村上春樹『ハンティング・ナイフ』歴史の終焉を切り裂くナイフ
村上春樹『ハンティング・ナイフ』。『回転木馬のデッドヒート』最後の一篇になる。
最後だからというわけでもないが、発行年を見返したら、1984年、と書いてあった。偶然にちがいないが、オーウェルの小説がまだ一定のリアリティを持っていた時代、冷戦下に書かれた作品群であったわけだ、本書は。
そういえば『タクシーに乗った男』にも「プラハの春」が描かれていた。
オーウェルの「リアリティ」なんて言い方をしたけれど、歴史のわくぐみを外してしまえばただの寓話にすぎない。時代を超えた云々というが、かんたんに歴史を超えてはいけない。
そもそも、歴史の1984年、その「リアリティ」はオーウェルが想像したほどの「現実性」を備えていたであろうか。それは既に喪失されていたのではないか。そして、あらゆる得失が何もない、というところから作家の仕事は始まったはずだ。
1989年にはフランシス・フクヤマが〈歴史の終焉〉を語るにいたるわけだが、この西欧文明の凱歌は、とっくに死んでいた死者を埋葬したあとでなされた追認作業である。
同じ年、空疎な円転をくりかえした果てに、昭和が64年で終わっている。
そして〈失われた30年〉が始まる。
冷戦下、世界核戦争と世界の終わりという妄想に、逸楽といってもいいほどの喜びを見出し依存していたひとびとは、無限につづく、円環の〈終わらない日常〉を生きるようになる。
その後、黎明期を迎えるインターネットは、無害化された核兵器である。世界は安心してこれに依存した。無害とは、イデオロギーがない、ということだ。冷戦は、イデオロギーとその政治の権威を徹底的に失墜させた。そして無思想性と非政治性が新たな世界の教義となり、もともと無思想で非政治的な資本主義だけが生き残り、インターネット技術に代表される工学技術と結託するに至る。
まあいい。『ハンティング・ナイフ』の話をしよう。
これは「僕」の話だ。「僕」は「米軍基地」そばの海で泳いでいる。
日が上り、日が沈み、ヘリコプターが空を飛び、僕はビールを飲み、泳いだ。*1
数頁にわたってつづく描写の「絵葉書みたい」な風景。
しかしこれが現実なのだから、まあ文句のつけようがない。*2
穏やかで、空疎で、イデオロギー対立も戦火の不安もない「平和な海岸」で「僕」は過ごしている。冒頭では海に浮かぶ「ブイ」までの距離を「クロールで50ストローク」と〈正確に〉描写するように、「僕」から見える風物を余すところなく〈写生〉する。
車いすに乗った息子とその母親が出てくる。出てくるとは言っても何もしゃべらない。
本書にこれまで登場してきた彼や彼女たちの不思議なはなしに比べて、なんと平穏で無害な世界だろう。
太ったアメリカ人の女も出てくる。彼女はもとスチュワーデスで、兄は海軍の将校で、ヴェトナム戦争なんて単語までちりばめられるが、意味はない。正確に言えば、意味をなす基盤がどこにもない。それはもう失われてしまったのだ。
これらの〈写生〉はおそろしく退屈だ。問題はあるはずなのだが見当たらない。思い出せない。「米軍基地」という単語も、もはや何も喚起しない。
しかし予兆がおとずれる。
僕は目をさましたとき、すぐに枕もとのトラベル・ウオッチに目をやった。緑色の夜光塗料を塗った針は一時二十分を指していた。僕が目をさましたのは異様に激しい動悸のせいだった。*3
そんな深夜に「僕」は車いすの青年と話をする。
資本主義には強者と弱者がいる、身体的・精神的にも強者と弱者がいる。青年と彼の母はいずれも後者にあてはまる。その二分法が彼の家庭を分けていると彼は語る。しかしそれは不和ではない。ものごとの基準となるべき家庭が機能しなくなっていることを指している。
もちろん、資本主義システムとしてなら家庭は機能しているが、それは家庭だろうか。
繰り返すが、それは不和というものですらないのだ。
欠落はより高度な欠落に向い、過剰はより高度な過剰に向うというのが、そのシステムに対する僕のテーゼです。*4
家庭という「システム」の話から、資本主義という「システム」の話に転じている。家庭の不全は、個人から家庭を経て、社会、世界に通ずるルートが閉ざす。個人がダイレクトに資本主義システムにつながる世界のなかで、何もすることができない青年は、「無(リアン)」を生み出すことだと語る。
もちろん、逆説ではない。抵抗も対立も無効化した世界で、「過剰」が「過剰」を生むならば、「欠落」は「欠落」を生むだけだ。資本主義的〈生産〉だ。どこにも不思議はない。問題は見つからない。すべては終わったことだ。
しかし。
しかしそれで、青年は、「僕」は、われわれは、どこかに行けるのだろうか。本書の冒頭で作家はこう書いた。
他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我我はある種の無力感に捉われていくことになる。おりとはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。*5
どこへも行けないのである。
しかし、「僕」は、すべてが空無化し、すべてが終焉を迎えた世界で、密かな反逆を企てる。それはちょうどオーウェル『1984』の主人公ウィンストン・スミスが日記を手に入れたように、「僕」はハンティング・ナイフを手にする。
僕はそのナイフを手にとり、近くのやしの木の幹に何度かつき立て、樹皮を斜めにそぎおとした。それからプールのそばにあった発砲スチロールの安もののビート板をきれいにふたつに裂いた。素晴らしい切れ味だった。*6
「僕」は世界を切り裂いていゆく。
「太った白い女」「ブイ」「海」「空」「ヘリコプター」すべては「遠近感を失ったひとつのカオス」になって「僕」を取り囲むが、
僕は体のバランスを失わないように気をつけながら、静かにゆっくりと、ナイフを空中にすべらせた。夜の大気は油のようになめらかだった。僕の動きをさえぎるものは何もなかった。*7
「僕」に抵抗の武器を与えた青年にとっては、このハンティング・ナイフはひとつの夢想である。
僕の頭の内側から、記憶のやわらかな肉にむけて、ナイフが突きささっている夢です。べつに痛くはありません。ただ突きささっているだけなんです。それからいろんなものがだんだん消え失せていって、あとにはナイフだけが白骨のように残るんです。そういう夢です。*8
青年は「僕」にハンティング・ナイフを残し、あるいは託し、「無(リアン)」に向かって消えてゆく。
もちろん夢想だ。だから「どこへも行けない」。
しかし、それでも、ささやかな、ほんのわずかな希望がのこる夢想。
「そういう夢」なのである。