明治初年のベストセラー
明治のはじめころ、福沢諭吉『西国事情』『世界国盡(くにづくし)』は、いわゆる洛陽の紙価を高からしめたというやつで、ひどく売れたらしい*1。『学問のすゝめ』はぺらぺらの雑誌であったらしいから、これを除く。
これに匹敵したのは服部撫松『東京新繁昌記』ばかりであったらしい。
売れに売れた。
1万部とも1万5千部とも言う。それっぽっちと思われるかもしれないが、まず人口が違う。そのころ列島の住人は3500人くらい。人口比になおせば3.5倍。それから出版事情、識字率も違う……。
なんだか昔の野球選手のストレートのはやさ、みたいな話になりそうなので、興味のある方は調べてみてください。さしあたって、とにかく売れたということだけ述べておく。
漢文のような漢文
読みやすさにおいては、めっぽう読みやすい。漢文書き下し文ではあるが、日本語漢文だから、漢文のような漢文、である。たとえば、
僕熟々*2(つらつら)方今の形勢を視るに、洋学に非ざれば、寧ろ学無からん。其の広大なるや五大州を併合し、全世界を一目し、天下の経済、全国の富強、政事と無く軍事と無く皆洋学に関せざる者無し。輓近(ちかごろ)建築の方法、衣服の制度、漸く洋風に遷り、茶店の少婦と雖も洋語を用ひ、絃妓の歌も亦洋語を挟む、亦愉快ならず乎。凡そ宇宙の間何物か洋学に帰せざる。
全編おおむねこの調子で、今読んでも分からないところは殆どない。難しい漢字もない。そして何よりも、内容としてむつかしいことを言っていない。まえにとりあげた柳北や鋤雲と比べれば歴然である。どっちに何が歴然かはともかく……。
それにしても「全世界」だの「天下」はたまた「宇宙の間」だなんて恥ずかしい。「方法」「制度」なんてのは今でも使う、言う。筆者もうっかり使う。何かを指して何も言っていない言葉の起源を見た気もする。
『東京新繁盛記』もくじ
ちなみに上の引用は同書の「学校」という始めの項目からの引用。
ちょっと読みにくくなるが、以下、各項目だけ抜き出してみる。
本書の内容を筆者が説明するより、その方が確かだ。
『東京新繁昌記』初編(1874)明治7年4月発行
学校、人力車 附馬車会社、新聞社、貸座舗 附吉原、写真、牛肉屋、西洋目鏡、招魂社
同二編(1874)明治7年6月発行
京橋煉化石 附 呉服店、奴茶店、待合茶店、浄瑠璃温習(サラヒ) 附女師(ウタシショウ)、築地異人館 附売魚店、新劇場(シンシバイ) 新富坊守田座、常平社
同三編(1874)明治7年8月発行
新橋鉄道、増上寺 附 楊弓肆 驝駄師 水茶店、書肆 洋書舗、雑書店、万世橋 附住吉踊、弄珠師(シナタマツカヒ)、街頭演説(ツヂコウシヤク)、機捩(カラクリ)、新橋芸者
同四編(1874)明治7年10月発行
博覧会、臨時祭 附 開帳、夜肆(よみせ)、麥湯、西洋断髪舗
同五編(1874)明治7年12月発行
築地電信局(テリガラフ)、商会社 附 兜坊為換坐、蕃物店(カラモノタナ)、京鴉(けいあん)家 一名雇人請宿、妾宅、新温泉場 附 深川、新市街 附 帰商
同六編(1876)明治9年4月発行
芝金瓦斯(がす)会社 附 瓦斯燈、公園 上野、女学校、西洋料理店、代言会社
同七編
成島柳北の『柳北新誌』二編(1874)明治7年刊行が、江戸の失われた文化、その変わってしまった文物を記すのに対し、服部撫松はその新奇を記す。次に述べるが、なにしろ失われた江戸など、撫松は知らない。
