社会主義運動が敗北した大きな原因であったようだ。
つまり、インテリとその他民衆はまったく断絶していて、その裂け目はあたかも民衆の愚かさ、迷妄さのせいにされていた。

これは、こんにち、今なお、変わらないことだ。「反知性主義」が「バカ」を指す言葉になっていることを思ってみればよいだろう。それはエリートのうぬぼれである。

知識人という優秀で頭の良いじぶんたちが、愚かな民衆を「指導」すれば、社会は良くなる、といういささか自分勝手な独善がそこにある。
じっさい、弾圧された「主義者」たちを助ける民衆はなく、むしろ、その検挙や密告には進んで当局に協力している。理論はないかもしれないが「主義者」たちの胡散くさい独善を、一般のひとたちは見抜いていたとも言える。

このことを、勉次は、というか中野重治は、「恥知らずな行為に思えた」という言い方で反省しているのである。

ただ、それでは一般民衆が〈正しかった〉のかと言うと、はなしはそう簡単ではない。社会主義運動という抵抗勢力を壊滅に追い込んだあと、日本国家は太平洋戦争に向かって軍国主義の道を一気に歩む。その敗戦を迎えたとき、戦争協力の果て、すべてを失ったのは民衆自身なのだ。
本作のテーマは、視点をひろく持つと、明治時代からずっと、いまだに続く知識人と民衆の断絶、も含んでいるのである。

社会主義運動からの獄中転向

冒頭を過ぎると、勉次の眼から見た、「村」の様子が描かれている。煤けた家や、貧しい村、そして、複雑に入り組みあった人間関係。かんたんに言えば、口コミ、他人の噂でできた古い共同体。田舎にいくと今でも残っている。
そんな暮らしを横目に、フラッシュバックするように、勉次の収監と裁判をめぐる回想が織り込まれる。おおくは、父孫蔵との書簡のやりとりによって描かれている。
これは、〈転向〉という中野重治の「恥」をみずから暴くことへの葛藤だろう。じぶんで「恥」を暴いて恬淡としていられたら、たぶん、それはもう「恥」ではないから。
しかし、収監中の勉次が心配していたのは、主義でもその運動でもなく、まして理論でもなかった。

彼は、死よりも発狂を恐れたが、恐怖の瞬間には本当はどっちを恐れているのか弁別できなかった。一度は自殺の恐怖とも戦った。

※前掲書より引用

治療中だった「黴毒(ばいどく)」による「発狂」を恐れていた。しかし、これは尤もすぎる理由である一方で、尤もすぎる言い訳である。言うまでもないことだが、彼は、もちろん、〈転向〉をこそ恐れていたはずだからだ。それを直視できない恐れが、「発狂」への恐れにすり替わっている。

中野重治はこのへんの、じぶんの狡さを正直に書いている。

病気による保釈という希望は、さしあたって〈転向〉しないで済む、あるいはそれについて考えなくていいという言い訳を彼に与えている。

その心境を「ヘラスの鶯」と喩える心事は、筆者にはちょっと理解できないことではある。

ここから勉次が〈転向〉に至るいきさつは、少しばかり、わかりにくい。そもそも〈転向〉という言葉は出てこない。事実の列記のように書かれていて、その事実どもが、中野重治のうずくような「恥」をかさぶたのように覆っている。
曰く、じしんの病。保釈願いのために必要な書類をそろえること。父孫蔵が身元を保証すること。そして同棲していたタミノにそれを明確に伝えないこと。そういったことが描かれる。
やがて勉次は執行猶予付きで保釈され、実家に帰る。
彼は〈転向〉したのだ。

父孫蔵との相克

勉次の保釈のため、何度も上京し金を工面したのは父孫蔵である。「自作兼小地主」という、昭和に入ってから没落していった地主、地方の名望家である。「正直もの」だが「頑固もの」ではなく、近隣の人望も厚い。病がちな妻をいたわり、なんとか家をひとりで支えている。
そして上京した「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」が、いっぽうで「勉次なぞの夢みていることやその仕事を彼は甘い」とも見抜いている。
60歳を越えてから、彼は息子勉次の逮捕を知る。勉次は実家の状況を、父からの手紙で知っているわけだが、それでも自らの裁判と保釈のために何度も父を呼びだす。

筆者は小見出しに「相克」と書いてしまったが、ここにあるのは父孫蔵の子への強い情愛である。

この情愛が彼をして勉次に説諭させる。本作のクライマックスで本題である。

孫蔵は、じしんが必死で家を支え、妻や子供たちの願いを能うかぎり叶え、勉次の「共産党」活動に対しても金を送り、自分で決めた道なら、と理解を示してきたことを諄々と説く。
しかし、

