誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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大久保利謙『明六社』読み物ふうの人物紹介

明六社

明治6年にできたから明六社という。

横文字の専門家のあつまりだからと言って、妙な片仮名を使わなかったのはよかった。

この明六社が出版した雑誌を『明六雑誌』という。

「社」が「雑誌」を「出版」する草分けである。旧四六判という小冊子の体裁も、新しかった。明六社じたいが西洋の学会に倣ったものだから、会誌もそれに準じた大きさなのである。

後続の雑誌はみなその新しさを真似した。

だから、明治の10年くらいまでの雑誌はこの旧四六判が多い。今の新書サイズより一回りほど大きいものになる。

また、明六社は、主宰した「演説会」で知られる。日本における講演会、演説会の、これも事はじめである。その初めの初めは福沢諭吉である。“speech”を「演説」と訳してじっさいやって見せたのが福沢らしい。

明治6年からおよそ2年あまりで解散してしまったから、有名なわりに今では殆ど注目されない。また、今でいう総合誌にちかい内容さえ含むので、ジャンル分けが難しい。

けれども、この明六社が発した文章や演説は、物議をかもす一方で、若い明治人たちに多大な影響を与えた。

よく知られたところでは植木枝盛

彼が明六の演説会と、福沢諭吉の主宰した三田の両方に足しげく通ったことは、枝盛自身が日記に残している。語学のできなかった枝盛にとっては、明六社の専門家たちの〈翻訳〉を通じて得る知識が〈西洋〉であり、その自由民権思想になっていったのである。

洋学派のひとびと

明六社の主要なメンバーは、

森有礼(もりありのり)27歳

西村茂樹(にしむらしげき)46歳

西周(にしあまね)45歳

津田真道(つだまさみち)46歳

中村正直(なかむらまさなお)42歳

福沢諭吉(ふくざわゆきち)40歳

加藤弘之(かとうひろゆき)38歳

杉享二(すぎこうじ)46歳

箕作秋坪(みつくりしゅうへい)49歳

箕作麟祥(みつくりりんしょう)28歳

当代きっての著名な学者ばかりが集まり、学術研究とその啓蒙を担った結社が明六社なのである。

森有礼

一番若いのが森有礼

薩摩藩士で幕末元治2年(1865)に英国に留学した。攘夷盛んな折から沢井鉄馬の変名を用いたらしい。明治になって一旦帰国するも米国在勤小弁務使に任じられて渡米、また帰国。この二度目の帰国のさいに、西洋の学会方式を日本でも試みようという提案を、西村茂樹にしたのが明六社の発端である。

それというのも、特にアメリカでは、知識人エリートはその知識を一般のひとびとに還元するものであったからで、*1森はこれに触発されたものらしい。

のちの初代文部大臣。

西村茂樹

西村茂樹は江戸の佐倉藩邸に生まれる。佐久間象山に兵法、砲術を習い、安政年間には佐倉藩主で老中の堀田正睦を扶けた。のちに修身道徳の普及につとめる西村は、森の提案する啓蒙活動というところに惹かれたようだ。理想家肌で、加藤弘之津田真道とは対照的な人物。考え方は中村正直に近い。

ながらく日本を離れていた森は、誰に相談したものか悩んだ結果、当時、長老格で、この理想主義的な西村に相談したのであろう。取り持ったのは木戸孝允とされる。

西周

この西村茂樹のひとつ年下になるのが、西周だ。

津和野藩亀井家に仕えたのが西家の生まれである。

朱子学から荻生徂徠の徂徠学を修め、のちにオランダ語を学ぶ。さらにジョン万次郎こと中浜万次郎から英語を学び、慶応の幕府留学生となってオランダはライデン市立大学で、自然法、万国公法、国法、経済学、統計学を修める。

帰国後、幕臣となり、大政奉還のさいには徳川慶喜の帷幄にくわわる。

明治になり3年、東京府から請われ、兵部省に出仕。「哲学」はじめ、日本語として定着した翻訳語が多いことでも知られる。

津田真道

西周と同じ津和野藩の生まれ。江戸で同郷の箕作阮甫について蘭学を修め、佐久間象山平田篤胤に学び、伊藤玄朴の門下になる。慶応の幕府留学生としては西周の同輩。

帰国後、開成所教授となり、明治2年には、新政府の権判事となる。

中村正直

江戸麻丹波谷の生まれ。二条城交番同心の子。

昌平黌で佐藤一斎に学び、幕府の英国留学生として渡英。大政奉還に帰国して、明治3年。スマイルスの『自助論』や、J・S・ミルの『自由論』の翻訳を行い、『西国立志編』を刊行。『学問のすゝめ』とともに明治初年のベストセラーとなる。

