誰かあの本を知らないか

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栗本鋤雲『曉窻追錄』ナポレオンコード②

承前。今回は、司馬遼太郎の『歳月』を思い出していただけると少しは分かりやすい。前回は大河ドラマ「青天を衝け」だと言った。ドラマでも小説でもないのが歴史というものだ。騙すつもりは毛頭ない。ただ蕭然としているだけだ。

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フランスへの傾倒

明治初年にあったフランスへの傾倒は「仏国熱」と回顧されたようだ。

筆頭は西園寺公望だろう。

明治34年から『毎日新聞』に68回にわたって連載された「當世人物評」は石川半山の手になるものだが、これは西園寺公の人物評論である。三宅雪嶺徳富蘇峰など「人物評論」として流行したものの中では、さいごのほうになる。内容として、その真偽のほどは筆者には判断しかねるが、維新から日清戦争あたりまでを、西園寺公望を通して回顧した読み物となっている。風説も含めて、当時だいたいどのように見られていたか、参考になるかもしれない。

以下、石川半山「當世人物評」より引用する。*1

徳川幕府の末造(ばつぞう)から、明治維新の新天地へかけて、最も多く日本に歓迎された者は仏国の文明で有る

△仏国の公使が巧みに徳川幕府に取り入ッた者だから、幕府の末造(ばつぞう)から明治の新政府に至る迄、仏国の文物は、大いに歓迎された傾きが有ッた

そして幕末の兵制改革に触れて、浅野一学、岡田佐一郎、成島甲子太郎、万年真太郎。

大鳥圭介、荒井郁之介、沼田守一、益田孝、矢吹秀一、の名を挙げている。

△何にしろ徳川家の民部公子を渋沢栄一*2などが扈従(こじゅう)して仏国に留学させて居たと云う次第だから、其頃の仏国の勢力が日本に及ぼした感化は一ト通りでない

山縣有朋が新政府の兵制を創建するに当りて、其の模範を仏国に取らんが為めに、仏国へ出かけたのも、矢張り其当時の仏国熱に感染して居た結果で有る

「民部公子」は前回挙げた徳川昭武のこと。よってここはパリ万博使節団のことを言っている。また、明治34年には、フランスへの傾倒は、「仏国熱に感染」とみられていたことがわかる。

△法律の如きも河野敏鎌*3が大将となッて、明治5年に洋行した時、鶴田鵠川路利良岸良兼養井上毅名村泰蔵益田克徳の諸秀才を引率して、仏国に赴き最も熱心に仏国の法律を研究して、之を日本に移植したので有る

ボアソナードを日本政府の顧問に傭聘したのは、此の河野が洋行中に取り決めた事で、即ち其一行中の名村泰蔵が、ボアソナードを連れて帰朝した様に覚えて居る

人名ばかりで知らない人には迷惑だろうが、少し説明する。

河野敏鎌*4が大将となッて、明治5年に洋行」とは、もともと司法卿江藤新平が率いる予定であったものを、公務の都合で江藤が取りやめたため、河野が率いることになったものである。

ちなみに、同じ船に、東本願寺の現如上人一行も同船しており、成島柳北随行し、渡仏している。詳細は『航西日乗』という紀行文に柳北が書き残している。

この一行、呉越同舟といっていい。例えば川路利良はもと薩摩藩士。のちに警視庁を創設し、今でいう警視総監に就任した。井上毅肥前熊本。川路と井上は司法省の役人である。そして再三書いている柳北は旧幕臣で「無用の人」という取り合わせである。

そのうえ、一行がパリに到着した明治5年、岩倉使節団もパリに至っている。

この時期、日本の政府要人の半ば、知識人、はたまた宗教人までがパリにいたことになる。

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さて、「名村泰蔵が、ボアソナードを連れて帰朝した」の記述は錯綜がある。

明治5年の岩倉使節団には佐々木高行随行していた。佐々木は司法大輔である。佐々木は河野一行とパリで会い、江藤新平が法律に通暁した外国人教師を切望していることを知る。そこで、フランス駐在公使の鮫島尚信が交渉していたボアソナード来日の件を更にすすめ、ボアソナード来日が決まる。名村泰蔵にはそれを決める職権がない。

ただ、名村泰蔵と井上毅は在仏9か月のあいだ、ボアソナードからフランス法の講義を受けたし、来日に尽力したことは間違いない。

ギュスターブ・ボアソナードは当時のパリ法科大学助教授である。学識も深く、教授職を望んでいたが、私生児、という生まれゆえそれを果たせずにいた。そればかりではあるまいが、鮫島の懇望と、極東アジア近代法をもたらすという使命に燃え、来日を決めた。

なお、はじめ3年の契約であったが、明治6年に来日してから、明治28年まで明治の日本にとどまりつづけ、諸法典編纂および法教育に尽力することになる。

ボアソナード民法草案

明治3年に戻る。

不平等条約改正が明治政府の悲願であったことは何度も書いたが、そのために新しい民法典制定は不可欠で、この年はやくも太政官制度局に民法編纂会議が設置された。中心人物は江藤新平で、訳官・箕作麟祥の訳出するフランス民法典(ナポレオンコード)の逐条審議、という形で進められた。

