誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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仮名垣魯文『高橋阿伝夜刃譚』新聞連載のさきがけ

前回、『鳥追阿松』について書いた。これはもう、誰も読むひとがないだろうと思ったら、案外そうでもない。どこの誰が読んでいるんだろうと思えば興味は尽きないが、話も尽きないので続きを書く。*1

今のところ、硯友社から少し先までの本をひっくり返してながめているが、近代文学らしきは明治も30年くらいまで俟たないと出てこない。変化という点に着目するなら、そこからは大した変化がない。殆どそのまま今に至っているとも言える。

この時代、明治初年の戯作について見なければならないのは、〈三条の教憲〉を経て、崩壊寸前になった戯作が〈新聞〉という媒体を通じて変化してゆく、という処だろう。

それが〈つづき物〉であったとは前回冒頭で触れたが、その前に〈三条の教憲〉について。前回、書いてなんの説明もしていなかった。

〈三条の教憲〉と教部省

明治5年4月、〈三条の教憲〉は教部省より発令された。

一、敬神愛国の旨を体す可きこと

二、天地人道を明にすべきこと

三、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと*2

前掲書により解説を引用する。

これは、惟神(かんながら)の道に、実学思想や合理精神を加えた国教宣布の教憲で、その趣旨普及のために、神道家、仏教家、民間有識者などが教導職として動員されたが、さらに、戯作者、俳優、講釈師なども作品や舞台を通じて啓蒙に一役買うべく要請された。

教部省明治10年に廃止されるが、流れとしては慶応4年の新政府における第一次官制、太政官七科筆頭に神祇科が置かれたことが始まりだ。明治2年に令制にならって神祇官太政官のうえに置かれる。神仏分離廃仏毀釈として知られる〈国体神学〉を奉ずるイデオローグたちが現れたが、その復古主義は時代錯誤なものでさまざまな混乱をもたらしたことは、よく知られている。

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明治4年島地黙雷教部省設立の建言を提出する*3。〈国体神学〉の宣布者たちが混乱をもたらしながらも訴えていたことは、西洋文明が日本に入り込み〈国体〉を損ねるというもので、黙雷はこれに仏教を加え、神仏混交の教化体制を建言した。そして発令されたものが〈三条の教憲〉になる。

そして、いささか抽象的な〈三条〉に加えて明治6年3月、「十一兼題」が定められる。

神徳皇恩、人魂不死、天神造化、顕幽分界、愛国、神祭、鎮魂、君臣、父子、夫婦、大祓*4

そしてされに同年10月

皇国国体、皇政一新、道不可変、制可随時、人異禽獣、不可不教、不可不学、万国交際、権利義務、役心役形、政体各種、文明開化、律法沿革、国法民法、富国強兵、租税賦役、産業産物*5

「十七兼題」が出される。

教部省の混交ぶりを反映して、前近代的なものと近代的なものとが混在している。もちろん、比重は前者にある。和魂洋才という月並みな言い方を借れば、技術的なものだけに西欧文明の流入を抑えようという意図が見えるだろう。

そして二つの「兼題」に基づいて、神道・天台・真言・浄土・臨済・曹洞・黄檗真宗日蓮時宗・融通念仏の合計100,435人が教導職となり、全国で説教宣布が行われるという壮大な実験が行われた。

結果は、火を見るよりも明らかとも言えるが、完全な失敗に終わった。その経緯は省くが、「兼題」の混乱ぶりと参加集団を見えれば見当がつくかと思う。

啓蒙の時代と戯作

幕府瓦解により、戯作を成立させる文化的経済的基盤を失っていた戯作者にとって、〈三条の教憲〉発令は、良くも悪くも、大転機であった。ちなみに、この発令時、仮名垣魯文は山々亭有人*6とともに戯作界を代表して答申書を提出し、〈転向〉作品となる『大洋新話蛸之入道魚説教*7』なる奇妙な作品まで書いている。連作が予定されたが第一篇で終わった。