明六社に参加したころ、メソジスト派の洗礼を受けている。

当時は大蔵省翻訳御用をつとめていた。

福沢諭吉

さきに演説のはじめ、と書いたが、当時、演説会で有名であったのは、明六社のそれと、慶應義塾のあった三田の演説会であった。『学問のすゝめ』の売れ行きと、三田演説会の盛況で、当時も今もいちばん名の知れた参加者である。

加藤弘之

東大の初代総理。

但馬国出石藩士の子。江戸ではじめ甲州流兵学をおさめ、その後蕃書調所につとめる傍ら、法学、哲学を学ぶ。ドイツ語を学んだことでも知られる。政治学の大家。

官軍が江戸を攻めるというとき、江戸城中で忠義に燃えて悲憤慷慨していたのが加藤である。同じく城中にいた福沢諭吉が、戦になりそうなら「ドウゾそれを知らしてくれ給え」「即刻逃げ」るからと答えて、加藤を憤慨させたという話が『福翁自伝』に出てくる。

前にも書いたが「非人穢多御廃止之儀」を建議したのも加藤弘之である。

しかし、権威主義的なところがあり、官学アカデミズムは加藤から始まると言ってもいい。

民選議員建白書をめぐっては、保守化して、植木枝盛や馬場辰猪と論争になる。馬場辰猪は福沢諭吉の門下生。

杉享二

日本の統計学の開祖。長崎の生まれ。

福沢諭吉と同じ緒方洪庵の弟子。適塾に学ぶ。福沢とは同期ではない。同期は大村益次郎

勝海舟の塾頭をつとめたあと、才幹を認められて時の老中阿部正弘に仕える。

蕃書調所、開成所につとめた。このころ統計学に興味を覚えたようで、明治の幕臣静岡移住のさいは沼津と原の人別統計をとっている。

新政府に出仕してからは、正院政表課長として統計事務を統括。

今につづく人口調査などは杉の建言による。

箕作秋坪

津和野藩の生まれ。父は津和野藩、預所学校学監、菊池文理の子。

津田真道同様に、箕作阮甫に学び、のち適塾に移る。阮甫の次女つねと結婚し、箕作を名乗るようになる。

物理の入門書『格物問答』の翻訳で知られる。文久の遣欧使節団に随行幕臣となる。慶応2年の樺太境界交渉では訪露もしている。

明治には私塾を営み、門人育成につとめた。

箕作麟祥

箕作阮甫には孫にあたる。

外では安積艮斎に漢学を学び、家では蘭学、英語を修める。さらにフランス語も、これは速習であったようだが学び、徳川昭武のパリ博覧会使節随行

明治政府につかえ、大学中博士となる。家塾も営み、門下に大井憲太郎、中江兆民を教えた。ナポレオン法典翻訳で江藤新平に大いに困らされたことは、すでに書いた。

ナポレオン法典から「ドロア=シビル」を「民権」と訳したのは箕作麟祥である。人権思想に関しては大井憲太郎の師にあたる。

さて、今回は人物紹介だけである。昔の小説は見返しなどに必ず登場人物紹介がついていた。それを真似してみた。読んでも迷子になりにくかろう。

それにしても面白いのは、思想も性向もばらばらの面子であることだ。

もと幕臣が多いのは、最高学府が昌平黌や開成所という幕府の施設に独占されていたからである。もちろん、明治以降だって東大以下が独占するのだから同じことだ。

そして新政府に出仕した者もあれば、福沢のように断固として断った者もある。

明六社解散後、めいめいそれぞれの道をゆくに至ることを思えば、期間限定の、知識人オールスターみたいな、そんなところのある明六社であり『明六雑誌』なのである。

次回は、そんなことを書く。

なお、人物来歴の記述は、大久保利謙の著作のほか、吉川弘文館『日本近代人名辞典』を参考にした。

 

*1:森本あんりの著作に詳しい