栗本鋤雲『曉窻追錄』ナポレオンコード
大河ドラマ「青天を衝け」に出てくるらしい。栗本鋤雲である。
もちろん、と言っては何だが、観ていない。観ていないが、見聞は読者のほうが広いだろうから少し安心して書く。
先だって栗本鋤雲の『鉛筆紀聞』を読んだ。ついでに『曉窻追錄』*1を読んでいたら、「ナポレオンコード」所謂「ナポレオン法典」「ナポレオン民法典」に関する記述があった。今回はそんな話になる。
パリ万博使節団
慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜の命で、弟昭武が将軍名代としてパリに派遣された。
パリ万博使節団である。
このとき鋤雲は随行しており、同年8月からおよそ9か月間、パリに滞在した。慶応4年3月、維新を知り急遽帰国。5月には江戸に入るが、そのまま致仕し、小石川大塚に隠棲した。
『曉窻追錄』はこのパリ滞在中の見聞録である。
同時期のパリ見聞録としては、成島柳北の『航西日乗』がある。しかし、同じ幕臣とはいえ、柳北がパリに至った時、すでに普仏戦争後の明治5年(1872)、第三共和政に移行している。鋤雲の見たパリは、第二帝政華やかなりし頃のパリである。そして、それはルイ=ナポレオン、ナポレオン三世が「帝国、それは平和だ」と称えた安寧と繁栄を具現化した一大イベント、パリ万国博覧会の「巴里」であった。
そして、というか、しかし、鋤雲は日仏和親の外交任務を携えていた。よって、「無用の人」を決め込んだ柳北と異なり、鋤雲はその見聞が幕政に役立つことを考え、記している。そのあいだに、幕府が消えてなくなるなんて誰が知るであろう。
ビクトル・ユゴー、カール・マルクスによって稀代のペテン師にされたルイ・ナポレオンだが、鹿島茂によればフランスが近代国家として大いに栄えたのは第二帝政だそうだ。イギリスが女王で栄えるように、フランスは皇帝で栄えるのかもしれない。
そしてその栄えあるナポレオン帝国の近代民法を、若い日本は採用しようとしていた。
ナポレオンコードと日本の司法
片言以て訟を断む可し、とは必ず子路の賢にして然る後得べきことにて、庸才凡智の敢て跂及する所に非らず。況や情なき者、其辞を尽すを得ず。必ずや訟無らしめん乎の場合に至りては、真に空前前後、孔子の聖の外、迚も夢見すること能わずと思ひしに、今法帝「ナポレオン」の政令は殆んど夫に類することあり。実に驚嘆欽羨に堪えざるなり。*2
孔子が子路を評して言ったとされる、『論語』のためし*3を引いて、本書は始まる。
近代法を喩えるのに孔子を以てするのは不思議な気もするが、法の正義を、儒教的な道徳・倫理としてみるのは鋤雲ひとりのものではない。視野をすこし広く持つと、明治の自由民権運動や労働運動にまで見られる思考の〈わく〉である。
「実に驚嘆欽羨に堪え」ない、というのは、幕末当時の司法制度との差に関しての感想である。じっさいの民事裁判と判決の例を挙げて、鋤雲はこう記す。
是れ特に声と色とを大にして強いて人を厭服すると、遷延濡滞久して決せずとの弊なきのみならず、殆んど情なき者、其辞を尽すを不得の場合に、庶希すと謂う可し。然して訟庭四面鉄格子の外、路人交戚を論ぜず、聴者堵の如く、頭領の裁許公平にして人意に適すれば皆手を拍ち喝采し、即晩新聞紙に上せて都府に充布し、不公平なるも亦然せり。
全文は最後に引き写したから参考にしていただくとして、「頭領」=裁判官が、訴える者と訴えられる者との意見を聴収し、法律に則って裁き、その結果は公平も不公平も新聞に公開される、ということに鋤雲は驚いている。また、
訴訟の媒をなす者あり。
として、訴訟代理人制度の優秀さを指摘している。
日本では、*4江戸から明治初めまで、1742年に定められた『公事方御定書』などにより、後でいう民事訴訟は裁かれていた。一般庶民に、近代的な諸権利はそもそもないから当然ではあるが、諸法度のたぐいは開示すらされていなかった。
奉行所というものは、裁判所と検察を兼ね、訴訟代理人弁護士の代わりに、非公式の「公事師」に付き添われて、お白州で一方的に申し渡しを受けた。果たしてこれが裁判なのか、こんにちからすれば判断しかねる。いっぽう、「ナポレオンコード」では、
我国公事師なる者に似て、大に異なり、能く律書を暗じ、正直にして人情に通ずる者を選み、官より俸金を給して、凡そ鄙野の人、言語に訥なる者必ず此媒者に謀り、然後、出訴せしむ。媒者能く其情実を悉して訟う可きの理あれば助て訟えしめ、其理なければ諭して止めしむ。
