誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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櫻田百衛『西洋血潮小暴風』明治14年の政変

百華園主人

櫻田百衛、生年は安政4年とも6年とも云う*1。岡山に生まれ、上京して東京外国語学校にドイツ語を学んだが中退し、自由民権運動に身を投じた。さくらだももえ、と訓む。念のため。

なお、当時の外国語学校は、二葉亭四迷も通ったころの東京外国語学校である。

「学生の気風は一般に豪放不羈を得意にして磊落を喜ぶ」*2というから、壮士の風があったようだ。

明治11年(1878)紀尾井坂において、大久保利通暗殺した中にいた杉村文一も同校の出身である。斬奸状のうつしが校内で回されていたとさえいう。反政府の巣窟みたいな学校だが、立身出世主義ばかりが学校ではないし、政府と国家とを同義に思いみなしてはなるまい。

ただ、百衛の文才が天性のものか培われたものか、不明である。当時の外国語学校の英独仏科は学述語・実用語を修めたというから、四迷の属した露科のように文芸書に触れる機会が果たして百衛にあったものかどうか。

ともあれ、語学屋にならず中退して百衛は民権運動に参加した。それがただの「壮士の風」だけでなかったことは、明治14年自由党の結党にともない入党して、「指揮謀略」をふるった*3というから、組織を指導する能力があったとみてよい。

例えばひとつに人力車夫の運動がある。それをば「車界運動」と洒落た。もちろん、ただの地口ではなく、人の口の端に乗りやすいような工夫だろう。四角張った理屈に人が付いてこないのは、いつの時代も一緒である。

一方、百華園主人と号して『仏国革命起源 西洋血潮小暴風』を「自由新聞」初号から連載した。「自由新聞」は板垣退助率いる自由党の機関紙である。この時期あたりから、各新聞には政党色、政治色が反映するようになってくる。むしろ、手すさみの文芸ではなく、「書くこと」が政治行動である時代になる。

なお書名の読みは「にしのうみちしおのさあらし」。司馬遼太郎なら、血風録、なんてつけるかもしれない。

原作はアレクサンドル・デュマ・ペールの『一医師の追想』から『ジョゼフ・バルサモ』の「訳出」というが、随分と改変があるから翻案と云った方がいいだろう。とはいえ、登場人物の紹介ほどで話が終わっている。いくら翻案とはいえ短かすぎる。

それというのも、『小暴風』を書いたあと、百衛は喘息の悪化、早世したからで、その死は惜しまれた。もとより、その政治活動家としての才幹が第一であろうが、作品の続編の望めないことも惜しまれた。ゆえに請われて百衛のあとを、「自由新聞」に入社した宮崎夢柳が書いた。その続編を『自由の凱歌』という。

『凱歌』はフランス革命の、バスティーユ襲撃を眼目に描かれている。デュマの原作からいえば、これもずいぶんと端折ったものだ。読者の興趣が、デュマの描こうとした大革命前後のフランス史を舞台にしたロマネスクではなく、革命そのものにあったことが伺われる。『太平記』なら、だしぬけに大楠公登場みたいなものだ。

ジョゼフ・バルサ

『ジョゼフ・バルサモ』は、デュマの『一医師の追憶』という長編連作の第一篇にあたるものである。『バルサモ』を皮切りに『王妃の首飾り』『アンジュ・ピトゥー』『シャルニー伯爵夫人』と続く。

この『バルサモ』が書かれたのは1848年。かの、パリ二月革命の年にあたる。劇場を主な収入源としていたデュマが苦難と困窮に追い込まれた年でもある。ゆえにデュマは二月革命に懐疑的で批判的で、かんたんにいうと憎んでいる。これはたとえばトクヴィルが『フランス二月革命の日々』で描いたように、懐疑を抱き、且つは恐怖を感じながらも、「論理的帰結」として志向した、それではない。王制への鎮魂とも哀惜ともつかない、そんな未練がましさがあって、筆者はその人間くささを徳とする。

この作品の時代設定はルイ16世即位の1774年からはじまり、『首飾り』はその10年後、『ピトゥー』は5年後、『シャルニ―夫人』はさらに5年後となっている。ブルボン王朝打倒を目論んで暗躍する怪人カリオストロ伯ことジョゼフ・バルサモを中心に、多数の登場人物が交錯するロマネスク小説なのだが、フランス革命を舞台にした四部作は〆て全15巻という、とにもかくにも長い長い小説でもある。しかし、史実と創作が巧みに織り込まれている小説なので、ロマネスクとは言っても、単なる荒唐無稽を意味しない。史実を足らざるを小説的想像力で補い、小説的虚構の脆弱を史実で支えるという、大作であると同時に名作でもある、見上げるほどにおおきな小説群である。

なお現在刊行されているのは、マリー・アントワネットのいわゆる「首飾り事件」を扱った『王妃の首飾り』だけ。創元推理文庫におさめられている。『ジョゼフ・バルサモ』と『アンジュ・ピトゥー』に関しては篤志の方がネット上で日本語訳を公開されているから、語学ができなくても安心だ。

翻訳部屋〜海外の翻訳小説〜

翻案の政治小説

請(こふ)眼を放つて社会を看よ。又回顧して往昔よりの。歴史を通観沈思せよ。果して什麼(いか)なる感想(かんじ)か起る。億兆無筭(おくてうむさん)の蒼生(さうせい)ハ。悉皆(しつかい)不正の人爵(しやく)が。懸隔(へだて)し上下貴賤の枷(かせ)に。心身を束縛せられ。高天厚地に踞蹐(きよくせき)し。昼夜休(いこ)ハず孜々黽勉(しゝびんべん)と。玉の汗より稼ぎ出して。命脈(いのち)を保つ宝とする。米銭ハ余り些少(すくな)く、租税の名をもて〇〇てう。虐賊們(ばら)に掠(かす)め収(とら)れ。彼が酒色に沈湎(ちんめん)なす。冗(むだ)な費(つひ)えを幇助(たすく)る而已(のみ)。*4

引用は、バルサモが、王制転覆を狙う秘密結社で行った演説のぶぶんにあたる。

文体は、和風漢文の読み下しをベースに、軍記物、謡曲、読本、戯作の言い回しが見受けられる。ただ、檄文めいた異様に熱のある五七調は、リズムがいい。これが当時人気を博し、短い期間ではあるが、櫻田百衛は「東洋のユゴー」と称されたらしい。

デュマの翻案なのにユゴーとは可笑しな気もするが、政治運動から政治小説への転向が民権運動におけるひとつのスタイルであった当時、ヴィクトル・ユゴーとベンジャミン・ディズレーリは、文人政治家として非常な人気があった。一等の褒めことばなのである。なんだか見て来たような言いぶりだが、内田魯庵がどこかに書いていたはずだ。

伏字は讒謗律や新聞条例への用意である。言論側にも加減がなかったが、取り締まる側もそれに輪をかけて容赦がなかったので、今日の自主規制風の伏字とは意味が異なる。

また、ここだけ読んでいると、フランス革命になずらえて、自由と権利を謳う、そういう小説に読めるかもしれない。しかし皮肉を云うようだが、政権と民衆という素朴な二項対立の構図は、いつでも人の目を欺く。これは明治から遠く令和の御代とて変わらない。

図らずも、「百華園主人」は言っている。

〇百華園主人謹で曰す。抑(そもそも)本編を茲(ここ)に訳出して博(ひろ)く看官の劉覧(りゅうらん)に供ふる所以ハ、仏国革命の惨状を鑑みて、其覆轍(そのふくてつ)を踏(ふま)ぬよふ心を注ぎ給へといふ一片の老婆信切なり。されバ激烈粗暴なる該国の政党が社会を毒せし弊害に涵染せざるぞ肝要なれ。*5

これを「老婆信切」と受け取るか。語るに落ちたとみるか。少し考えてみる必要がありそうだ。

民権運動と民衆

当時の民権運動は大いに高まったが、それは民権思想の「理解」が高まったわけではない。

西南戦争が終わった翌年、大久保の暗殺された明治11年(1878)に「地方新三法」*6が公布された。全国各地には県会が設立され、地方の名望家や有力者などを中心に、幕末維新期に混乱疲弊した郷土復興を目的に、政治への意識が高まる。もちろん彼らの欲得まじりの「復権」も狙いとしてはあったろう。それらを当て込んだ「新聞」や多くの政治結社が作られ、かなりの数にのぼる請願や建白が政府に提じられた。