「転向*4と聞いた時にゃ、おっ母さんでも尻餅ついて仰天したんじゃ。すべて遊びじゃがいして。遊戯じゃ。屁をひったも同然じゃないかいして。(中略)

お前らア人の子を殺いて、殺いたよりかまだ悪いんじゃ。ブルジョアじゃ何じゃいうても、もっと修養のできた人間はぎょうさんある。(中略)

お父つあんらは、死んでくる*5ものとしていっさい処理してきた。小塚原で骨になって帰るものと思うて万事やってきたんじゃ……。」

※前掲書より引用

解説は要らないだろう。その〈転向〉という「恥」を孫蔵は指摘する。

「お父つあんらは、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ」

※前掲書より引用

そのうえで、孫蔵が説諭するのは、失敗は誰にもあること。百姓でもやって暮らす、自分で労働して自分の稼ぎで食べることになんの「恥」もないこと。
「よう考えない。我が身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。」と孫蔵は続ける。「土方」でもなんでもして、「そん中から書くもんが出てきたら、その時は書くもよかろう。」「どうしるかい?」

お前はどうするのだ?と孫蔵は勉次に問う。

「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」

「そうかい……」
孫蔵は言葉に詰ったと見えるほどの侮蔑の調子でいった。

※前掲書より引用

「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」という勉次の言葉が本作のすべてだと言ってもいい。これだけ理解し援助し、あらんかぎりの情愛を注いでくれる父の、心からの説諭に、それを聞いたうえで、彼は筆を捨てない、とかろうじて答える。その心事を、

自分は肚からの恥知らずかもしれない。しかし罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破ったらそれこそしまいだ。

※前掲書より引用

と勉次は言う。
孫蔵の言うことを、尤もだと思う方も多いかと思う。筆者もはじめそう思った。吉本隆明も『転向論』のなかで褒めてさえいる。これがほんとうの民衆の姿だと。
またいっぽうで、これは同時代評に多いのだが、そこに立派な文学者のすがたを見いだし勉次を、中野重治を賞賛する向きもある。

筆者は久しぶりに読み返して、これはどちらでもないなと思った。

賛否両論の読み方だと、勉次が孫蔵のどこに「罠」を「感じ」たのか。この「罠」の理由と意味が解けないだろう。
ここが解けなければ、勉次はじしんが言うようにただの「恥知らず」だ。しかし彼は「自分の答えは正しい」と書いている。

この「罠」が前回筆者がやぶれかぶれに書いた〈日本への回帰〉につながるわけだが、それは次回に。今日もありがとうございました。

『村の家』成立の時代情勢②

〈転向〉の時代情勢について補足する。
昭和8年のはなしになる。

年号のはなしばっかりしていると嫌がられそうだが、昭和8年は西暦でいうと1933年。
この2年前が満州事変で、前年昭和7年(1932)には5.15事件。そして1933年に日本は国際連盟を脱退している。
前に「32年テーゼ」と不用意に書いてしまったけれど、日本がファシズム化、軍国化にむかってそのピッチを大きくあげてゆく中で、国内の左翼勢力がそれに抵抗する、あるいはそれに引きずられるようにして先鋭化してゆく理由はその情勢に求められる。

昭和8年6月8日、佐野学、鍋山貞親らによる転向声明とは前回書いたことだが、このとき出された『共同被告同志に告ぐる書』は、検事*6と裁判所に後押しされる形で発表された。それは

  1. 天皇制の支持
  2. 満州侵略の肯定
  3. コミンテルン離脱

を声明として発表されたものである。内容には触れないが、上に書いた時代情勢を肯定し、それまでの共産党社会主義運動を全面的に否定したことが大きい。
そして特筆すべきは、この声明以降の〈転向者〉の人数、である。
当時、思想犯、政治犯として検挙された治安維持法違反者の数は、1763名。これは未決囚と既決囚を併せたものだ。そのうち548名は、上記の声明に追随して〈転向〉した*7
中野重治は、こういった情勢のなかで〈転向〉したもので、けして特異なことではなかったのである。
それでは彼の特異さはどこにあったのか。

「罠」とは何か

自分は肚からの恥知らずかもしれない。しかし罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破ったらそれこそしまいだ。