もともと天保の改革いらい衰微していた戯作であったから、そのまま無くなってもおかしくはなかったのである。しかし、その逼迫は、その外へと世界を拓いた側面もある。今で言えば一般読者の存在を意識させることになった。

もちろん、出版全体からみれば、筆頭は言うまでもなく明治初年は福沢諭吉の時代である。『学問のすすめ』『西洋事情』『世界国尽』『窮理図解』『かたわ娘』など次々と刊行された著作は、明治の貴賤かかわりなく、字の読める者はみな読んだと思っていい。

戯作者たちの節操のなさは、これにあやかってなされた作品に見られる。『西洋事情』に『西洋道中膝栗毛』、『窮理図解』に『胡瓜遣』、『かたわ娘』に『当世利口女』といった具合である。のちに福沢が版権、著作権を訴えるに至る伏線は、こういったところにある。

しかし、一応、この戯作者たちを庇っておくと、古今のアイデア、構成、趣向、知識を、パッチワークのよりに綴れ織りに作るのが戯作の本領なので、帰属する文化が違うのである。

戯作から「外」を目指した彼らが至ったのは新聞である。当時の新聞には大新聞(おおしんぶん)と小新聞(こしんぶん)とがあるが、ひとまずここでは小新聞について書く。
新聞記者のなかには、多くの戯作者たちがいた。仮名垣魯文に関していえば、明治10年を過ぎるまで、彼は戯作を封じ、記者に転じている。

明治5年 地理教科書『首書絵入世界都路』、実用書『西洋料理通』

明治7年 『横浜毎日新聞』入社

明治8年 『仮名読新聞』創刊

明治10年 佐賀の乱西南戦争ルポルタージュ『西南鎮静録』

これらの経験は、書くことに関する〈事実性〉というものを魯文に教えたし、また読者たちは〈事実性〉を〈新聞〉に読むようになったのである。

そしてこの〈事実性〉という啓蒙と開化の時代を象徴する民衆の関心は、先に挙げた古い宗教者たちによる〈三条の教憲〉およびその「兼題」宣布が受け入れられなかったことと同じ文脈からの反応である。

新聞と〈つづき物〉

よって、明治10年に〈国体〉イデオローグたちが、教部省廃止に伴い退場しても、戯作者たちが置かれた環境は変わってはいなかった。もはや荒唐無稽なだけの話や、くすぐり、地口、剽窃まがいのパロディ、それらが受け入れられる余地はなくなっていた。

これは、〈事実性〉の新聞によって、〈読み方〉が啓蒙されたとも言える。ほんとうに〈事実〉によって「蒙」が「啓」かれたのかどうかまではわかりかねるが、同時期、ちょうど貸本から新聞へと媒体が移り変わってゆく時期にあたることを思えば、定期連載による長編物が人気になる土壌はできていたのだろう。

その先駆けに前回挙げた『鳥追阿松』があったりするわけで、戯作とは言いながら、重んじられた〈事実性〉は、

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『格蘭氏伝倭文賞』なるグラント大統領来日に書かれた〈伝記〉という形式にもみられる。

高橋お伝の略歴

さて、といって、やっと本題だとすれば手際が悪すぎるが、ここまで来たら運が悪かったと思ってもらうしかない。

明治随一の毒婦として知られた高橋お伝が処刑、しかも絞首刑を上回る斬首刑に処されたのは明治12年1月31日。*8

お伝は嘉永元年8月、上州沼田在下牧村の農家に生まれた。国定忠治刑死に先立つ二年前になる。父は高橋勘左衛門、母は春。しかし春は、沼田藩用人(ようにん)のちに家老となる広瀬半右衛門の手つきとなり、そのまま高橋家に嫁いだものらしい。