しかし、民権を担うべき当事者であるはずの「民衆」は

鯰(なまず)の子が地震になろうが、赤髭〔外国人〕が威張ろうが、琉球人が将軍になろうが、米さえ安くなって元の様に一日三度ずつ米の飯が食われれば、己達(オラッチ)は外に望みも願いもなし*7

と『東京日日新聞』(80年12月6日)に描き出される民衆であり、それは福沢諭吉が『学問のすゝめ』第三編において説いたような「一身独立」を果たしていない「お上」とは共依存のような関係にある存在であった。

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加藤弘之明治15年に『人権新説』を発表し、歪曲させた社会ダーウィニズムをもって天賦人権論を否定し「転向」するのも、背景にはこうした民衆への絶望と拒絶が看取される。

じっさい、民権運動の沸騰は、たとえば民権演説会が、

政府や警察を罵倒する弁士に喝采を送り、臨席警官が演説を中止させれば大騒ぎをひきおこしていた。たとえば、弁士が「流行の俚謡(ウタ)」だといって、「懲(こ)も懲りない圧制は竹槍席旗(むしろばた)の花が咲く」と歌いはじめ、警官が演説中止を命じるや、聴収四千余人が立ちあがって「警察官に論弁抗争し、場中の紛擾(ゴタツキ)一方なら」ず、となった*8

というような、それが「激烈粗暴」であるがゆえに人気を博したとすれば、国家構想や民権思想への支持や理解とは程遠い。

これは日本と日本人が「未開」であるせいだろうか。

言うまでもなく、フランス革命自体がすでに「激烈粗暴」であったのである。モンターニュ派独裁という、「革命の深化」は過激化の一途を辿り、テルミドール9日ロベスピエールサン=ジュストを断頭台に送ることで独裁は崩壊するが、革命は確固たるものになった、とされる*9。これには両義的な評価があるだろうが、既存の権力勢力を一掃するための死屍累々とは、過程だけみるなら「未開」のしわざとしか思えない。

維新とフランス革命を重ね合わせてみるならば、民権運動には、断頭台に象徴される過激化の路線もありえたわけである。実際に、政府の危機意識はそこにあったであろうし、在野とはいえほんの数年前まで政府に地位を占めていた板垣退助自由党幹部にも同じ危機感は共有されていたはずである。

図式的にいえば、政府と政党、そして民衆の三つ巴で、民衆の「激烈粗暴」を権力は恐れていたともいえる。民衆のための政治、あるいは政党と言いながら、政府と政党の争いは権力闘争にすぎず、民衆はじっさいは蚊帳の外、という構図の起源はこのあたりにあるのではないか。

明治14年の政変

明治7年の民選議員設立建白書は板垣退助副島種臣らによって出され、退けられた。時期尚早、という政府の判断だが、征韓論を通して分裂した薩長主流派と土佐派を中心とした不満分子との権力闘争が背景にある。

萩の乱西南戦争において武力闘争の不可能性を見届けた板垣らは、国会開設、地租の軽減、不平等条約の改正をかかげ、彼らの政治結社愛国社を全国規模に拡大した。

これが明治11年

また同年、福沢門下で英国から帰国した馬場辰猪は慶應義塾のメンバーを中心に交詢社を結成し、福沢がつねに説いていた「一身独立」した国民(ネイション)を育てるために、啓蒙的な方法で民心の改革を目指した。馬場は自由党結党に合流する。

しかし、明治13年の集会条例発布が法の拡大解釈もふくめて、彼らをことごとく弾圧してゆく。

もちろん、強固な弾圧は有司専制政府の「危機感」のあらわれであると同時に「不安」のあらわれでもある。不平等条約改正の見込みはなく、財政状況は最悪であり、西南戦争後、不換紙幣を乱発したことによるインフレが急速に進行、結果地租による歳入が大きく目減りしていた。このころの財政状況だけ見ていると、国家が破綻しなかったのが不思議なくらいである。

一方、これも不思議なことだが、明治13年、地租改訂を政府が断念したことにより、全国農村は一部を除いて好況に沸いていた。実質地租負担が軽減しながら、インフレによる農作物物価の上昇、不平等条約による自由貿易で輸入品が廉価で国内に出回るようになったからである。

全国の政治結社や民権活動は、こうして生み出された余剰の財により支えられていた。

輸入超過は大量の正金流出を招いた。当然である。追い詰められた政府は地租の米納制を復活させるか、外債を募るか、議論を重ね、とくに後者の採用を検討していた。しかし、来日していたグラントから外債の危険性を教えられていた明治天皇はこれを拒否。背後に、元田永孚らの宮中勢力が天皇親政をもくろんでいたのは言うまでもない。

八方ふさがりのなか、やむなく政府は財政支出の大幅な削減と酒税などの間接税の増税に踏み切るいっぽうで、国会開設の詔によって民権運動の鋭鋒をそらし、参議大隈重信を政府から追放し、政府の意思統一を図る。

明治14年の政変と呼ばれるものである。

このクーデタの原因の大きな要因のひとつである北海道開拓使官有物払下げの中止決定は、その「輿論」とともに民権運動の成果ともいえるが、こうした動きを政府が徹底的に弾圧することを決断するきっかけになったともいえる。

こうした中で自由党は結党された。しかし、結党以降、総理(党首)板垣退助の動きは不鮮明である。「自由ハ死ストモ」で膾炙した岐阜遭難は翌明治15年4月だが、その年の11月には後藤象二郎に資金を仰いで外遊、これに反対した馬場辰猪、末広鐡腸らは離党し、板垣不在の間に党内急進派は福島事件を起こす。この福島事件が加波山事件へと波及し、苛酷な弾圧に遭い、自由党を解党へと追い込んでゆく。

百華園主人の「老婆信切」は取り越し苦労ではなかったわけだが、老婆心とは往々にしてそういうものだ。ゆえに、お節介、とも言われるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:新潮社『増補改訂新潮日本文学辞典』

*2:中村光夫二葉亭四迷講談社文芸文庫

*3:筑摩書房『明治政治小説集(一)』明治文學全集5解題

*4:筑摩書房『明治政治小説集(一)』明治文學全集5より引用。筆責で旧字体新字体に改む。

*5:前掲書引用

*6:郡区町村制編制法、府県会規則・地方税規則の三方

*7:岩波新書『日本近現代史②民権と憲法』牧原憲夫より孫引き

*8:牧原憲夫前掲書より引用

*9:服部春彦・谷川稔『フランス近代史』ミネルヴァ書房

吉村昭『漂流』古今無用の人生

鳥島

伊豆半島から南東に向かって太平洋上、伊豆諸島がある。

百余りの島嶼からなるその南端ちかくに浮かぶ鳥島は、その名のとおり鳥の島である。アホウドリの繁殖地として知られているが、植生は貧しい。若い火山島ゆえである。じゅうぶんな水も湧かない岩だらけの孤島は、人を養うに足らない。明治以降、有人であったこともあるようだが、今では無人島である。

天保12年(1841)、土佐の万次郎たちが漂着した折も無人島であった。なんとか半年あまりの飢渇を堪え凌いだ彼らは米船に救助され、のちに帰国を果たした。井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』のとおり。もちろん、井伏の創作ではなく、河田小龍『漂巽紀畧』他、聞き書きに拠ったものである。

万次郎たちが漂着したときも無人島ではあったが、『漂巽紀畧』によれば、島内には人跡があった。以前にも漂着した者があったのである。しかし人の痕跡はからずしも希望になるとはかぎらない。それら多く人骨や墓であったからだ。ならばそれらは絶望の痕跡である。

それでも救助されたなら天祐であろうか。神助であろうか。

しかしこの世は神も仏もない。なんなら奇跡もない。人為のことは常に人為に終始して、人なるものを絶望させ歓喜させ、やっぱりほんの少しがっかりさせるのではあるまいか。

その、茶杓ひとさじばかりの「がっかり」を、歴史、というのではないだろうか。

漂流の理由

江戸期の海難事故とその漂流には理由があった。理由といったら可笑しいかもしれないが、すべてが天のみこころのまま、偶然に出来したわけではない。吉村昭は『漂流記の魅力』のなかで、大きく分けて三つの理由をあげている。

