ディドロ、ダランベール『百科全書』明六社の解散
前回の最後に、福沢諭吉の「苦渋」と書いた。
ジャーナリストで思想家で教育者で、さまざまな肩書をもつ福沢だが、本業は学校経営者である。
念頭に、緒方洪庵とその適塾があったことは『福翁自伝』からもうかがいしれる。幕末、官軍東征の際ですら、一日も慶應義塾を休むことはなかったという逸話は、門下生の名誉であり、福沢の本懐であったろう。
福沢が私学にこだわったのは、「学問」が国家や権力の圧力によって歪曲されてはならず、「自由」でなければならないという自身の思想による。よって、慶應義塾が三田に私学として在り続けることは思想の実践であった。
そしてその実践のなかで〈経営〉ほど実践的なものはないだろう。
清談や理想ばかりでは口が干上がる。清濁併せ吞む、その濁りが濃くなれば人にものを言う資格がなくなる。
狡猾であってはならないが、巧妙さを持たなければ寧日ない。
福沢の平俗平明な文体は、ジャーナリステックな側面からみれば、大向こうに受ける文体だ。いっぽうでもちろん、民衆教化として啓蒙的な側面も兼ね備えている。
また、非官学を標榜していた福沢が、明六社に参加したのも、一面には宣伝の意味合いもあったろう。そうでなくては前回、人物紹介で書いたように、軒並み官学系の学者がそろった中に、福沢が加わる道理がない。
森有礼は西村茂樹とともに、明六社の社長に福沢を推したが、福沢はこれを断っている。しかし、社の会幹にはなっている。そして門下数名を会員として明六社に送っている。演説会に限っても、当時、三田と明六社ともに盛況で、言葉はわるいが二股をうまく架けた格好であった。
前に人物紹介を書いたが、ご覧いただくとわかるように、明確に〈民間〉の立場をとっているのは福沢諭吉だけである。
森有礼の発案で、あたかも在野のアカデミックな集まりを標榜した明六社だが、じっさいは加藤弘之はじめ新政府に地位を占める技術官僚たちであった。
このことは、彼らが多く元幕臣で、昌平黌や開成所にたずさわった者が多いことも関係している。研究者であることと、それが国家に寄与することは福沢と同じだが、もともとが為政者に近侍してそれを支えた経験は、明治になっても、大きく変化しなかったのであろう。
明治6年に発足した明六社は、翌7年『明六雑誌』を刊行し、さらに翌8年9月には雑誌廃刊が提言され、この年の秋には活動を停止している。*1
板垣退助が後藤象二郎とともに民選議員設立の建白書を出し、かたや江藤新平が佐賀の乱に敗死している。また地租改正公布(明治5)による混乱も拡大している。
こうした中で、森有礼は
時の政治に関わって論ずるようなことは、本来の明六社創設の主意ではない
時ノ政事ニ係ハリテ論スルカ如キハ本来吾社開会ノ主意ニ非ス(『明六雑誌』第30号)
と表明する。学術の政治からの独立という至極当然な「主意」である。
しかし、同じ明治8年6月28日、「讒謗律」および「新聞紙条例」が公布され厳しい取り締まりが始まっていた。言うまでもなく、民間雑誌・新聞の弾圧が目的である。
明六社同人たちも、それぞれの立場をはっきりさせなければならない時に至っていた。
同年9月1日の例会で、箕作秋坪から『明六雑誌』停刊が述べられる。森有礼は大いに反対するが、福沢諭吉は一歩進めて、廃刊を提案する。
理由はひとつではないが、まず民選議員設立をめぐって加藤弘之をはじめ政府擁護にまわったこと、また啓蒙活動としての役目を終えたという判断があったようだ。蒙昧な民衆から議員を選ぶことなどできないという時期尚早論を加藤たちは唱えた。
福沢はこの決議にさいして、「明六雑誌ノ出版ヲ止ルノ議案」を読み上げている。
第一に社員の本来の思想をにわかに改革して、変節して法律に合わせ、政府に迎合して雑誌を出版するか。第二に、讒謗律や新聞紙条例に違反してでも自由自在に筆をふるって政府の罪人となるか。道は二つしかない。
第一社員本来の思想を俄に改革し、節を屈して律令に適し、政府の思う所を迎へて雑誌を出版する歟、第二制律を犯し条令に触れ自由自在に筆を揮て政府の罪人と為る歟、唯此二箇条あるのみ
どちらも選べないなら廃刊するしかない、というのが福沢の意見であった。
西周と津田真道、あと森有礼は反対したが、当日欠席の西村茂樹、加藤弘之、中村正直は後日福沢の提案に賛成し、事実上の明六社解散が決まる。じっさいには解散ではなく無期の停止であったようだ。
なにごとでも全盛期に止めるということは難しいから、一般論的にいえば、優れた判断だったのかもしれない。
なお、明六社という民間の学会サークルは、明治12年創設の官立の東京学士院に吸収される。ときの文部省が主導したものだ。
もちろん、その間短いとはいえ、例会や演説会、および雑誌の刊行によって、政治経済はもとより法律・外交・財政を論じ、社会・哲学を説き、女性の権利や教育、また宗教、歴史、科学あるいは国字問題や出版に関するあれこれを国民にむけて啓蒙した。
明六社の役割は大きかった。
見方によっては「文明開化」とは彼らの活動によって国民の前にあらわれたものだと言ってもいい。
また、ディドロとダランベールの『百科全書』を意識したものかどうかは分からないが、内容多岐にわたり、その繚乱といってもいいほどの話柄の豊富さは、「百科全書」的である。
こころならずもフランス革命への理論から技術的な道を拓いてしまった『百科全書』の啓蒙ぶりに、似ていないこともない。*2
知識人が啓蒙を目指すいっぽうで、民衆がほんとうに目覚めることは望んでいないという二律背反が明治初年にしてすでに兆しているのである。
ちなみに官立の東京学士院へ、いち早く推薦されたのは福沢諭吉である。そしてその請いを受け、会員になっている。もちろん、変節ではなく、社会と政治から孤立して三田の義塾を保つことなど、できないからだ。
福沢諭吉の思想は、体系的に読み解くより、こういう「実践」に本領があるのではないか。とりわけ難しいことなんかわからない筆者には、それがひどく魅力的に映るのである。