誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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誰かこの本を知らないか【5冊紹介】

プロレタリア文学とか言っていると、じぶんが何時代のにんげんか怪しくなってくるので、今回はちょっと違うことを書く。

毎日、小説の胡乱な感想を書いているから、筆者が小説好き、下手のもの好きだと思われるかもしれないが、そうでもない。前にもいったが便法、行きがかり上である。そしてみずから呆れている。

それで近頃読んだ本のなかから、いくたりかを紹介する。ブログらしくていいではないか。筆者、ちょっと自慢気である。

森本あんり『不寛容論』新潮選書(2020.12.15発行)

副題「アメリカが生んだ『共存』の哲学」。筆者は『反知性主義』以来、愛読している。著者はアメリカのキリスト教における政治史・宗教史・思想史の研究者。
新大陸にわたったピューリタンが形成した「契約」概念から、どのように「寛容」が生まれたかをたどった本である。新大陸植民地における、ロジャー・ウィリアムズとジョン・コトンという二人の人物を登場させ、この両者の対話をとおして、本書のテーマが浮かび上がる。
ちなみに、ロジャー・ウィリアムズは、時代が閉塞していないときに現れる奇妙人のひとりだろう。面白くて、気の毒で、偉人。でも奇妙。
抽象的な「寛容」ということばをめぐる、議論と論争をちょっと冷静に眺められるようになるのではないか。みんな見えない敵と戦いすぎだ。

北村紗衣『批評の教室』ちくま新書(2021.9.10発行)

副題「チョウのように読み、ハチのように書く」。才媛の登場、である。学部学生に批評、レポート、論文の書き方を説明するように、ぴしゃりと書くいっぽうで、めんどうくさいおじさんに嫌われないようにも書いてある。もちろん、ぴしゃり、はおじさんを叩いているのだが、そこは巧みである。理屈っぽいとじぶんでは思っている非論理的な中年男性こそ、本書そのターゲットである。もちろん、お客ではなく、敵として。
筆者もたたかれまくって、呆然としたが、このようなブログを書くきっかけになった。
もちろん、その教え、は守れていないわけだが、座右において読み直して、後悔したり、反省したり、赤面したりしている。

河内春人『倭の五王中公新書(2018.1.25発行)

副題「王位継承と五世紀の東アジア」。古代アジア史。讃、珍、済、興、武、と呼ばれる古代の大王、おおきみ、たちを史上の天皇に比定させる研究は昔からあるが、これを記紀および漢語文献ばかりでなく、東アジアの歴史情勢から俯瞰した本。その視野は広い。一国史のわくぐみと、ナショナリスティックな思考の罠をかいくぐる論述は鮮やかである。
いっぽうで、古代日本語が、書記言語に変遷してゆくありさまもたどれる。

藤岡換太郎『フォッサマグナ』(2018.8.20発行)

副題「日本列島を分断する巨大地溝の正体」。日ごろまるで気にしていないが、指摘されると謎が謎を生むのが科学の読み本である。また、筆者のように、わけのわからないことを言い出す人間はたまに整理された科学のはなしを聞くと、いくらかは正気に戻る。
フォッサマグナ」とは副題のとおり。プレートテクトニクス論以降、急激に進歩発展する地球地学のおさらいもできる。糸魚川にあるフォッサマグナミュージアムは筆者が行ってみたいと思いながら、いまなお果たせていない場所である。

八木雄二『神を哲学した中世』新潮選書(2012.10.25発行)

副題に「ヨーロッパ精神の源流」とある。哲学書は相応の勉強、教育をうけないと原理的に読めないことになっている。だしぬけに、スズメが庭に降りたつようには読めないのである。しかし、やみがたきは好奇心。なんとか分かりそうな本はないかと探してみつけた。
哲学書哲学史古代ギリシアから始めるのが相場で、これが混乱のタネだ。ちょっと遠すぎる。読みかけてほうりだしたギリシア哲学の入門書が、何冊も眠っている。
それで筆者、見当のつけかたを変えた。
近現代はじしんたちの生きている世界だから、わかるようでわからない。古代は離れすぎて、なおわからない。近代が親で、古代がとおい先祖なら、祖父母にあたる中世なら何かを示してくれるのではないか。
本書は中世のあけぼのを記して、キリスト教とその神学をめぐる哲学を要領よく説明してくれる。そのいっぽうで〈考える練習〉を示唆する。哲学とは学説を覚えることではなく、脳みそをつかって考える修練のことだという考えからだろう。
それではこの一書を読破してトマス・アクィナスが読めるかというと、それはもちろん別のはなし、別の努力である。

甘いようで甘くないのが、人生ダ。