黒潮、船の構造、そして鎖国政策、である。

吉村が、大きな川のような、と評する黒潮は、非常に力の強い潮流である。日本列島の東側を南から北に向かって流れ、その流れはカムチャツカ半島から北米大陸方向にまで至っている。この潮流に乗ってしまえば、自走することのできなかった時代の船は、抗うことはできず、ただの漂流物となるしかなかった。

しかし実際、この、なすすべを失った漂流船が、太平洋上の島嶼にたどり着くことは稀であったろう。ほとんどはその前に沈没したことに違いない。それに、いずれかの島への漂着は稀ではあっても、それが僥倖を意味するとは限らない。

前掲の『漂流記の魅力』には年表が附されているが、流されて伊豆諸島をすり抜けた漂流船のうち、稀な運命に導かれたいくたりかは、はるかカムチャツカ半島アリューシャン列島、千島列島はオンネコタン島にまで流されている。そして生存し、その記録をとどめることができた。くりかえすが、ほとんどは、黒潮のなかに藻屑と消えたのである。

これは、江戸期における日本の船が帆船ではないことが大きな原因とされる。帆柱が一本の和船は、複数のマストを持つ帆船と異なり、外洋航海に向かない。「地見航海」とよばれるように、岸辺を視認する範囲が、航行できる範囲なのである。

荒天にあって帆柱が一本であることは、風波の圧力に対して安定性を欠く。船体に対して大ぶりな一本柱は、振り子のように船を揺さぶる。それゆえ、遭難船は最後の手段として帆柱を切り倒すしかなかった。帆を失えばそれはもはや船ではない。吉村の言葉を借りれば、「洋上を浮遊する容器」にすぎないものとなる。

そして加えて、暴風などの荒天みまわれると、はじめに舵が破損し流出した。それというのも、日本の港湾は多く河口にもうけられており、水深が浅い。その河口をさかのぼるために舵を引き上げことができる必要があった。可動性があるということは、それだけ脆弱性が高くなる。

また和船は水密構造を持たない。ふたのない茶碗が浮かんでいるようなもので、外洋に出ればその高波から逃れるすべがない。漂流するより前に沈没する可能性のほうが高かったゆえんである。喫水の高さを、積荷で調整したことも不安定さを増した。

ここで、なにゆえ水密構造を備えた複数帆の帆船を用いなかったのか、という疑問が出てくる。当然の疑問である。

外洋に出られる帆船を江戸幕府が知らなかったわけではない。長崎に出入りしていたオランダ船は帆船である。しかし、鎖国令が結果としてその手の船の開発と普及に向かわせなかったのだろうというのが、現在の研究の見立てであるようだ。というのも、帆船に関する禁令は幕府からは確認できないからだ。

そもそも、船は、近海輸送の手段であったわけだから、その目的に見合えば事は足りたということだろう。舵が可動式であるように、甲板があればそれだけ積荷が減るわけだから合理性はあるのである。もちろん、人命に対して非合理であることは言うを俟たない。公権力の合理性とは権力自身の合理性をしか指さないのである。

アメリカの捕鯨

ハーマン・メルヴィルが若きころ、捕鯨船員であったことは知られている。熱意ある優秀な船員ではなかったようだが、1840年ごろのことである。船上の生活に堪えかねて逃げ出したり、タヒチ島でイギリス領事官に逮捕されたりと小説なんぞよりよっぽど劇的な経験をへて、作家になった。しかし『白鯨』もまた、当時はほとんど評価されなかった。名作のゆえんである。

17世紀中ごろはアメリカにとって捕鯨の時代であった。工業用にその上質の油を必要としたのである。洋上で鯨を解体し、油を採るためには大量の薪水を必要とした。後年、浦賀に来航したペリー艦隊の要求が、薪水補給を含んでいた背景には、太平洋上に広がったアメリカの捕鯨事業からの要求があったのである。北はベーリング海から南はオーストラリア近海、そして西は日本列島までその領域は広がっていた。

万次郎たちが、捕鯨船に救助されたのは、偶然ばかりではなかったのである。

『漂流』

天明5年(1785)、土佐の松屋儀七船が漂流し、鳥島に漂着した。万次郎たちの遭難から遡ること56年前になる。本作、吉村昭『漂流』は、この儀七船のただ一人の生き残り、野村長平の漂流帰還譚である。

長平の漂流生活は12年に及んだ。

途中二回の、他の漂着船の乗員が加わるが、万次郎たちのような僥倖に彼と彼らは恵まれなかった。この、鳥島海域への米船回航は時期が至っていないのである。

ゆえに長平たちは自力で船をこしらえて脱出する。それにかかった時節が12年。小説としてのクライマックスである。

アホウドリを撲殺し生のまま食らい、或いは干物にし保存し、天水を貯め、厳酷な暑寒に堪え、狂を発しそうになる己を抱え、死んだ仲間に回向をささげながら生きる描写は凄惨といって余りある。諦念に蝕まれず、期待に翻弄されない長平の生きる姿は、一個の英雄と言っていい。天下国家にとっては古今無用の、あの英雄たちのひとりなのである。

本作の冒頭には、はしがきのような形で、太平洋戦争後も敗戦を知らず潜伏を続けていた帰還兵のはなしが書き留められている。この、国家と戦争にもてあそばれた人生が、吉村には、鎖国令によって漂流を余儀なくされた船乗りたちの悲哀と重なってみえたようだ。

その生死は、公権力になんの影響も残さない。古今無用なのである。むごたらしく苦痛と屈辱にまみれて死んだとしても、また生きたとしても、権力はなんの痛痒も覚えない。しかし、それを生き抜いた人生こそが歴史である、というのが吉村昭の小説であり、文学観であろう。

これは吉村が、第一回となる司馬遼太郎賞を辞退したことにも通じている。司馬遼太郎が、ぞんがい無邪気に信じていた公権力の合理性を、吉村昭は認めていない。道理からいっても貰うわけがない。

そして司馬遼太郎は、英雄のなかでも古今有用の人物を好んだ。意地わるくいえば、有名な歌枕のような人物ばかりを取り上げた。ゆえに今日もビジネス書の一種として売れているのである。司馬は、長平のごとき、艱難辛苦に堪えて己の命一個を保っただけの人間、古今無用の人物には興味を示すことはなかった。

文政4年に死没した長平の墓碑には、無人島野村長平と刻まれたらしい。帰還後、妻帯し子をも設けることができたという、その禍福は分からないが、懸命に生き抜いたそのことを確かに残す、そんな碑銘ではあるまいか。

 

 

 

戸田欽堂『情海波瀾』はじまりの政治小説

『情海波瀾』は戸田欽堂の政治小説

タイトルに「はじまり」とつけたのは明治文学の研究者柳田泉がそう言っているからで、筆者に定見があるわけではない。へりくつを言えば、一番とか嚆矢とか白眉とか、芸術や文学はすぐに決めつけたがるから、そう、ムキになるものでもあるまい、というくらいのつもりである。

さて、一般には「政治小説」と云った場合、明治8年民選議員設立の建白から全国に拡大過熱していった自由民権運動とその思想を扱った小説のことを指す。政治的な宣伝、プロパガンダ、あるいは民権思想の啓蒙を目的とした。それは平易な言葉づかいと文体に見て取れる。

もちろん、この「平易」は、福沢諭吉をはじめとした啓蒙家たちが拓いた「平易」である。しかし、民選議員設立をめぐっては、活動家たちを批判するがわに明六社同人はまわったわけだから、皮肉といえば皮肉である。

あらすじ

本作のあらすじは、いたって簡単である。

まず、登場人物は「魁屋阿権(さきがけやおけん)」「和国屋民次(わこくやみんじ)」「国府正文(こくふまさふみ)」。

名前が典型を表している。「阿権」は芸者で「権利」のこと。「民次」は「日本の民衆」、「国府」は「国家の政府」。「民次」と「国府」が「阿権」をめぐって争い、「国府」がゆずるかたちで「民次」が「阿権」と「夫婦」になる、というものである。

