誰かあの本を知らないか

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吉村昭『漂流』古今無用の人生

鳥島

伊豆半島から南東に向かって太平洋上、伊豆諸島がある。

百余りの島嶼からなるその南端ちかくに浮かぶ鳥島は、その名のとおり鳥の島である。アホウドリの繁殖地として知られているが、植生は貧しい。若い火山島ゆえである。じゅうぶんな水も湧かない岩だらけの孤島は、人を養うに足らない。明治以降、有人であったこともあるようだが、今では無人島である。

天保12年(1841)、土佐の万次郎たちが漂着した折も無人島であった。なんとか半年あまりの飢渇を堪え凌いだ彼らは米船に救助され、のちに帰国を果たした。井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』のとおり。もちろん、井伏の創作ではなく、河田小龍『漂巽紀畧』他、聞き書きに拠ったものである。

万次郎たちが漂着したときも無人島ではあったが、『漂巽紀畧』によれば、島内には人跡があった。以前にも漂着した者があったのである。しかし人の痕跡はからずしも希望になるとはかぎらない。それら多く人骨や墓であったからだ。ならばそれらは絶望の痕跡である。

それでも救助されたなら天祐であろうか。神助であろうか。

しかしこの世は神も仏もない。なんなら奇跡もない。人為のことは常に人為に終始して、人なるものを絶望させ歓喜させ、やっぱりほんの少しがっかりさせるのではあるまいか。

その、茶杓ひとさじばかりの「がっかり」を、歴史、というのではないだろうか。

漂流の理由

江戸期の海難事故とその漂流には理由があった。理由といったら可笑しいかもしれないが、すべてが天のみこころのまま、偶然に出来したわけではない。吉村昭は『漂流記の魅力』のなかで、大きく分けて三つの理由をあげている。

黒潮、船の構造、そして鎖国政策、である。

吉村が、大きな川のような、と評する黒潮は、非常に力の強い潮流である。日本列島の東側を南から北に向かって流れ、その流れはカムチャツカ半島から北米大陸方向にまで至っている。この潮流に乗ってしまえば、自走することのできなかった時代の船は、抗うことはできず、ただの漂流物となるしかなかった。

しかし実際、この、なすすべを失った漂流船が、太平洋上の島嶼にたどり着くことは稀であったろう。ほとんどはその前に沈没したことに違いない。それに、いずれかの島への漂着は稀ではあっても、それが僥倖を意味するとは限らない。

前掲の『漂流記の魅力』には年表が附されているが、流されて伊豆諸島をすり抜けた漂流船のうち、稀な運命に導かれたいくたりかは、はるかカムチャツカ半島アリューシャン列島、千島列島はオンネコタン島にまで流されている。そして生存し、その記録をとどめることができた。くりかえすが、ほとんどは、黒潮のなかに藻屑と消えたのである。

これは、江戸期における日本の船が帆船ではないことが大きな原因とされる。帆柱が一本の和船は、複数のマストを持つ帆船と異なり、外洋航海に向かない。「地見航海」とよばれるように、岸辺を視認する範囲が、航行できる範囲なのである。

荒天にあって帆柱が一本であることは、風波の圧力に対して安定性を欠く。船体に対して大ぶりな一本柱は、振り子のように船を揺さぶる。それゆえ、遭難船は最後の手段として帆柱を切り倒すしかなかった。帆を失えばそれはもはや船ではない。吉村の言葉を借りれば、「洋上を浮遊する容器」にすぎないものとなる。

そして加えて、暴風などの荒天みまわれると、はじめに舵が破損し流出した。それというのも、日本の港湾は多く河口にもうけられており、水深が浅い。その河口をさかのぼるために舵を引き上げことができる必要があった。可動性があるということは、それだけ脆弱性が高くなる。

また和船は水密構造を持たない。ふたのない茶碗が浮かんでいるようなもので、外洋に出ればその高波から逃れるすべがない。漂流するより前に沈没する可能性のほうが高かったゆえんである。喫水の高さを、積荷で調整したことも不安定さを増した。

