司馬遼太郎『歳月』小説みたいな感想
言わずと知れた江藤新平伝である。
いぜん筆者は、司馬遼太郎は時代小説家ではあるが歴史小説家ではないと書いた。
いまさら改める気はないものの、『歳月』は歴史小説に読める。
剣劇のたぐいが入ってしまうのは時代小説のお約束だから、言うだけ野暮だ。
もちろん読者を思ってのこと。歴史の人名と固有名、それから年号だけ並べた論評なんて誰も読まないし、読んでられない。自戒? 反省なんぞしません。書きたいように書く。
逆にいうと、人名・固有名と年号という材料からよくぞここまで話を広げたものである。
何を材料にしたのか知らないから司馬遼太郎の想像力に感心するしかないが、明治時代というのは、出版と流通の変革があった時代である。とりわけて新聞の登場は、目のまえの幕末維新を〈事実〉として書き込んだから、今思うよりはるかに資料が残っていたのだろう。
そしてその資料は、〈事実〉という名の、噂・ゴシップ・人物評が非常に多く、小説にするにはうってつけなのである。前にも書いたが、明治は〈人物評〉の時代でもある。
ということは、当時ですでに一次資料から二次以下の資料・言説への再生産が行われていたと推測されてしかるべきだ。なかば説話とさえいえよう。
たとえば、司法卿になった江藤新平の人となりを記したものに、山路愛山『現代金権史』(明治40)*1がある。面白いのでそのまま引用する。
その頃の司法省は今(明治末年ころ)の司法省に大審院(裁判権)と警視庁(警察権)を兼ねたようなもので、仮にその委ねられた権限を極度に利用したら政府の全体を動かすことができたものだったらしい。それでこの司法省の長官は薩長の勢力を憎み、これを打倒するのを生涯の目的にしたのが江藤新平である。故副島種臣の説によれば、江藤という人は一種面白い人で、ちょっと見れば鈍いようだが、一旦成し遂げると決めたことは必ず貫徹させなければ止まらない人だ。
其頃の司法省は今の司法省に大審院と警視庁とを兼ねしが如きものにて若し其委任の権利を極度に使用したらば政府の全体を動かし得べきものなりき。然るに此省の長官は薩長氏の勢力を悪(にく)み、之を倒すを以て生涯唯一の目的としたる江藤新平なり。故副島伯(筆者註・副島種臣)の説に江藤は一種面白き人にて、一寸(ちょっと)見れば鈍きように見ゆれども一旦為すべしと決したることは必ず貫徹せざれば止まざる人なり。
「金権史」として山城屋事件の顛末と述べているのだが、一見愚なるが如しとは司馬遼太郎も描くところだ。そのかわり小説だから、江藤のなかに「理屈屋」が棲んでいて、読者に向かって縷々しゃべる。もちろん、しゃべっているのは司馬遼太郎である。
ただ、基本的に、歴史という日本人のものがたり、に登場する江藤新平は、大西郷の引き立て役で、小物、である。
いくつもの〈不平士族の反乱〉は、幕引きに大西郷が非業の死を遂げたから、歴史にその名をとどめたものであろう。
話がそれるが、死した西郷が星になったという伝説は明治10年ですでにあったらしく、『東京絵入新聞』が報じている。曰く、深夜二時ころ辰巳の方角に赫色の星を望遠鏡で見ると、陸軍大将の官服に身をつつんだ西郷隆盛が見えるというものだ。
他にも〈西郷物〉を描いた錦絵は、現在確認されているだけで500点ほどが残されているらしい。
このへんの消息は、また別の機会に譲るとして、新聞の〈事実〉がフィクションを生み出してゆく機微が伺われる。
たとえば福沢諭吉は西南戦争直後に『丁丑公論』をあらわし西郷を擁護した。そして西郷自決の因を、「江藤前原の前轍を見て死を決したるや必せり」と記している。
裁判もなく殺された江藤と、萩の乱における前原一誠を引き合いに、「梟首」という幕府時代ですらない極刑に、有司専制政府の前近代性を批判した。けれども、江藤への言及はない。
三宅雪嶺もしばしば江藤をたとえに引いている。
『哲学涓滴』(明治22)のなかで、「萩の前原佐賀の江藤が胆力に富むに拘らず、刑に臨み惨々として落涙せしは何に由るか」と書いている。その後段出てくる「大西郷」に比して思惟の境涯の違いを述べるためのものだが、一種の常套句として慣用的に用いられたことをうかがわせる。
『想痕』(大正4年)には
明治年間に最も悪名を負いしは、老西郷及び江藤にして、如何に悪名を負いしかは、当時の新聞に賊魁逆賊等の語の頻りに散見せしに徴して察すべし。*2
この文章の文脈は、「老西郷」に深く同情を寄せ、いっぽうで当時の顕官を批判する、という福沢諭吉の論旨と同じで、時間があれば当時の新聞を「散見」してみると面白いかもしれない。
いっぽう『歳月』では、小説であるゆえ、大久保利通がことさらに悪人に仕立てられている。当時の、薩長による有司専制政府は日本にとっての与件である。いいか、わるいか、ではない。
福沢は政治家ではないから批判できたが、その代わり、民間学者としての苦渋をなめた。筆者が思うのは、「梟首」のごとき野蛮を背負って近代の坂を上らなければならなかった大久保の心境である。江藤を殺し、西郷をも殺した明治11年。紀尾井坂で5月14日、大久保自身も暗殺される。死屍累々。
時代小説に反対したくせに、小説みたいな感想だ。
人が死にすぎると、こんな感想も吐きたくなるのだ。