作品の「情海」は「政海」の謂い。これは言うまでもないことかもしれない。

今からみれば、素朴なアレゴリー小説とでも言えるだろうか。

しかし『明治政治小説集(一)』を見ただけだが、なかなか面白そうな点がいくつかある。

成島柳北

まず冒頭に「柳北拝」として本作が脱稿してまず成島柳北校閲を請うたことが記されている。柳北は「多事病懶ノ故」をもってこれを辞したが、いくらかのアドバイスはしたらしい。

当時すでに「天地間無用の人」と称しながら、『朝野新聞』で社長として筆を振るい、讒謗律による検挙にも屈しなかった柳北は、文壇の大家になっていた。没年は明治17年なので、欽堂が校閲を請うたときは柳北の最晩年となる。

「梅暦東京新誌ト何ゾ擇バン」という三輪信次郎による序文に見えるように、花柳を舞台に、ひるがえって時事政治を諷する手法は『柳橋新誌』が能くした手法である。柳北が示したささやかな好意は、じしんの後継への好意と見える。

しかし、いっぽうで、『柳橋新誌』が備えていた言語修辞の多義性、ひとつの詞で幾重にも意味の広がる表現は受け継がれず、一語に一意が対応する「平易」な文体になっている。柳北の好意は「ささやかな」ものにならざるをえなかっただろう。

これは先に述べたように明六社、とくに福沢諭吉の影響である。なにしろ「第二齣」には「福沢氏曾て宗吾ヲ評シテ曰ルアリ」と出てくる。この「第二齣」は劇中劇になっていて、「佐倉宗五郎ノ劇演ジ、恰モ帰郷決別(コハカレ)ノ一段(ヒトクダリ)」の芝居を、「阿権」と「民次」が「遊覧」しているという構造をとっている。

福沢諭吉

『学問のすゝめ』第七篇は、「義民」としての「宗五郎」を取り上げている。「国民の職分を論ず」というテーマで、「国法」に従い、その範囲のなかでルールにのっとって、争議や議論があるべきだということを論じている。法をやぶった時点で、赤穂浪士の仇討ちも罪であり、主人の金を無くした権助が死ぬのと「軽重」はないとさえ言っている。

「権義」と「正理」を主張して「世界中に対して恥することなかるべき者は、古来ただ佐倉宗五郎あるのみ」という有名な一説は、のちに福沢をいわゆる長沼事件に導く。

もちろん、福沢が、明治維新という回天の根源に、民衆の世直しへの希求という破壊的エネルギーを見ていたことは言うまでもない。このエネルギーを矯めるための「国民の職分」である。

孟子の説いたような易姓革命、たとえば吉田松陰の『講孟余話』に見える革命理論は、討幕にこそ役立ったが、国家草創の期にあっては危険思想でしかない。「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」(『古文孝経』序文)という、福沢が罵言をあびせた儒学のかんがえに近いことを言わざるをえないところまで、民権運動は福沢を押し込んでいったとも考えられる。

佐倉宗五郎

ところで、とここで筆者は不安になったので、「佐倉宗五郎」について記す。

佐倉惣五郎下総国佐倉のひと。年貢の減免を将軍に直訴して訴えは入れられるものの、直訴をした罪によって処刑された人物で、百姓(ひゃくせい)のためにその命をなげうったゆえに「義民」とされる。

義民伝承とよばれる一連の伝承のなかで有名なもののひとつである。史実としてはだいぶ怪しい。死後、祀られていることと、磔刑に処した佐倉藩堀田家に祟ったとされる辺りには、御霊信仰もうかがえる。

歌舞伎、講釈、浪花節などさまざまな芸能の主題となった。とりわけて「決別ノ一段」は好演目で江戸期をつうじて人気があったようだ。

明治になると、民権運動は、こうした民衆のよく知る人物を取り上げた。福沢の『学問のすゝめ』第七編はその先蹤となる。

長沼事件

明治7年(1874)、千葉県長沼の沼沢における漁業権をめぐった訴訟に福沢は関係する。

訴訟の裁定にあたった県庁は、長沼村に不利をもたらした。訴えをおこすことを決めた長沼村は小川武平を中央に派遣。その上京の宿で武平は『学問のすゝめ』を読み感動し、福沢に助けを求めた。福沢は政府への願上書を代筆した。

思想が現実に生かされたという世評があるいっぽうで、福沢は嘆願が通りやすいように、武平ら長沼村の陳情を改変したことも知られている。

福沢が村民たちに与えた忠告は「県庁をば親とも君とも思」え、とか、「官員の立腹せざる様」詫びよ、とかいったものでさえあった。

これを思想への背反とみるか、現実主義の対応とみるか。

福沢はじしんの説いた民権思想が、〈蒙昧な民〉によって実践されてゆくことをどう見て考えていたかがわかる出来事である。

明治14年の政変

国府」がゆずるかたちで「民次」が「阿権」と「夫婦」になる、と先に書いたが、こういう予定調和のような民権の確立はありえなかった。後世からみれば、絵空事である。

北海道開拓使払い下げ問題からはじまった明治14年の政変は、板垣退助率いる自由党と、政府を追われた大隈重信の改進党との結成にいたり、官民対立の激化が明らかになった。

なお、この政変のなかには、大隈と親交を深めた福沢のすがたもあり、三田の慶応義塾への資金援助とその問題視も含まれている。

『情海波瀾』の素朴なアレゴリーにならえば、「阿権」は力ずく、金の力で奪われたのである。

しかし、政治小説の隆盛がここに始まったのだとすれば、戸田欽堂『情海波瀾』を、「はじまりの政治小説」と呼んでもさしつかえはないのではないか。

もちろん、ムリに主張する気がないのは、はじめに書いたとおり。

「権利」を艶やかな芸者、女に見立てた点は面白い。金や力には、なびくようでなびかぬということか。

ちなみに戸田欽堂は大垣藩主戸田氏正の妾腹の子。よって『情海波瀾』は、維新後、れっきとした華族様の書いた「はじめ」の戯作小説でもある。

なお、これが本家に知られた欽堂はおおいに叱られたそうだ。

 

村上春樹『タクシーに乗った男』移動の時代

久しぶりなので短いものを書く。

以前に村上春樹『タクシーに乗った男』をめぐって「共感とプラハの春」と題して書いた。書くには書いたが、タイトルにもある「タクシー」について回収していなかった。

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今回はそんなはなしである。

明治26年10月30日「文學界」第10号に、北村透谷が「漫罵」という小文を寄せている。

研究史ではこれをめぐってさまざまな言及がある小文ではある。

ともあれ、内容は、東京の街を逍遥する透谷が、開化以降つぎつぎに流入してくる西洋の文物ともともとの江戸の文物が混在するありさまを批判的に叙述してゆく。曰く、

洋風あり、国風あり、或は半洋、或は局部に於て洋、或は全く洋風にして而して局部のみ国風を存するあり。*1

今となってみれば不思議もない、津々浦々に広がったごちゃごちゃの景観である。

透谷はこれが「今の時代に沈厳高調なる詩歌なきは之を以てにあらずや」と、本当の「詩歌」が生まれない理由を、応接のいとまもないほど押し寄せる「洋風」と、さりとてそれに抵抗はしないが押し流されるわけでもない「国風」の混在に見ている。

今の時代は物質的の革命によりてその精神を奪はれつゝあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の撞突より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。革命にあらず移動なり。人心自ら持重するところある能わず、知らず識らずこの移動の激浪に投じて、自ら殺さゞるもの稀なり。