今でいう国選弁護人制度である。そして、その裁判の簡易なことも挙げられている。
曲に其情実を陳ずる殆んど平常談話の如し。頭領唯々として聞き、史官其側に在りて書記し、畢れば罷め出よと言うのみ。訟を造す者、訟せられる者、絶て対決論難にことなし。
たとえば、江戸時代、奉行所からの召喚をうければ、当事者は公事宿に泊まり、呼び出しを待ち続けるしかなかった。交通費、宿泊費、そして公事師を頼むのであればその費用はすべて持ち出しで、それが一年かかるかそれ以上かかるか、いずれにしても待つことしかできなかった。そのまま破産する者、自殺する者も多かった。
なんだかカフカの『城』みたいな不条理世界である。
付け加えれば、慣習法・類推解釈・事後法・不定期刑は禁止されておらず、罪刑法定主義という概念そのものがなかった。
この「ナポレオンコード」の優秀さを悟った鋤雲は、「訳司をして速に翻訳せしめんことを欲」したが、
師を得て問質するに非ざれば、到底明暢に至らざる処あり。仍て岡士「フロリヘラルト」学士和春に託し、兒貞を扶け、功を竣して、以て我国に益せんことを約したり。
法律文書であるからだしぬけには読めない。そこで「岡士」=日本総領事であったフロリ・ヘラルド(フリュリ・エラール)に助けを請うた。徳川昭武一行在仏の便宜を図った元銀行家である。
ナポレオン法典を翻訳することがどれくらい困難であったかというと、箕作麟祥でも歯が立たなかったらしいから、推して知るべきであろう。なお、麟祥もパリ万博使節団に随行している。
幕臣たちのリベラルさ
さて、ここで、すでに隠棲していた鋤雲がナポレオン法典を『曉窻追錄』記録した理由をすこし述べてみる。往事を懐かしんでのことでないのは確かだろう。結論から先にいうと、それは、ナポレオン法典にみられる〈リベラルさ〉が彼をして書かしめたのではないか。自由と平等によって国家が作られることへの期待と言ってもいい。よって、これはひとつの言論活動であった。
幕府のフランス派の官僚たちは維新後さまざまな道を歩んだ。致士した者もあれば、新政府に再仕官した者もある。そのなかで、鋤雲は在野を選んだ。筆を通して、まだ見ぬ日本国家を、ナポレオン法典の向こうに見ている。ただの見聞録ではない。
〈リベラルさ〉は、単に幕府とフランスが政治的に近い位置にあったということだけではなく、ある種の思想として受け止められた結果、見出されたものだろう。それを鋤雲は『論語』になずらえて説いているとは先に述べたとおり。
そして、薩長による田舎者の政権ができるに至って、江戸の庶民文化のなかに息づいていた、これもまたある種の〈リベラルさ〉が呼応した。典型例として何度も言及している成島柳北がいる。また永井荷風が柳北を欽慕した理由もそこにあり、藤村も『夜明け前』で書いたのは、ありえたかもしれない、その近代日本である。
ただ、リベラルという政治思想ではなかった。あくまで〈リベラルさ〉である。そこに思想にならなかった限界があり、歴史的には、フランス法の受容と破棄、ボアソナード民法をめぐる民法典論争において、ひとつのピークと終焉を迎える。
ちょっと長くなったので分割する。つづきは以下。
さいごに、『曉窻追錄』のなかで今回述べた部分に該当する全文を載せる。青空文庫にでも載っているかと思ったらなかったからだ。ただし、例によって、筆責で「ヿ」は「こと」に改め、歴史的仮名遣いを直し、濁点、「、」「。」を適宜補った。返り点は読み下した。また異体字は現在の標準漢字に直した。筆者の作文よりは価値があるかと思う。
暁窓追録
日本 栗本鯤化鵬 編
片言以て訟を断む可し、とは必ず子路の賢にして然る後得べきことにて、庸才凡智の敢て跂及する所に非らず。況や情なき者、其辞を尽すを得ず。必ずや訟無らしめん乎の場合に至りては、真に空前前後、孔子の聖の外、迚も夢見すること能わずと思ひしに、今法帝「ナポレオン」の政令は殆んど夫に類することあり。実に驚嘆欽羨に堪えざるなり。然れども静に其跡に就て其事を考うれば決して為し難きことに非ず。今其概略を此に言ん。法国に新定律書あり。「ナポレオンコード」と名く。其書、一冊五類、毎類紙端の色を分ち検閲に便す。其五類始の一項は太子の定め方、特に己の子のみに限らず、一族の賢を選び、臣民の意に叶い、治国の材に堪たるを定むるを始として、遂に下々婚姻嫁娶の掟並に一家の主たる者歳二十に至らざれば独立すること能わず、必らず親戚長者の代り管する者を待て、金銀仮借は勿論、百事の證記を為すに非ざれば、券書取り替せ出来せず。