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高木俊輔『維新史の再発掘ー相楽総三と埋もれた草莽たちー』敗者の歴史

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高木俊輔『維新史の再発掘ー相楽総三と埋もれた草莽たちー』NHKブックス(昭和45年3月20日第一刷発行)

誰だって負け組にはなりたくない。この、「誰だって」という世界を私たちは生きている。辛いことだ。

 

幕末維新期。官軍の先触れとして年貢半減を掲げて東下した、相楽総三率いる赤報隊が、却って偽官軍として処刑された「赤報隊事件」。その顛末と歴史的背景が本書のテーマである。

初版昭和45年、1970年。

相楽総三として知られている名は変名で、本名は小島四郎左衛門将満(まさみつ)。変名は志士となってからの名乗り。通称は四郎。(※以下、ややこしいので相楽総三で統一する)

下総国相馬郡椚木(くにぎ)新田村、豪農小島兵馬の四男で、小島家は兵馬の代になし、その家産をもとに江戸へ移り住み、総三は江戸で成長した。武芸学問ひとに優れ、とりわけて国学兵学は抜きん出ていたとされる。

そして、この時期の有為の若者の例にもれず、総三もまた尊攘派志士として、その活動に身を投じてゆく。

文久三年(1863年)、赤城山挙兵計画はひとつの象徴的な出来事となるはずだったが、結果は挙兵以前に崩壊、総三は身を隠す。ことごとく失敗に帰した「関東の尊皇攘夷活動」のひとつである。その後彼らが、半ば流れ着くように、半ば導かれるように辿り着いたのが江戸芝三田の薩摩藩邸。以後、江戸における反幕活動を委託される。委託とは言っても、「手弁当」での委託だから、活動資金等の援助がない。本当ならここで薩摩藩の底意を見抜かなければならないはずだ。後世これを見る筆者でさえ危ういと思う。しかし総三たちがこれに気づいた形跡はない。

義挙に身を置いた彼らには、政治が友敵にわかれた闘争で、なおかつその友敵すら定かならぬことが見えていなかったのであろうか。峻烈な幕末京都の政争に身を置かなかった「関東の尊皇攘夷活動」の限界であったのだろうか。

政治の貸し借りは物理法則のように働く。雌伏する総三たちを匿った薩摩藩はいずれ必ずやその返済を求めるだろう。

しかし総三は再び同志を、仲間を募る。その成果は慶応3年に計画された野州出流山(いずるさん)蜂起に結びつくはずであったが、この計画も失敗に終わる。

同年12月9日と言えば、王政復古の大号令。まだこの報は関東に届いていない。幕府によって捕らえられた者は佐野の獄につながれ、そのまま佐野河原にて処刑された。

この一件を見てもわかるように慶応年間の情勢は流動的で、有為転変とはいえ目まぐるしい。

そうした中で、江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件が起こる。薩摩藩と行動を共にしていた相楽総三たちも辛うじて江戸から逃れる。大きな歴史ではこれをきっかけに鳥羽伏見の戦いが始まるわけだが、官軍東下に先立って、薩長の新政府は東国諸国の「士民の向背」を探るために先遣隊を送ることに決める。

それら諸隊のひとつとして、ここに赤報隊が結成される。

そして東下に際して掲げられたのが冒頭にも書いた「年貢半減」である。

なんとも出しぬけだが、本書を読む限り、相楽総三の政治思想がわからないので、どうした思想的文脈でこれが唱えられたのか今ひとつわからない。幕府の苛政に苦しむ民衆のために年貢を半ば免じてやれば官軍新政府になびくだろうというような意味の建白書を太政官に建じているところからすると単なる方便とも取れる。なにしろ「尊皇攘夷」という器ばかり大きくて中を満たすものが何やらわからない思想を奉じているから、そのあたり杳としてしれないのである。

この後の赤報隊の足取りは書くに忍びない。

上記の「年貢半減」を掲げて中山道を下り、信州諏訪で隊の足どりは止まる。太政官に建白も行い、非公認ながら一定の理解を得られたはずの「年貢半減」というその布告が、良民を欺き、新政府を貶めるものとして彼らは捕らえられる。

相楽総三は、弁明の機会も与えられないまま、下諏訪の刑場で処刑された。慶応4年3月3日。半年後には改元、明治時代が始まるところだった。享年かぞえで30歳であったという。

相楽総三赤報隊が掲げた「年貢減免」が新政府にとって都合悪く、排除されたのだろうというのが本書の見立てである。

なにしろ新政府には金がなかった。献納によってひとまず官軍の軍費を賄うことを決めていたが、財政難は悲惨と呼ぶべきものであった。京三井、大阪鴻池などの「西国」の都市特権商人はすでに国家の財政に深く関与していた。イデオロギーによる革命の時代は終わりつつあり、経済と会計が生まれたばかりの幼い、この近代国家を動かそうとしていた。

そうしたなかで、税収減をはじめから民衆に約束する権力など在りうるはずがない。

かつて相楽たちが借りたそれは、命と自らの名誉で贖うことになったわけだ。

義憤により義挙をなし、世のため人のため政治活動を送る彼らを、「草莽」という。階級によらず身分によらず、ただその志と行いによって自己定義される。志士と呼ばれる人々のうち多くは、大藩という政治力を背景にせず、文字通り、草むす屍と消えた。

この後歴史は、相楽総三の刑死に続く者たちを幾度も舞台に登場させる。自由民権運動労働争議社会主義運動、安保闘争。もちろん彼らが報われなかったことはこんにちの私達が一番よく知っている。ほんのわずかに、卑劣、という言葉が頭をかすめたが、気の所為にちがいない。ここで筆を措くことにする。