維新にあったはずの「革命」の「精神」が「奪はれつゝ」あると分析する透谷は、今やただただ文物の「激浪」に翻弄されて「移動」うつろってゆくだけだと言う。

かんたんに言えば、文化の根なし草を批評した。

これは後年、漱石が「私の個人主義」という講演のなかで、せめて「自己本位」を確立するしかないではないかと、半ば諦念と苦い悔恨をもって述べたものに通ずるものである。

近頃流行るベルグソンでもオイケンでもみんな向ふの人が兎や角いふので日本人も其尻馬に乗つて騒ぐのです。*2

「外発的」「内発的」という言葉なら学校の副読本で読んだことがある向きも多いかもしれない。もちろん、前者はよろしくなくて、後者であるべきだという含意がある。

もちろん、これは〈知識人〉というものの苦悩である。文物であれ、文化であれ、それがどういったものなのか研究洞察した彼らからすれば、羽織袴に山高帽をかぶってステッキ、草履の姿が愚かしいと見えるだけである。「尻馬」が馬鹿らしいと見えるだけである。じつは問題はそこではなく、ごちゃごちゃ混在の景観のなかで、〈知識人〉だけが切り裂かれてしまうということだろう。正言も正論も、その意も役も果たさない。

むしろ、「尻馬に乗つて」流れ流れてゆく時流に沿わなければ、「生き埋め」になるしかない。中村光夫は「『移動』の時代」と云った。

明治12年にして既に成島柳北は「遊事ノ沿革」と題して記している。

然れども人情は日に奢靡(シャビ)に移り、往日の質素質朴なる風習は地を掃ひ、彼の霜晨(ソウシン)に筇(ツエ)を曳(ヒイ)て北郊の楓葉を賞し、月夜に飄(ヒョウ)を携て水西の梅花を訪ふ如き、雅致を好む人は全く無くなりて、歩は馬と変じ馬は舟と化し、舟は車に転じて其の趣きを問はず、唯だ其の便を図り、竟(ツヒ)に会主も賓客も歌妓の幇間(ホウカン)も皆急車を倩(ヤト)ひ、真一文字に駆け出でゝ、其の約する所の酒楼に赴き、高歌乱舞放飲流歠(リュウセツ)して而して已むに至れり、亦以て遊事の豹変するを観るに足る。*3

文明開化が、幕末以来渦巻いていた欲望のエネルギーを、〈天賦人権論〉から〈立身出世主義〉へと肯定したことは、夙に論じられているが、「ベルグソン」が言うように欲望は常に他人の欲望である。第三者によって喚起されたものしか人は欲望できない。

浅酌低吟を好んだ通人であった柳北には、文化の払底に映ったであろうが、誰のものでもない欲望を代謝させることで存続する資本主義を知らなかったわけではあるまい。江戸の文化に親しんだ柳北はその欲望を御することに美学を見出したが、田舎者の跳梁闊歩する、明治の東京にはその美学の居場所がなかっただけだ。

御されることも美学化されることもない欲望は、「皆急車を倩(ヤト)ひ、真一文字に駆け出でゝ」ゆく。

ながく〈知識人〉たちは、この苦悩を苦しみ悩むことが特権で栄耀であるとさえ思いみなした。しかし、知識も教養も持ち合わせの無い庶民、たとえば筆者のような者からすれば、そんな「苦悩」のほうが馬鹿馬鹿しい。

これに言及はおろか、さんざんに批判を加えたのは坂口安吾ばかりである。

ありもしない「国風」と「自己本位」に翻弄されることを嘲笑うかのように、『日本文化私論』の安吾は飄々と、「日本文化」をわたってゆく。「生活の必要」だけが信ずるに足る、というそれは思想である。文物や文化の偶像を破壊してゆく文体は小気味いい。

この軽々とした足取りは、「移動」でなにが悪い、という批判と言ってもよいだろう。

もともと回帰できる〈伝統〉など、どこにもありはしないのだ。

「移動」でなにが悪い、と書いたが、安吾は単純に欲望を肯定したのではない。さりとて、「苦悩」してみせたのでもない。ただ「移動」してゆくそのことを指摘して、取り出してみせたのだ。

男はタクシーという限定されたフォームの中に含まれている。タクシーは移動というその本来的な原則の中に含まれている。それは移動する。どこに行こうがどこに帰ろうが、どちらだっていいのだ。それは広大な壁に開いた暗い穴だ。それは入り口であり、出口である。*4

どこへでも行けるがどこへも行けない人間の様態はすでに近代のそのはじめから存在した。そういう定義づけしかできないのが近代的人間だとも言える。

柳北、透谷、漱石たちは、その空疎な有りようが、日本の特殊性にあると思っていたようだが、「タクシーに乗った男」はそれが世界資本主義というもののなかにおける普遍的存在であることを示唆している。

もちろん、普遍が良いことだなんて言っていない。そんな意味が含まれているように聞こえるかもしれないが、特殊から普遍へ道を拓いてなおも問題が問題のままであるとすれば、それはこの世の悲惨を意味するしかないだろう。

こんなことを考えながら「タクシーに乗った男」を再読してみると、また違ったことが書けそうな気もしてくるが、短く書くと冒頭で言ったように、ここまでにしておく。

 

 

 

*1:『明治文學全集29北村透谷集』より引用。旧字体改め。以下、同書より引用。

*2:岩波『漱石全集』第11巻より引用

*3:前田愛成島柳北』朝日評伝選より孫引き。本文片仮名を平仮名に改めた。

*4:村上春樹回転木馬のデッドヒート』新潮社より引用

井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』海上の道

万次郎の略歴

天保12年(1841)、土佐国幡多郡中の浜から出航した漁師伝蔵以下5名は遭難し、漂流すること12日。13日目に伊豆諸島鳥島に漂着。およそ5か月にわたって生きながらえ、米国の捕鯨船ジョン=ハウランド号に救われた。*1

5人のうち、いちばん若年で、かぞえで14歳であったのが万次郎である。同捕鯨船の船長であったホイットフィールドは、万次郎の才覚と胆力を愛で、ジョン=マンの名を与え、小学校教育を授けた。

嘉永3年(1850)、かの地で捕鯨船員ほかさまざまな経験を積んだ万次郎は帰国を果たす。23歳になっていた。このときの捕鯨の経験は万次郎に強い印象を残したらしい。

米船サラボイド号に便乗し、沖縄沖から小型艇で琉球摩文仁(まぶに)間切に上陸。その後、薩摩藩の取り調べを受けるが、藩主島津斉彬のはからいもあり、長崎を経て土佐に戻ることができた。

土佐藩山内容堂は万次郎に、その生地「中の浜」から「中浜」の姓を与え、土佐藩の教授官下遣に取り立てた。

賢公と称された両藩主である。当時しきりに海域に出没していた外国船と、海防の重要性を案じていたゆえのはからいであり、取り立てであったろう。土佐城下にあって万次郎は、岩崎弥太郎坂本龍馬に英学を授けている。

嘉永6年(1853)、浦賀にペリー艦隊があらわれる。万次郎はその英学を求められ、幕府に出仕。普請役格ニ十俵二人扶持、韮山代官江川英竜手付。旗本、幕臣となる。

時代が時代とはいえ、漁民の子が、幕藩体制のなかで出世した例としては異例である。

安政4年(1857)、幕府は江戸軍艦操練所の教授方に万次郎を任ずる。このとき、万次郎は捕鯨に関する建言を行い、鯨漁御用にも任ぜられる。しかし暴風に遭い、漁は失敗したらしい。英学者としては、西周大鳥圭介箕作麟祥ほか、おおくの者に英学を教えている。

翌万延元年(1860)、遣米使節を乗せた咸臨丸に同乗。通弁主任としてである。

元治元年(1864)薩摩藩開成所、慶応2年(1866)土佐藩開成所にて、それぞれ英学を講義した。また同年、幕府帆船一番丸の船長に任ぜられ、捕鯨漁に出る。

明治2年(1869)、新政府のもとで開成学校中博士となり、翌3年渡欧使節にくわわるが欠病により中途で一団を離れ、米国経由で帰国。このときかつての恩人ホイットフィールドに再会。万次郎は42歳になっていた。

帰国後は、療養生活を送り、明治31年11月12日、東京京橋弓町に没した。享年72歳。

ジョン=マン

福地桜痴は晩年往昔をかえりみて『懐往事談』を明治27年に発行しているが、安政6年(1859)森山多吉郎から英語を学んだことを記している。

此時に際し江戸にて英語を解し英書を読たる人は、此森山先生と中浜万次郎氏との両人のみなりければ、余は此先生に就て学びたるなり。既に福沢諭吉氏も先生の宅に来りて益を請ひたる事などもあり*2