ここで、なにゆえ水密構造を備えた複数帆の帆船を用いなかったのか、という疑問が出てくる。当然の疑問である。

外洋に出られる帆船を江戸幕府が知らなかったわけではない。長崎に出入りしていたオランダ船は帆船である。しかし、鎖国令が結果としてその手の船の開発と普及に向かわせなかったのだろうというのが、現在の研究の見立てであるようだ。というのも、帆船に関する禁令は幕府からは確認できないからだ。

そもそも、船は、近海輸送の手段であったわけだから、その目的に見合えば事は足りたということだろう。舵が可動式であるように、甲板があればそれだけ積荷が減るわけだから合理性はあるのである。もちろん、人命に対して非合理であることは言うを俟たない。公権力の合理性とは権力自身の合理性をしか指さないのである。

アメリカの捕鯨

ハーマン・メルヴィルが若きころ、捕鯨船員であったことは知られている。熱意ある優秀な船員ではなかったようだが、1840年ごろのことである。船上の生活に堪えかねて逃げ出したり、タヒチ島でイギリス領事官に逮捕されたりと小説なんぞよりよっぽど劇的な経験をへて、作家になった。しかし『白鯨』もまた、当時はほとんど評価されなかった。名作のゆえんである。

17世紀中ごろはアメリカにとって捕鯨の時代であった。工業用にその上質の油を必要としたのである。洋上で鯨を解体し、油を採るためには大量の薪水を必要とした。後年、浦賀に来航したペリー艦隊の要求が、薪水補給を含んでいた背景には、太平洋上に広がったアメリカの捕鯨事業からの要求があったのである。北はベーリング海から南はオーストラリア近海、そして西は日本列島までその領域は広がっていた。

万次郎たちが、捕鯨船に救助されたのは、偶然ばかりではなかったのである。

『漂流』

天明5年(1785)、土佐の松屋儀七船が漂流し、鳥島に漂着した。万次郎たちの遭難から遡ること56年前になる。本作、吉村昭『漂流』は、この儀七船のただ一人の生き残り、野村長平の漂流帰還譚である。

長平の漂流生活は12年に及んだ。

途中二回の、他の漂着船の乗員が加わるが、万次郎たちのような僥倖に彼と彼らは恵まれなかった。この、鳥島海域への米船回航は時期が至っていないのである。

ゆえに長平たちは自力で船をこしらえて脱出する。それにかかった時節が12年。小説としてのクライマックスである。

アホウドリを撲殺し生のまま食らい、或いは干物にし保存し、天水を貯め、厳酷な暑寒に堪え、狂を発しそうになる己を抱え、死んだ仲間に回向をささげながら生きる描写は凄惨といって余りある。諦念に蝕まれず、期待に翻弄されない長平の生きる姿は、一個の英雄と言っていい。天下国家にとっては古今無用の、あの英雄たちのひとりなのである。

本作の冒頭には、はしがきのような形で、太平洋戦争後も敗戦を知らず潜伏を続けていた帰還兵のはなしが書き留められている。この、国家と戦争にもてあそばれた人生が、吉村には、鎖国令によって漂流を余儀なくされた船乗りたちの悲哀と重なってみえたようだ。

その生死は、公権力になんの影響も残さない。古今無用なのである。むごたらしく苦痛と屈辱にまみれて死んだとしても、また生きたとしても、権力はなんの痛痒も覚えない。しかし、それを生き抜いた人生こそが歴史である、というのが吉村昭の小説であり、文学観であろう。

これは吉村が、第一回となる司馬遼太郎賞を辞退したことにも通じている。司馬遼太郎が、ぞんがい無邪気に信じていた公権力の合理性を、吉村昭は認めていない。道理からいっても貰うわけがない。

そして司馬遼太郎は、英雄のなかでも古今有用の人物を好んだ。意地わるくいえば、有名な歌枕のような人物ばかりを取り上げた。ゆえに今日もビジネス書の一種として売れているのである。司馬は、長平のごとき、艱難辛苦に堪えて己の命一個を保っただけの人間、古今無用の人物には興味を示すことはなかった。

文政4年に死没した長平の墓碑には、無人島野村長平と刻まれたらしい。帰還後、妻帯し子をも設けることができたという、その禍福は分からないが、懸命に生き抜いたそのことを確かに残す、そんな碑銘ではあるまいか。