中野重治『村の家』より引用

前回のつづきだが、この「罠」を見出したのが中野重治の特異さであり、「村の家」の特異さであろう。

勉次は父孫蔵の情愛をしっかりと受け止め、その説諭もじゅうぶん理解している。その上で、「罠」を感じている。それがこの作品末尾に書かれている。

ただ彼は、いま筆を捨てたら本当に最後だと思った。彼はその考えが論理的に説明されうると思ったが、自分で父にたいしてすることはできないと感じた。彼は一方である罠のようなものを感じた。彼はそれを感じることを恥じた。それは自分に恥を感じていない証拠のような気もした。しかし彼は、何か感じた場合、それをそのもとして解かずに別のもので押し流すことはけっしてしまいと思った。

中野重治『村の家』より引用

この部分が、勉次による「罠」の説明といえば説明になっている。

いくつかに分けて説明する。というのは、同じ言葉が二重の意味をもって書かれているからだ。そのせいで勉次に賛成の読み方と、その反対が生まれてしまうのである。

  1. 父子にとっての「筆」
  2. 同じく彼らにとっての「恥」
  3. その「罠」とは何か
父子にとっての「筆」

勉次が言っている「筆」は、父孫蔵が前回の引用で「我が身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。」と言っていた「筆」とは意味が異なる。
からしてみれば、花鳥風月を詠む閑事にしか見えない「筆」だから何時でもいいではないか、と孫蔵はいうわけだ。しかし、勉次の「筆」=活動と文学は、じぶんはおろか父と村と国そのものを台無しにしようとするファシズム国家そのものとの対峙と対決である。
それは、過去にも未来にもなく、「いま」にしかない。なんなら「いま」「筆」を振るわなければ、それこそ「遊戯」になる。

しかし、これを「彼はその考えが論理的に説明されうると思ったが、自分で父にたいしてすることはできないと感じた。」わけだが、ここに、「民衆と知識人」の乖離、へだたりがある。これが埋められなかったことが勉次自身の政治的敗北につながっているし、勉次自身これへの答えをみつけられていない。そのうえ、投獄された彼を保釈するため奔走し、実家にまで引き取って受け入れてくれたのは、他ならない父である。これに論駁することなどできない。

むつかしく言葉の二重性といってもいいなら、ここに一つ目の二重性がある。

同じく彼らにとっての「恥」

そして、この反論しようのないなかで、勉次は「罠」を感じるわけだが、そのまえに、この「罠」を感じたじしんを「恥」じた理由を考えてみる。

頭から順に読んでいくと、分かりにくいのだ。

ここではひとまず、ばくぜんと「罠」として保留しておく。

さて、勉次が「恥じた」のは「罠」ということばに含まれた激しさが、父に向かうことで内心に呼びおこされる後ろめたさ、ゆえであろう。とても父親にむけていい言葉ではないから。

これは勉次自身の倫理的な「恥」である。
いっぽうで父孫蔵が勉次に説く説諭も、根っこには「恥」を知るこころがある。
どちらも同じ「恥」だが、後者は社会的な「恥」、文化的なものである。

孫蔵は日本の社会のなかで生きてきた。だれに「恥」じることもないように。そして息子勉次にたいしてもそれを指摘し、どうするのだ?と問うているわけだ。

この説諭じたい、どこにも間違ったところはないように見える。

けれども、この「恥」を知ることこそが、勉次の対峙してきた日本国家の根底をささえているのではないか。悪人や偽善者だけで国がなっているわけではない。誰しも知るように、じっさい殆どは善男善女といってもいい人たちである。それらがみんなまとまって、国家のなかに棲んでいる。それぞれ生活の知恵を見つけ出し、生きている。

作中でも言及されているように、孫蔵は日清戦争に従軍している。自作兼小地主としても日夜奔走している。そして家族のためにも努力をしている。そうした「苦労」は孫蔵じしんを矯め、勉次に説諭するような、他人に「恥」ずかしくない生き方を身に着けるにいたっている。

それでもじっさいは、その善良な暮らしの苦労は国家が強いたものではなかったか。徴兵や土地問題、農村の疲弊。けれどもそれらは理論化、言語化されることなく、日々の暮らしのなかに埋没して、逆にその困苦を積極的に受け入れて道徳や生き方をつくりあげている。これを批判するのはたやすいが、暮らしていかなければ生きていけないという前提を突き崩すことは誰にもできないはずだ。しかし、ときのファシズム国家を支えていたのは、この「まっとうな暮らし」なのである。積極的な加担ではないかもしれないが、むしろ確実さという点からみれば、彼と彼らこそが国家の礎となっていたのである。

かんたんに言うと、経験から割り出された人生訓であり、堅実にもみえるが、ほんとうは「恥」をかきたくない、というその「恥」に強いられたものなのではないか、ということだ。