柳田泉によれば、当時横浜開港のことがあり、森山多吉郎は多忙をきわめていたため、実際には森山と万次郎の塾それぞれで隔日の講義を受けたらしい。*3なお、「益を請う」は「請益」。禅語で、不明を問うて一層の教えを請うこと。

なんの引用かというと、万次郎は、「中浜」万次郎と呼ばれたものだという確認である。こんにち膾炙したジョン万次郎という通称は、井伏鱒二の創作になる。米国でジョン=マンと呼ばれた名前と、中浜万次郎という士族の名前を、それぞれふたつに切って貼り付けた不思議な呼称なのである。

また、冒頭に記した略歴のとおり、万次郎が歴史に果たした役目は、帰国後の英学者としての役割であって、数奇な漂流をした体験者としてのそれではない。

しかし『ジョン万次郎漂流記』は、作品名がしめすように、故郷を離れた「漂流」に紙幅が大きく割かれている。それはそれで運命に翻弄されながら大成する人物譚、記録物語にも読めるのだが、記録文学としての意図は希薄である。

たとえば、万次郎たちが鳥島で救助される描写に、井伏はこう書く。

びっくりした伝蔵がその手を払いのけ逃げ出そうとしていると、そこへ色の白い異人が割り込んで来て、手真似で伝蔵に云った。次のように云っているのだろうと伝蔵は解釈した。

――騒ぐな騒ぐな。拙者等は其方の一身に害を加えるものではない。しかも其方の朋輩三人は、すでにわれ等の船に助けてある。騒ぐな騒ぐな。四海みな同胞である。

色の白い異人はにこにこ笑っていた。*4

なんともとぼけたユーモラスな書きぶりで、井伏鱒二らしいと思われるが、文体については後で述べるとして、字義の穿鑿めいたことをしてみる。

四海みな同胞

「四海」とは四方の海、世界の謂いだが、大和言葉、和歌のことばでは、「よもの海」という。また「同胞」は「はらから」。明治37年明治天皇御製に

よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

四方の海の皆同胞と思うこの世に、どうして波風が立ち騒ぐのであろうか 

がある。ひどく有名な歌である。

こまかいことを言い出せばきりがないので、簡単に言うと、日露戦争開戦にあたって詠まれた歌で、なかば伝説ながら、平和を希求した天皇の歌ということになっている。

また、太平洋戦争にさいして昭和天皇昭和16年(1941)9月6日の御前会議で、祖父帝のこの歌とその心事を引用したとされているのだが、ほんとうかどうか。

しばしば参考にしているドナルド・キーンの『明治天皇』を読み返してみたが、この歌は出てこない。見落としかもしれないから、うっかりしたことは言えないのだが、キーンが敢えてこの歌を避けた可能性はある。とくに、太平洋戦争に関しては、開戦詔勅に、

今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に已むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。

これが戦後、戦争は天皇の本意ではないという、論拠を与えた。

もちろん『ジョン万次郎漂流記』は昭和12年刊行だから、まだ太平洋戦争ははじまっていないわけだが、〈五族協和〉〈八紘一宇〉という15年戦争のスローガンは、玄洋社黒龍会といった民族主義の団体が掲げたアジア主義から通底していたものである。

近衛内閣がだしぬけに言い出したように見えるかもしれないが、既に流布されていたスローガンを剽窃したと考えたほうがいいだろう。

そして、逆説的に聞こえるかもしれないが、戦時下こそ、多様性と平和が謳われるのである。

井伏鱒二の文体

ともあれ、ずいぶんと有名であった御製から太平洋戦争のスローガンまでが、「四海みな同胞」という日本語の後ろに控えている。

『ジョン万次郎漂流記』自体が、一見すれば「四海みな同胞」をテーマにした記録文学に読める。日米友好、平和と交流のかけ橋としての文学に読める。

しかし、先の引用部分は、伝蔵の「解釈」と断りながら、「色の白い異人」が言ったことなのである。

理屈を言うようだが、果たして「手真似」だけでこれほど意が通ずるものか。

ユーモア、洒落、あるいは小説の創作がわからぬ奴だと謗られそうだが、まがりなりにも年号や固有名詞という記録文学の体裁を備えた小説が、ユーモアや洒落で通るものだろうか。

井伏鱒二の文体は、一見ユーモアに見える。そしてそれも理屈を言い出せば叙述そのものが消え去ってしまう、そういう性質がある。

内面を吐露する、心情を仮託する、そういう内面や心情を跡形もなく消したところに文体が成立している。そこには、内面の事実や心情の真実と一般に呼ばれているもの、そう信じられているものへの不信というよりは不可能性がある。文体は、そうしたものからの距離をあらわしている。

よって、読者が文体をながめてユーモアだと読んでいるところから、その対象である事実や真実に近づこうとすると、文体を過ぎ越して、叙述は壊れて消えてしまう。

読者がやむなく文体にとどまれば、可笑し気な、滑稽なことを言っている、あるいは坦々とした叙述のようにしか見えない。

これは例えば『黒い雨』に顕著である。記録文学として名高いが、原爆罹災者の手記『重松日記』からの乖離と虚構は発表当時からあった。体験者が体験談を包み隠さす語る、という、小説的あまりに小説的な虚構をこそ突いた作品なのは、言うまでもない。

どれほど悲惨な目に遭おうと、たとえそれが被爆体験であったとしても、それが真実や事実をなすとは限らない、むしろ、新たな虚構を生み出してしまう、というのが井伏鱒二の文学観であり、その文体とみるべきだ。

この文体と対象との距離は、ややもすると自己の優越性、作家の特権性に陥る。そのために、作家は最低の位置にいなければならない。そして、自己表現や自己表出という近代文学の特徴を断念しなければならない。「内面や心情」が「跡形もなく消」えているのは、禁欲というより、断念、なのである。

この作家がデヴュー作に、岩に閉じ込められた『山椒魚』とその断念を描いたことを想い出してみてもいいだろう。

海上の道

『ジョン万次郎漂流記』はくりかえしになるが昭和12年刊行。文庫本の河盛好蔵による解説では9月。手元の『日本近代文学年表』では11月になっているが、さて、どちらだろう。

ともあれ、同年3月は盧溝橋事件、日中戦争昭和6年(1931)に日本は国際連盟を脱退し、ワシントン体制は崩壊。日米関係は悪化の一途を辿っていた。

こうした歴史的文脈からすれば、かつて在りし日米友好の記録『ジョン万次郎漂流記』と、どうしても読みたくなるのだが、もうすこし見てみよう。

この作品は、前半が「漂流」と万次郎一同のアメリカでの暮らし、後半が帰国後、幕府の英学者としての活躍に分けられる。前半が小説的描写に拠るのに対し、後半は歴史資料からの引用に拠っている。

小説の構造からいえば、万次郎の視点が描写の人称をになっているから、万次郎の成長とともに彼が歴史のなかに入っていくその過程を表現していると、一応は説明できる。

しかし、万次郎は鳥島捕鯨船ジョン=ハウランド号に「発見」されなければ、かの島で朽ちていたはずだ。あるいは救助されアメリカに渡ったとしても彼に見いだされる才能がなければこれもまたかの地で埋もれたはずだ。

吉村昭に『漂流』という小説があるけれど、八丈島、伊豆諸島、小笠原諸島へと広がる太平洋の群島と孤島は、ながく「漂流」の歴史をつづってきた。「漂流」は太平洋の歴史であったと言ってもいい。万次郎一同の背後には、あまたの漂流者たちが揺曳しているのである。

バスコ・ヌニュス・デ・バルボアが太平洋を〈発見〉したとは前に書いたが、それは言うまでもなく、西洋中心史観の幻想である。そんな〈発見〉よりはるか昔から、無名で、無名のまま漂流し、無名のまま死に、あるいは往来さえした者たちがあったはずなのだ。

マゼランが艦隊で太平洋を渡ってみせたことや、イエルダールがコン・ティキ号に乗ってその往来を実証しようとしたことは、歴史的偉業に属するかもしれないが、彼らは歴史に名を残すという、たっぷりお釣りの来る、有名のひとびとである。