江藤新平の性格もさることながら、政府にとっても喫緊の課題であったことは察せられる。

とはいえ、江藤の果断にして急進、拙速を厭わない取り組み方は、逸話を残した。

曰く、「誤訳を恐れず」「フランス民法を訳し、フランス民法という文字を日本民法と書きかえればよい」といったものである。

それに対し、箕作麟祥は学者としての矜持から正確さを求め、それが果たせないことを恥じ、フランス留学を請うたらしい。それで江藤は、河野敏鎌を通して法律の教師を切望したわけだ。江藤自らや麟祥が渡仏していたのでは時間がかかりすぎるということだろう。

このへんのいきさつを題材に、司馬遼太郎『歳月』は書かれている。己の才覚と野望を、この世に果たしたいという、狂おしいほどの願いをもった人物造形で描かれた江藤新平だが、実際のところ、実務は箕作麟祥のような江戸幕府に仕えた優秀なテクノクラートや、お雇い外国人によって大いに助けられたものだ。才覚と野心だけではどうしようもない。

結局、江藤新平は明治7年、佐賀の乱に刑死するが、江藤のあとをおって司法卿に就いた大木喬任によって、その後も編纂事業は続けられる。しかし、部分的な草案を作成することはできても、体系化された法案を作ることはできなかったようだ。

そこで、明治13年大木は元老院内に民法編纂局を設け自らその総裁に着任し、本格的な民法典編纂に邁進する。このとき、ボアソナード民法典起草のために起用され大いに力をふるう。そして明治23年、俗に「ボアソナード民法草案」(以下、旧民法とする。明治31年から実施されたものを「明治民法」と呼ぶのに対する)と呼ばれる民法原案が確定公布された。

民法典論争

公布された旧民法は、「明治26年1月1日ヨリ施行スベキ」とされ、公布から3年の猶予があった。そこでこの旧民法の可否をめぐって「民法典論争」とよばれる論争が巻き起こった。

法学会の論争から政争に拡大し、筆者の力ではこれを詳らかに述べることはできないが、施行断行派と延期派とに分かれた論争は、明治25年の第三会議で明治29年までの施行延期がきまるに及んで、いったんは公布された民法の、事実上の廃棄が決められた。

争点は多岐にわたるが、フランス大革命の精神にもとづく、自由主義・平等主義が、日本の風土にそぐわない、というのが主だった意見のようだ。

また、ナポレオンコード、フランス民法典がそもそも個人の権利を主体として法が展開するのに対し、「祖廟」=「イエ」を単位にした家父長制を以てその近代国家を築きつつあった日本にあって、この旧民法ボアソナード民法が受け入れられる可能性は殆どないだろう。そして、「外国人」が起草にたずさわった点も、国内にナショナリスティックな反応を引き起こした。

このあたりの反応は、どこかの憲法をめぐる脊髄反射に似ている。

『法学新報』に穂積八束の論文が出るにおよんで、施行延期、事実上の廃棄は決定的となる。曰く「民法出デテ忠孝滅ブ」と。

国が亡ぶと言って民衆を扇動するのは昔からある手口だ。何度騙されても、何度でも騙される。そしてその扇動者は国を守り、騙された民衆がかわりに滅びるのである。

ボアソナードの帰国

渡仏した栗本鋤雲がもたらしたフランス民法典の夢はここに潰えた。鋤雲はまだ存命であったから、これを見届けたはずだ。

一方、明治28年、横浜から出向した船にはボアソナードが乗っていた。そこに充足があったのか、失意があったのか、今となっては知りようもないことだ。

同年、日清戦争終結。三国干渉。近代日本国家の自意識は肥大化をつづける。

翌29年。新民法の起草。31年公布、同年施行。

個人の権利を守り、自由と平等を理念にもつ国家の創造は、露と消えた。

しかし、鋤雲は『曉窻追錄』にこうも書いている。

和春曰、新定律書、能く周悉遺す所無く、拠て以て治国の要具とす。是れ、西洋各国の共に同き所なり。然れ共、是を其儘東洋諸州に行い妨なしと為す可らず。試に其一を挙て是を云わば、左手を挙て天に誓うの如き、凡そ洋教を奉ずる人皆誠慤死に至り、之を守り、敢て渝る者無し。然るに印度人の如きは、必らず一人の嘱を受て、保証人となり、天に誓い偽るなしと云う。其天を偽り誓を忽にする、絶て西人の無き所なれば「ナポレオン」の智と雖ども、此に至て殆ど周きこと能わず。是れ「コード」の書其儘東洋に行われ難き一證なりと。訳成り刊行するの日、読者夫れ三思せよ*5

これを慧眼とみるか、「東洋」日本への失望とみるか、政治家としての現実主義とみるか。

読者夫れ三思せよ。

栗本鋤雲の没年は明治30年になる。

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※以下、参考書。

 

 

 

 

 

 

*1:筑摩書房『明治文學全集92』より引用。筆責で「ヿ」は「こと」に改め、歴史的仮名遣いを直し、濁点、「、」「。」を適宜補った。返り点は読み下した。また異体字は現在の標準漢字に直した。

*2:以下、太字は本文傍点

*3:太字は本文傍点

*4:太字は本文傍点

*5:筑摩書房『明治文學全集4』による。筆責で「」は「こと」に改め、歴史的仮名遣いを改め、濁点、「、」「。」を適宜補った。返り点は読み下した。また異体字は現在の標準漢字に直した。