誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』遅れたファン・レター

たとえば、芥川龍之介太宰治三島由紀夫と並べてみる。

近代文学史は言ってみれば、「私」をめぐる冒険、である。

その昔、柄谷行人が「他者」と呼んだものを、筆者の知能で正確に理解することは難しいが、「私」から外へ出ていった先で出会うもの、なら何となく理解できる。

エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』は読んでもわかないが、「『私』からの逃走」なら首肯できる。「自由」が桎梏であるように、「私」にとって「私」は、手かせ首かせであり、躓きの石である。

そんなことを転びながら、迷いながら、おろおろと毎日書いている。

ポストモダンがなんなのか、これまた筆者にはまるで分からないが、かつて「私」は超克された。少なくともそういうことになった。同様に、国家や民族、宗教も、幻想にすぎないとして、ことごとく克服された。残るは資本主義だけ、ということになったあたりから、技術革新が起き、近代はB面に入った。「近代のやり直し」とは大塚英志がひところ言っていた。B面と言って若い人に理解されないなら、座布団をうらかえして座りなおした、と思ってください。……余計、分からないか。

 

この作文にはしばしば大塚英志を引用している。真似している。なぞっている。

一問一答のわかりやすい問題解決は留飲を下げやすいが、歴史にならない。この場合の歴史は、つながりとその広がり、それがじぶんとどう結びついて結びつかなくて、途方に暮れながら、自身の居場所を定めてゆく営みである。これはQ&Aのただの累積ではなしえない。

その歴史すら人を偽ると大塚英志はしばしば言う。だから、やり方は教えるから、あとは自分でやれ、口先だけでなく、個々人がじぶんの責任でやれ、という。だから、問いはあるが、答えは書いていない。

そう筆者は誤読している。

大塚英志は、読者に誤読させるくらいには優れた、魅力的な、意地悪な、作家なのである。

文章のなかの大塚英志は、基本的に怒っている。苛立っている。そして憂うるなんて生ぬるいくらい心配している。際どい皮肉を言う。当てこすりも言う。他人が氏に対し何かを決め込もうとすると暴れる。野人のような含羞をもつには理知と知識がありすぎる。文脈や紙背に、その含羞はにじまない。そういうポーズを何より嫌う。

いっぽうで、雑誌の編集後記ごとき場所に、一言にして人を救うようなことを書いたりする。あとから見返してみると、そんなことはどこにも書いていないのだが、そのとき、そこには確かに書いてあったはずなのだ。

もちろん、筆者の誤読である。

大塚英志は、筆者のような愚か者にもなんとか伝わるよう、噛んで含めるように説明する。さきに作家、と書いたが、教師でもあるらしい。じっさい大学で教えていたこともある。その後の顛末は知らないが、教師としては恐ろしく親切な教師である。見ず知らずのアカの他人にまで教えようとする。

大昔になるが、若き日の吉本隆明は、敗戦直後、愛読していた小林秀雄が黙して語らなかったことに絶望したらしい。以降、吉本隆明はともかくも発言することを心掛けたという。

同じようなことは、柄谷行人にも当てはまって、いつからか、柄谷行人は読者が願うことを語らなくなった。また、名前はあげないが、同じころから、それまで愛読していた作者たちも転向していった。それが処世なのか、思想の結果なのかは、わからない。わからないのが読者だからだ。

しかし、大塚英志はずっと書いている。おかげで、ぎりぎりのところで読者はその声を聞くことができる。

もちろん、手管はある。たとえばタイトルで、今回とりあげた『日本がバカだから戦争に負けた』は目を引くタイトルだが、副題をみると「角川書店と教養の運命」とあり、こっちがほんとうの本題だ。いつの戦争と読むかは読者次第だ。

角川書店の歴史をたどりながら、角川源義に言及しているのは貴重なのではないか。折口信夫の弟子で、角川書店社長。前回紹介した太宰治の『女生徒』もそうだが、純文学はおろか、古典や文学研究論文集までかつての角川書店は発行していた。また、稀覯本の収集にも努め、たしか横山重の赤木文庫が散逸を免れたのは、まとめて買い取った角川源義が慶応大学斯道文庫に寄贈したからではなかったか。なお、それは『室町時代物語集成』として角川書店から刊行されたはずだ。

教養=人文知が、インターネットなどの工学技術のなかで衰亡してゆくことへの警鐘というのが一応の筋で、その制作側から見た推移、歴史を記録している。後代、インターネット技術の進展に関する、神話とも伝説ともつかない歴史が生まれたとき、そうでもないことを示すための資料だろう。大塚英志は研究者、史家でもある。

また、社会を構成する基盤になるのは、制度でも工学システムでもなく、「教養」と呼ぶしかない共有言語であるとし、「言語」の問題として見ているのが傑出した着眼点だろう。柳田國男をひきあいに出して、かつての「教養」に含まれていた公共性を取り出しうるか、という問いがなされている。

 

ちなみに本書刊行は2018年である。

わざわざ4年前の著作を持ってきたのは、書かれている段階から現在、その分状況が悪化しているからだ。しかも加速度的に。

筆者が「私」と書いているのは、大塚英志の驥尾に付したともいうし、真似とも言う。しかし、問題は「私」で、その「冒険」は、まあまあ終焉を迎えている。喜劇的なエピローグ。そんなことを考えて、改めて本書を思い出して見直したら、書いてあるとおりに悪化していた。呆れるか、慧眼に恐れ入るか。

とはいえ、呆れても、大塚英志の慧眼を賛美してもしかたないので、やむなくファン・レターにした。

4年遅れたファン・レターである。