出生からすでに戯作じみてきたが、つづける。

お伝が生まれて一か月で春は離縁され、お伝は勘左衛門の兄九右衛門の養女となる。

お伝17歳の時、婿養子を迎えるが夫婦の仲は悪く、お伝は家出をして中山道板鼻宿の仕出し屋で働いていたらしい。その後、正式に婿養子との離縁が決まり、慶応3年11月に同じ村の高橋波之助と結婚。しかし、明治2年ころから波之助にハンセン病の兆候が表れ、治療費のために田畠を売り、夫婦は窮し、東京に出る。明治4年12月のことという。

波之助は日雇い、お伝も奉公に出るが、明治5年9月に波之助死去。

この5年9月から9年8月に殺人容疑で逮捕されるまでの凡そ4年間、お伝はつぎつぎと男を変えて渡り歩き、古着商・後藤吉蔵殺害に及び、最期を迎える。

そして、処刑翌日2月1日から東京府下の小新聞は争うように、この毒婦の経歴を報じた。魯文の『仮名読新聞』でも連載を開始したが、2日で中絶。「絵入読本」で改めて刊行することになり、『高橋阿伝夜刃譚』として今に残っている。なお「絵入読本」は『鳥追阿松』で人気を博した形式である。

また『東京新聞』は『其名も高橋毒婦の小伝 東京奇聞』という社名の宣伝も兼ねた〈つづき物〉の連載を開始。

同年5月には新富座河竹黙阿弥による『綴合於伝仮名書*9』。曰く「新聞記事を其まゝに脚色し際物的に興行したるは実に此狂言が始まり」。これは魯文の『夜刃譚』と今でいうマルチメディアで、『夜刃譚』の「絵」は芝居の配役に合わせた似顔絵になっていた。

そのうち書くが、明治の文芸文学をリードしたのは戯作ではなくて歌舞伎、芝居なのだが、さておく。

それよりも〈事実性〉による報道の過熱を理解していただければいい。新聞、合巻、歌舞伎、さらには錦絵にまでなったらしい。

先に「ほんとうに〈事実〉によって「蒙」が「啓」かれたのかどうかまではわかりかねる」と書いたが、メディアとその受容をめぐる問題の発端が、戯作と歌舞伎というフィクションおよびそのマルチメディアによって引き起こされたことは忘れてはならないだろう。

斬首というスキャンダラスな最期を迎えたお伝は、実像という事実として在ったことを種に、ひとびとの望む毒婦へと成長・飛躍していったわけだ。また、刑死したお伝の遺体は解剖に処された。

明治12年2月12日の『東京曙新聞』にその立会人の言として

凡そ豪邁不敵なる兇徒は多く肉の油濃き者なれど永く囚獄に在ては肉食も充分ならねば油の抜る者なれどお伝は四年間獄裡に在て毫も屈せず壮健にして其肥肉の油濃かりしは舌を巻て驚く計りなりし

これを踏まえてか、『高橋阿伝夜刃譚』は

解剖検査されし脳漿並びに脂膏多く情欲深きも知られしとぞ

と末尾に書く。前田愛によれば「人間の悪を生理のレベルに還元して解釈しようとする因果論」ということになるが、こういう似非科学ふうの「因果論」はいまなお根深い。科学的データを背景にしているから、なお質が悪いのである。

 

 

*1:ちなみに今回の作文は、『明治文學全集』一、二巻所載の興津要「幕末開化期文學研究」および「〈つづき物〉の研究」よって書いている。筆者の創見ではない。

*2:筑摩書房『明治文學全集1』興津要「幕末開化期文學研究」より孫引き。旧字体を改め、仮名を平仮名に改めた。

*3:以下、記述は安丸良夫『神々の明治維新岩波新書による

*4:前掲書引用

*5:前掲書引用

*6:さんさんていありんど

*7:たいようしんわたこのにゅうどうおうせっきょう

*8:前田愛前田愛著作集 第四巻 幻景の明治』参考

*9:とじあわせおでんのかなぶみ