若し犯す者は、双方の曲となり、何等の罰を得るの類を詳記し、第二項は、陸軍海軍上は将校より下も兵卒に至る迄、都で武官の規則を記し、第三項は諸税額を定め、田畝家屋の売買、貨物の仮借、質貸の掟を述べ、第四項は文官の規則より下も市中取締り、市中邏官「ポリス」の職掌に就て、行儀作法より取扱、万端の心得を記し、第五項は僧官の職務行跡よりして宗旨は国人各々、其尊奉する所に任せて、官より敢て是を好悪せずと雖ども、其宗旨に就て政事に妨礙することを禁絶する等の類を挙げ、毫釐悉遺す所なく有らざる処なし。且其軽重賞罰とも確然と世間に公布し、夫、人皆知り、姦を容る可きの地なし。故に、吏となりて上に在り、令を奉ずる者、民となりて下にあり。令を受る者共に此律に因りて断定し、断定せられ更に一語不服の者なし。遂に知愚不肖をして自ら省み自ら屈して健訟強訴をなさざらしむるに至れり。孛漏生伊太利荷蘭是班牙*5等、傍辺の数大国此書に頼り、各其自国の律書を改訂し、遂に英国の律学者も律書は「ナポレオンコード」に依り定めざるを得ずと云うに至れり。
余既に此説を聞き、又其調徴を見て、其書の政治に要なるを知り、訳司をして速に翻訳せしめんことを欲せり。然るに其書一種の語辞、所謂官府文字の類にて、師を得て問質するに非ざれば、到底明暢に至らざる処あり。仍て岡士「フロリヘラルト」学士和春に託し、兒貞を扶け、功を竣して、以て我国に益せんことを約したり。同時佐賀藩の佐野栄なる者彼地に在りて邂逅し、話次其事に及ぶ。彼れ、早く此書の善を知り、又、其訳の難きを知り、大に予が用心を讃じ、成功の日一部を繕写して其老侯に呈ぜんことを跂望せり。
商估、瑞穂卯三郎、吉田次郎の両人、博覧会社*6のことに携わり、久しく巴里に留れり。一日貨品授受の齟齬にて政聴に呼び出さるることあり。聴訟の頭領官、縫衣峨冠、机を面にして榻に踞し、両人を延て其正面に立しめ、徐に問て曰、某街の市人某なる者、何々の事件に因り、日本估客と曲直を弁ずることありと訴えり。果して其事ありや。両人答て曰、あり。頭領頷て曰、果して其事あらば請う、左手を挙げ、天に誓て訴る無く隠す無く、其実を言え。両人其言の如くし、曲に其情実を陳ずる殆んど平常談話の如し。頭領唯々として聞き、史官其側に在りて書記し、畢れば罷め出よと言うのみ。訟を造す者、訟せられる者、絶て対決論難にことなし。三五日を経て、再び双方を呼び出し、前日の如く延て前に至らしめ、頭領断じて曰、市人某前日の訟其言う処云々。日本估人云う処云々。我今彼此の詞に拠り、傍ら保証人の言に照し、其情実を繹ね定めて「ナポレオンコード」何條の律に従い、其曲直を判じて某々の科に処せりと。唯此一語、訟者も訟せらるる者も、黙して退くのみなりと。是れ特に声と色とを大にして強いて人を厭服すると、遷延濡滞久して決せずとの弊なきのみならず、殆んど情なき者、其辞を尽すを不得の場合に、庶希すと謂う可し。然して訟庭四面鉄格子の外、路人交戚を論ぜず、聴者堵の如く、頭領の裁許公平にして人意に適すれば皆手を拍ち喝采し、即晩新聞紙に上せて都府に充布し、不公平なるも亦然せり。
訴訟の媒をなす者あり。我国公事師なる者に似て、大に異なり、能く律書を暗じ、正直にして人情に通ずる者を選み、官より俸金を給して、凡そ鄙野の人、言語に訥なる者必ず此媒者に謀り、然後、出訴せしむ。媒者能く其情実を悉して訟う可きの理あれば助て訟えしめ、其理なければ諭して止めしむ。訟も訟えざるも共に毫も酬労謝功の費なし。若し密に贈るも必ず堅く拒み、受けず。其厳なる何をもって能く然るや。蓋し、媒者屡人を扶けて出訴し、常に至正至公にして、衆望是に帰すれば追々階級進み、遂に聴訟の大頭領に至る前途期する所遠大なり。宜なる乎。能く身を護して謹厳なるや。
*1:ぎょうそうついろく『明治文學全集4』筑摩書房『匏菴十種』所載
*2:※筑摩書房『明治文學全集4』による。筆責で「ヿ」は「こと」に改め、歴史的仮名遣いを改め、濁点、「、」「。」を適宜補った。返り点は読み下した。また異体字は現在の標準漢字に直した。
*3:『論語』巻第六顔淵第十二「子曰、片言可以折獄、其由也與、子路無宿諾」「ほんの一言聞いただけで訴訟を判決できるのは、まあ由(子路)だろうね。」子路はひきうけたことにぐずぐずしたことはなかった。「子曰、聴訟吾猶人也、必也使無訟乎」「訴訟を聞くことではわたしもほかの人と同じだ。強いて言うなら、それよりも訴訟をなくさせることだろう」※岩波文庫『論語』より引用。
*4:以下、法律をめぐる記述は小松良則『汝人を害することなかれ 明治政府とボアソナード』株式会社フクイン(2018.4.15)を参考にしている。