万次郎たちは、「鱸を釣る目的」で漁に出たのである。偉業のため、有名のためではない。生活、そのためだ。遭難する危険を負ってでもそこで生きてゆかなければならない、そういう「生活」である。

こうした無名の歴史に注目したのは戦後の柳田國男である。

万次郎一行をして「漂流」せしめた暴風雨とその潮流は、同時にながくながく海に生活するひとびとを殺しも生かしもしてきたものだ。

これを柳田は「海上の道」と称した。

ちなみに、「名も知らぬ遠き島より」で知られる藤村の『椰子の実』に材料となる話をしたのは、柳田國男だそうである。

今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまわって、東おもての小松原の外に、船の出入りにはあまり使われない四五街ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実が流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。*5

もちろん、日本人と日本語の起源としての北進説は「南島イデオロギー*6などとも称され、考古学や歴史学あるいはDNAの研究の進化により、今ではまったく否定されているものだが、敗戦後、これを唱える必然が、柳田國男にはあったはずだ。

もとより、柳田の『海上の道』は、大陸南部の稲作農民が琉球に渡り、黒潮に乗って、つまりその「海上の道」を通って日本列島に到達した、というものだ。

柳田の興味と関心は、「生活」のために海を往来した無名のひとびとと、その歴史への憧憬にある。

そこには戦争も平和もない。

「生活」があるだけだ。

ジョン万次郎

小説前半において井伏が書いたのは、この、無名の生活者としての万次郎である。

そして「四海みな同胞」は、一見、戦争と平和をめぐる「御製」の言葉に見せて、じつはそんなものとは関係のない、海上の道にずっと続いていた〈歴史〉なのである。

だから、伝蔵が云ったようにも読めるし、「色の白い異人」が言ったようにも読めるように書いてある。彼ら海上の道に生き暮らした者たちからすれば、誰に教えられるでもない、当然の理であったに違いない。

そのせいで、理屈を言うと、可笑しな感じがする。

この可笑しな感じは、今読むとユーモアを感じさせるが、作品発表当時の言論統制を考えれば、これくらい巧妙なレトリックは必要であったろう。だから、当時もユーモアと読まれたはずだ。こういうことをさせれば井伏は、名人、であった。

そして先にも述べた、対象への距離は、ユーモアとして表出されているが、心情や内面を吐露しないそれは、そんなものに拘泥していては生きてゆけない生活者の文体として生かされている。

戦争に協賛してよろこんだり、反対して眉をひそめたり、他人や国家のおもわくに、いともたやすく翻弄されてしまうなら、それは「生活」ではない。その昔、向田邦子は、戦時中でも女学生は箸が転げても笑ったと書いていたが、それは、それが「生活」だったからだ。

くどいようだが、ひとは、いちいち国民や非国民になる必要など、ありはしない。

寅右衛門はジョン万の顔を見ると大いに驚いて、

「おお、万次郎ぬし!」

と云ったかと思うと次は亜米利加語で、

「なんという珍しいことか、これは珍しい再会である。お前はこの地にいつ来たか?」と云った。

ジョン万も、

「おお、寅ぬし」

と云った*7

懐かしき友と再会できたら、ひとは喜べばいいのである。朋、遠方より来たるあり、また喜ばしからずや。

後半部に入ると、つまり万次郎が、有名で、日本に有用の人物となると、ユーモアは鳴りを潜め、坦々と歴史的事実の引用がはじまる。

幕府や藩に仕えながら、万次郎の望みは捕鯨船に乗ることであったことは略歴に書いた。その建言を何度も行っているし、実際にその船を仕立てもしたのだが、幕末維新の大変動期は、万次郎にそれを許す余裕はなかった。

明治五年、再び病いを発し、以来幽居して専らその志を養った。ただ一つ思い出すだに胸の高鳴る願望は、捕鯨船を仕立て遠洋に乗り出して鯨を追いまわすことであった。それは万次郎の見果てぬ夢であった。*8

運命は、万次郎を歴史に棲む中浜万次郎に仕立てたが、見果てぬ夢はジョン=マンとしてその追憶をかけ廻っていた。言うまでもないことかもしれないが、この、切り裂かれた思いと思いのつぎはぎを、井伏は哀惜をもって「ジョン万次郎」と記したのである。

 

*1:以下、『日本近現代人名辞典』吉川弘文館を参考

*2:『明治文學全集11 福地桜痴集』筑摩書房より引用。旧字体改む。

*3:柳田泉人物叢書 福地桜痴吉川弘文館を参考

*4:井伏鱒二『さざなみ軍記 ジョン万次郎漂流記』新潮文庫より引用

*5:柳田國男海上の道』岩波文庫より引用

*6:村井紀『南島イデオロギーの発生―柳田國男植民地主義―』岩波現代文庫

*7:井伏鱒二『さざなみ軍記 ジョン万次郎漂流記』新潮文庫より引用

*8:井伏鱒二『さざなみ軍記 ジョン万次郎漂流記』新潮文庫より引用

ディドロ、ダランベール『百科全書』明六社の解散

前回の最後に、福沢諭吉の「苦渋」と書いた。

ジャーナリストで思想家で教育者で、さまざまな肩書をもつ福沢だが、本業は学校経営者である。

念頭に、緒方洪庵とその適塾があったことは『福翁自伝』からもうかがいしれる。幕末、官軍東征の際ですら、一日も慶應義塾を休むことはなかったという逸話は、門下生の名誉であり、福沢の本懐であったろう。

福沢が私学にこだわったのは、「学問」が国家や権力の圧力によって歪曲されてはならず、「自由」でなければならないという自身の思想による。よって、慶應義塾が三田に私学として在り続けることは思想の実践であった。

そしてその実践のなかで〈経営〉ほど実践的なものはないだろう。

清談や理想ばかりでは口が干上がる。清濁併せ吞む、その濁りが濃くなれば人にものを言う資格がなくなる。

狡猾であってはならないが、巧妙さを持たなければ寧日ない。

福沢の平俗平明な文体は、ジャーナリステックな側面からみれば、大向こうに受ける文体だ。いっぽうでもちろん、民衆教化として啓蒙的な側面も兼ね備えている。

また、非官学を標榜していた福沢が、明六社に参加したのも、一面には宣伝の意味合いもあったろう。そうでなくては前回、人物紹介で書いたように、軒並み官学系の学者がそろった中に、福沢が加わる道理がない。

森有礼西村茂樹とともに、明六社の社長に福沢を推したが、福沢はこれを断っている。しかし、社の会幹にはなっている。そして門下数名を会員として明六社に送っている。演説会に限っても、当時、三田と明六社ともに盛況で、言葉はわるいが二股をうまく架けた格好であった。

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前に人物紹介を書いたが、ご覧いただくとわかるように、明確に〈民間〉の立場をとっているのは福沢諭吉だけである。

森有礼の発案で、あたかも在野のアカデミックな集まりを標榜した明六社だが、じっさいは加藤弘之はじめ新政府に地位を占める技術官僚たちであった。

このことは、彼らが多く元幕臣で、昌平黌や開成所にたずさわった者が多いことも関係している。研究者であることと、それが国家に寄与することは福沢と同じだが、もともとが為政者に近侍してそれを支えた経験は、明治になっても、大きく変化しなかったのであろう。

明治6年に発足した明六社は、翌7年『明六雑誌』を刊行し、さらに翌8年9月には雑誌廃刊が提言され、この年の秋には活動を停止している。*1

明治8年は、有司専制政府による矛盾が激化したころである。

板垣退助後藤象二郎とともに民選議員設立の建白書を出し、かたや江藤新平佐賀の乱に敗死している。また地租改正公布(明治5)による混乱も拡大している。

こうした中で、森有礼

時の政治に関わって論ずるようなことは、本来の明六社創設の主意ではない

時ノ政事ニ係ハリテ論スルカ如キハ本来吾社開会ノ主意ニ非ス(『明六雑誌』第30号)