ちょっと長くなったが、「恥」という日本語のなかに二重性があって、その二重性がみわけがつかないくらい融合している。二つ目の二重性である。

その「罠」とは何か

この二つの、ないまぜになった「恥」の二重性を巧妙に利用したものが〈転向〉なのではないか。これを勉次はひとことで「罠」と呼んでいる。

はじめ倫理として起こった「恥」が、見分けがつかないままに、文化の「恥」にすり替わるとき、本質的な意味での〈転向〉が起きる。

父孫蔵が息子勉次にすすめている、「まっとうに暮らす」ことは、このすり替えを意味している。しかし当然、悪意や愚かさがそうしているのではない。日本の社会のなかでより善く生きようとすればするほど、そこにはまり込んでいくのである。自動運動のように。

よって、これを受け入れたら、勉次はじぶんでほんとうは何に〈転向〉したのかも分からないまま、ほんとうに〈転向〉することになるのである。永久に。それを勉次は「罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破ったらそれこそしまいだ。」と言う。

「恥」をめぐる文化の巧妙さ、それを利用した〈転向〉の巧妙さに、勉次は「罠」を「感じ」たのである。

それでは、それでも彼にできることは何だろう。

彼は言う。「何か感じた場合、それをそのもとして解かずに別のもので押し流すことはけっしてしまいと思った」と。倫理の「恥」と、文化の「恥」。これはそれぞれ別のもんだいだ。これらを別々に「解かず」に、「まっとうな暮らし」で「押し流すことだけはけっしてしまいと」彼、勉次は「思」うのである。

くりかえすが、これらがないまぜになったとき、彼にほんとうの〈転向〉が訪れてしまうのだ。

〈転向〉する知識人

日本の社会を批判する批判はむかしからたくさんある。むしろ、日本の知識人はそれが好きだ。しかし、社会に反論し、それを批判することは容易いが、それは反論のための反論、批判のための批判にすぎなくなる。勉次のように、ひとびとの幸福と正義のために立った者が、ひとびとの批判者にまわるなど、本末転倒だ。

前回も触れたが、「知識人と日本民衆」との乖離は、大きく分けると二つのパターンに分けられる。

  1. 「恥」の文化に代表される〈日本〉を敵視するか
  2. その〈日本〉に降伏して回帰するか

民衆はインテリ知識人をあがめる一方でこれを畏れたが、じぶんたちの生活と実感からあまりに離れすぎていて、所詮は世間という実社会がわかっていない連中だと腹の底では軽蔑した。

このへんの気持ちは、今でもわかって貰えそうな気がする。

加えて、社会運動の挫折と、活動家知識人のなんらかの〈転向〉、これが明治時代から何度も繰り返されるパターンになっている。そのくりかえされる挫折は、上に挙げた二者択一をかれら知識人たちに強いて、それは死屍累々、といってもいい。

『村の家』の功績は、二者択一の〈日本〉論にたいして、それが何故なのか。何なのかを描いた点にあるのではないか。

私小説『村の家』

さいごに、前回はじめのほうで触れた「私小説」であることについて書く。

本作の内容が、ドキュメントでもルポでもない形式、私小説を採用したのは、これが昭和10年(1935)という自由な言論が不可能になった時代が背景にあるからだろう。また、一見読めば〈転向〉した心境小説にも読めるし、当局の眼もごまかせる。
先に「恥」の「二重性」と言ったが、分析的なことばであると同時に、時代背景が強いた「二重性」でもあったわけだ。
また、これは物語であってはいけないし、プロレタリア文学のような文学理論の実践であってもならなかった。誠実な〈告白〉である必要があった。

ふしぎなことだが、あらゆる文学者や批評家にさんざん批判された私小説こそが、のっぴきならなくなった中野重治の心事をえがくのにもっとも適した文学様式になったのである。そしてそのうえ、「村の家」が「事実」であることを作者みずから念を押すことにまでなった。

筆者も私小説批判まがいのことを何度か書いたが、よく考えてみるとわからない。かんたんな論理的な批判ではどうにもならない、そんな根深いものがあるのかもしれない。

いずれにしても、作中勉次はこう言っている。

「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」

中野重治『村の家』より引用

 

それはたしかに「書」かれたのである。

 

 

*1:思想の科学研究会編『共同研究 転向』「序言」鶴見俊輔

*2:参考:増補改訂『新潮日本文学辞典』新潮社

*3:参考:岸健治「中野重治論ノート」1982.3『同志社国文学』

*4:本文は二字傍点

*5:本文「死んでくる」に傍点

*6:当時の思想検事

*7:参考:増補改訂『新潮日本文学辞典』新潮社