村上春樹『野球場』奇妙な観察は彼に小説を書かせるか?
今回は『野球場』。そして今回も短く書く。
だしぬけに話がはじまる。
「野球場」のすぐそばに学生時代住んでいた青年の話である。
「僕」が彼から会って話を聞く、そういう形式が提示される。
小説を書くこと
青年、彼は小説家志望ではないが、小説を書くことを希望している。それで書いた原稿を「僕」に送る。原稿内容はともかく「文字」に魅力を感じた「僕」は彼に直接会う。
それで彼から話を聞くわけだ。
青年は、いろいろと奇妙な経験をしているようで、それを小説に書きたい、というより、それが小説的だと認識して書いているのだろう。
しかし、本書のはしがきで作者が書いているように、「マテリアル」=材料があれば小説が書けるわけではない。音楽が音をつかうように、絵画が色をつかうように、近代小説は日常の平俗語をつかう、原則的に。平俗語なら誰しもつかうから、誰でも書けそうにみえるだけだ。文学なり小説なりへ向かって越えなければならない地点があるようだ。作者はそれを「宿命的な種類の欠点」と呼んでいる。「なおしようがない」と。
それにしても、なぜこの世には小説のように感じる奇妙なことが多いのか。歌舞伎ではだめなのか。人形浄瑠璃ではないのか。はたまた俳諧連歌ではないのか……。小説的人生の諸相の不可思議さ。
〈観察〉という行為
彼は「野球場」のそばに住んでいたときの話をする。
同じ大学の同じクラブにいた女性の部屋を覗くために部屋を借りたらしい。そして父親から借りた「とびきり大きいカメラの望遠レンズ」で彼女の部屋を覗くのである。
これだけ書くとただの犯罪行為だが、小説である。示唆?教唆?自己責任でお願いしたい。
しかし、覗きのごとき〈観察〉とそこから起こる〈写実〉と言ったら、まるで坪内逍遥の『小説神髄』だが、じっさい近代文学は〈観察〉と〈写実〉から始まるのである。
そして、その〈写実〉はもじどおりカメラのような遠近法、主体が人称に統一されることで初めて可能になったものだ。
よって、彼は語り時点から「五年まえ」のそのときに、文学史をたどりなおすような経験をしているのである。「五年」後の彼が、「小説」を書く機縁はそこにあるのだろう。
しかし、覗きを一旦はやめようと誓ったかれだが、もはや彼は〈観察〉することをやめられなくなる。単なる好奇心や覗き趣味ではない。
この已みがたい、あるいは度しがたい欲望を彼は「暴力的」ととらえている。
たとえば真実という名のもとに、主観的に事実がひたすら暴かれてゆく〈観察〉を、暴力と呼ばずになんと呼ぼう。
彼女の生活をのぞき見するというのは、既に僕の体の一部みたいになっていました。だから目の悪い人が眼鏡を外すことができなくなるみたいに、映画に出てくる殺し屋が手もとから拳銃をはなせないみたいに、僕はカメラのファインダーが切りとる彼女の空間なしには生活していくことができなっていたんです*1
この〈観察〉の道は、かつて逍遥や四迷にとって困苦の道で、四迷にいたっては困窮のうちに死ぬほどのものであったわけだが、それが私小説を経て、制度化されると、〈観察〉はまるで機械のような〈自動運動〉を起こすようになる。膏肓に入る習癖と言ってもいい。つまり、小説家でなくとも、小説家が〈観察〉するように〈観察〉するようになるのである。
「望遠レンズ」での〈観察〉が彼に一体化するのは、〈自動運動〉そのものだ。もともと単に技術的なモノにすぎなかった機構を、先験的にじしんに帰属する内面であるかのように錯誤するのである。
そこに彼は「グロテスク」を見出す。小説「的」なことに狎れたひとびとが見失う「グロテスク」さだ。「望遠レンズ」によって「拡大」された〈観察〉は、現実の人間存在から彼を乖離させてゆく。彼は見るべきでないものを、思うさまつぶさに見たはずなのに、その見たこと、〈観察〉したことの実存を信じられなくなる。
それゆえ〈観察〉という行為は、彼から日常をはぎ取っていく。身辺が乱れ、大学にも行かなくなった彼を解放したのは、彼女の帰省である。対象がファインダーからいなくなると、その〈観察〉は唐突に終わりを告げる。
彼に残されたのは、「本当の僕はいったい何なんだってね」(本文凡て傍点)という述懐だけである。
このときの彼はまだ小説を書こうとしていないが、「マテリアル」で小説が作りうるなら、彼は最上の「マテリアル」を手にしたはずだ。しかし、その素材は、彼に「とてもねばねばとして、嫌な匂いのする汗」をかかせる。もちろん、背徳感だけではないだろう。
〈観察〉につきまとう「暴力的」な「グロテスク」さが蘇るからだ。そして、小説に書くことは、往々にしてこの不快を〈写実〉すること、書くことで乗り越えてしまう。あるいは書くことで背徳感や不快感を内面的に正当化してしまう。
もしこの〈観察〉を彼が書いていたら、どうだろう。作者が「宿命的な種類の欠点」と呼んだそれはもしかすると、この〈観察〉なら乗り越えられたかもしれない。そんな想像をする。たぶん、書けたであろう。じぶんの何かを切り売りするような小説が。
しかし彼は書かなかった。そのことだけは書かなかった。
救いといえば、それだけが救いである。
野球場
さいごに、「野球場」について。野球は全体を見る。肉眼で客席から見るそれは物語だ。ちょうど、ちょっと俯瞰になるのも物語に似ている。
しかし、クローズアップが自在なカメラの視点は小説的だ。
未然の小説「的」行為からなんとか抜け出した彼は
ときどき夜になると窓辺に座って野球場の向こうに見える彼女のアパートの小さな灯を眺めて、ぼんやり時を過しました。小さな灯というのはとてもいいもんです。僕は飛行機の窓から夜の地上を見下ろすたびにそう思います。小さな灯というものはなんて美して暖かいんだろうってね*2
フィツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』か、はたまたサン=テグジュペリの『人間の土地』を想起させるが、〈観察〉とはこういうものを言うのである。せめて「美しく暖かい」ものを見なければならない。それはもはや文学や小説にとどまらないことだ。