しかし、とうじの東京をほうふつとさせるのは『東京新繁昌記』であろう。勿論、その「ほうふつ」は、写真でうつしたようなリアリズムではない。漢文の修辞で文体におさめられたリアリズムである。
服部撫松略歴
天保12年(1841)陸奥国岩代二本松藩、儒官服部半十郎の子として生。服部誠一撫松。
明治7年(1874)、『東京新繁昌記』刊行。この本の収益で、湯島の妻恋坂に「吸霞楼(きゅうかろう)」という大邸宅を建てる。また九春社を創立。漢文戯作雑誌「東京新誌」を発行。
明治16年(1883)「東京新誌」は毎号3、4000部を売るほどであったが、発禁の厄に遭い、廃刊。以降も多くの新聞・雑誌と関係をもつが、
明治29年(1896)仙台一中の作文教師に招かれ、東京の文壇を去る。仙台一中では、教え子のなかに吉野作造がいる。
明治41年(1908)死去。享年67歳。
売れた文体
『東京新繁昌記』は、平易な漢語漢文の言い回し、誰にでも分かる描写、いかにも開化らしいと誰もが認める対象の選択、それらによって成っている。
しかし、上京時、すでに撫松はおよそ30歳。たんに上京した若者が新風俗に感激して書いたわけではない。もちろん、上京の華やぎ、開化の謳歌はある。
そもそも、まえに取り上げた柳北や鋤雲とは異なり、旧幕府とその文化に未練がないことが大きいだろう。当然、旧幕府の大官をつとめ、それぞれ大儒碩学でもあった柳北や鋤雲とは、置かれた立場も教養もちがう。未練のなさは文体の軽妙闊達と通ずるところだが、軽薄にも見える。
しかし、この軽薄が、歴史の転換とよぶより断絶とよんだほうがいいような維新と開化を文体にとどめることができたのではないか。
孔子の道は士族の権と与に既に地に堕ち、廉価極って骨董屋(ドウグヤ)の長物(ヤッカイ)に属す。
こんなことが言えるとは、じしんの漢学儒学にも未練がないことを示している。あるいは客観できる程には大人とも言えそうだ。
「学校」からはじまる開化
そして、これは『東京新繁昌記』が売れたことにかかわってくるのだが、先に述べたように、本書は「学校」から筆をおこしている。
閉塞した幕藩体制が崩壊したことは、庶民にとってこの世の終わりではなく始まりであった。開化、啓蒙、いずれも「ひらく」「ひらける」という点にアクセントのある言葉である*4。そこに、庶民じしんの積極的な新しい知識や新しい書物への欲求がある。その欲求をかなえるために「学校」は欠かせない。
それは一面では『学問のすゝめ』のような功利的な側面がおおきいことは否めないにしても、じゅうぶんに知的欲求と呼んでさしつかえないものだった。
本書「学校」章は、全国の「学区」の区分から説き起こして「学校」の様子をえがき、「洋学」礼賛を唱える「洋学生」と反論する「漢学生」「国学生」とを登場させ、それぞれ論駁させる。結論はたまたま居合わせた「老客」が「我が国今日の開化は和漢洋の三役者を雇うて新狂言を開かんと欲するの秋(とき)也」とまとめる。都合のいいまとめかたの気がしないでもないが、方向性がまるでわからないまま意欲だけが溢れている、そんな描写になっている。
ひるがえって言えば、見たい聞きたい知りたいという欲求が庶民のなかにあふれ、そのうちの「読む」ことへの意欲にこたえたのが『東京新繁昌記』であったのではないか。
最後になるが、撫松の『東京新繁盛記』は、柳北の『柳橋新誌』に同じく、寺門静軒『江戸繁盛記』を模したものになる。
歴史の巡り合わせで、ずいぶん違った著作が生まれたことに不思議を思うのは、筆者ばかりではないだろう。