と表明する。学術の政治からの独立という至極当然な「主意」である。

しかし、同じ明治8年6月28日、「讒謗律」および「新聞紙条例」が公布され厳しい取り締まりが始まっていた。言うまでもなく、民間雑誌・新聞の弾圧が目的である。

明六社同人たちも、それぞれの立場をはっきりさせなければならない時に至っていた。

同年9月1日の例会で、箕作秋坪から『明六雑誌』停刊が述べられる。森有礼は大いに反対するが、福沢諭吉は一歩進めて、廃刊を提案する。

理由はひとつではないが、まず民選議員設立をめぐって加藤弘之をはじめ政府擁護にまわったこと、また啓蒙活動としての役目を終えたという判断があったようだ。蒙昧な民衆から議員を選ぶことなどできないという時期尚早論を加藤たちは唱えた。

福沢はこの決議にさいして、「明六雑誌ノ出版ヲ止ルノ議案」を読み上げている。

第一に社員の本来の思想をにわかに改革して、変節して法律に合わせ、政府に迎合して雑誌を出版するか。第二に、讒謗律や新聞紙条例に違反してでも自由自在に筆をふるって政府の罪人となるか。道は二つしかない。

第一社員本来の思想を俄に改革し、節を屈して律令に適し、政府の思う所を迎へて雑誌を出版する歟、第二制律を犯し条令に触れ自由自在に筆を揮て政府の罪人と為る歟、唯此二箇条あるのみ

どちらも選べないなら廃刊するしかない、というのが福沢の意見であった。

西周津田真道、あと森有礼は反対したが、当日欠席の西村茂樹加藤弘之中村正直は後日福沢の提案に賛成し、事実上の明六社解散が決まる。じっさいには解散ではなく無期の停止であったようだ。

なにごとでも全盛期に止めるということは難しいから、一般論的にいえば、優れた判断だったのかもしれない。

なお、明六社という民間の学会サークルは、明治12年創設の官立の東京学士院に吸収される。ときの文部省が主導したものだ。

もちろん、その間短いとはいえ、例会や演説会、および雑誌の刊行によって、政治経済はもとより法律・外交・財政を論じ、社会・哲学を説き、女性の権利や教育、また宗教、歴史、科学あるいは国字問題や出版に関するあれこれを国民にむけて啓蒙した。

明六社の役割は大きかった。

見方によっては「文明開化」とは彼らの活動によって国民の前にあらわれたものだと言ってもいい。

また、ディドロダランベールの『百科全書』を意識したものかどうかは分からないが、内容多岐にわたり、その繚乱といってもいいほどの話柄の豊富さは、「百科全書」的である。

こころならずもフランス革命への理論から技術的な道を拓いてしまった『百科全書』の啓蒙ぶりに、似ていないこともない。*2

知識人が啓蒙を目指すいっぽうで、民衆がほんとうに目覚めることは望んでいないという二律背反が明治初年にしてすでに兆しているのである。

ちなみに官立の東京学士院へ、いち早く推薦されたのは福沢諭吉である。そしてその請いを受け、会員になっている。もちろん、変節ではなく、社会と政治から孤立して三田の義塾を保つことなど、できないからだ。

福沢諭吉の思想は、体系的に読み解くより、こういう「実践」に本領があるのではないか。とりわけ難しいことなんかわからない筆者には、それがひどく魅力的に映るのである。

 

司馬遼太郎『歳月』小説みたいな感想

言わずと知れた江藤新平伝である。

いぜん筆者は、司馬遼太郎は時代小説家ではあるが歴史小説家ではないと書いた。

いまさら改める気はないものの、『歳月』は歴史小説に読める。

剣劇のたぐいが入ってしまうのは時代小説のお約束だから、言うだけ野暮だ。

もちろん読者を思ってのこと。歴史の人名と固有名、それから年号だけ並べた論評なんて誰も読まないし、読んでられない。自戒? 反省なんぞしません。書きたいように書く。

逆にいうと、人名・固有名と年号という材料からよくぞここまで話を広げたものである。

何を材料にしたのか知らないから司馬遼太郎の想像力に感心するしかないが、明治時代というのは、出版と流通の変革があった時代である。とりわけて新聞の登場は、目のまえの幕末維新を〈事実〉として書き込んだから、今思うよりはるかに資料が残っていたのだろう。

そしてその資料は、〈事実〉という名の、噂・ゴシップ・人物評が非常に多く、小説にするにはうってつけなのである。前にも書いたが、明治は〈人物評〉の時代でもある。

ということは、当時ですでに一次資料から二次以下の資料・言説への再生産が行われていたと推測されてしかるべきだ。なかば説話とさえいえよう。

たとえば、司法卿になった江藤新平の人となりを記したものに、山路愛山『現代金権史』(明治40)*1がある。面白いのでそのまま引用する。

その頃の司法省は今(明治末年ころ)の司法省に大審院(裁判権)と警視庁(警察権)を兼ねたようなもので、仮にその委ねられた権限を極度に利用したら政府の全体を動かすことができたものだったらしい。それでこの司法省の長官は薩長の勢力を憎み、これを打倒するのを生涯の目的にしたのが江藤新平である。故副島種臣の説によれば、江藤という人は一種面白い人で、ちょっと見れば鈍いようだが、一旦成し遂げると決めたことは必ず貫徹させなければ止まらない人だ。

其頃の司法省は今の司法省に大審院と警視庁とを兼ねしが如きものにて若し其委任の権利を極度に使用したらば政府の全体を動かし得べきものなりき。然るに此省の長官は薩長氏の勢力を悪(にく)み、之を倒すを以て生涯唯一の目的としたる江藤新平なり。故副島伯(筆者註・副島種臣)の説に江藤は一種面白き人にて、一寸(ちょっと)見れば鈍きように見ゆれども一旦為すべしと決したることは必ず貫徹せざれば止まざる人なり。

「金権史」として山城屋事件の顛末と述べているのだが、一見愚なるが如しとは司馬遼太郎も描くところだ。そのかわり小説だから、江藤のなかに「理屈屋」が棲んでいて、読者に向かって縷々しゃべる。もちろん、しゃべっているのは司馬遼太郎である。

ただ、基本的に、歴史という日本人のものがたり、に登場する江藤新平は、大西郷の引き立て役で、小物、である。

いくつもの〈不平士族の反乱〉は、幕引きに大西郷が非業の死を遂げたから、歴史にその名をとどめたものであろう。

話がそれるが、死した西郷が星になったという伝説は明治10年ですでにあったらしく、『東京絵入新聞』が報じている。曰く、深夜二時ころ辰巳の方角に赫色の星を望遠鏡で見ると、陸軍大将の官服に身をつつんだ西郷隆盛が見えるというものだ。

他にも〈西郷物〉を描いた錦絵は、現在確認されているだけで500点ほどが残されているらしい。

このへんの消息は、また別の機会に譲るとして、新聞の〈事実〉がフィクションを生み出してゆく機微が伺われる。

たとえば福沢諭吉西南戦争直後に『丁丑公論』をあらわし西郷を擁護した。そして西郷自決の因を、「江藤前原の前轍を見て死を決したるや必せり」と記している。

裁判もなく殺された江藤と、萩の乱における前原一誠を引き合いに、「梟首」という幕府時代ですらない極刑に、有司専制政府の前近代性を批判した。けれども、江藤への言及はない。

三宅雪嶺もしばしば江藤をたとえに引いている。

『哲学涓滴』(明治22)のなかで、「萩の前原佐賀の江藤が胆力に富むに拘らず、刑に臨み惨々として落涙せしは何に由るか」と書いている。その後段出てくる「大西郷」に比して思惟の境涯の違いを述べるためのものだが、一種の常套句として慣用的に用いられたことをうかがわせる。

『想痕』(大正4年)には

明治年間に最も悪名を負いしは、老西郷及び江藤にして、如何に悪名を負いしかは、当時の新聞に賊魁逆賊等の語の頻りに散見せしに徴して察すべし。*2

この文章の文脈は、「老西郷」に深く同情を寄せ、いっぽうで当時の顕官を批判する、という福沢諭吉の論旨と同じで、時間があれば当時の新聞を「散見」してみると面白いかもしれない。

いっぽう『歳月』では、小説であるゆえ、大久保利通がことさらに悪人に仕立てられている。当時の、薩長による有司専制政府は日本にとっての与件である。いいか、わるいか、ではない。

福沢は政治家ではないから批判できたが、その代わり、民間学者としての苦渋をなめた。筆者が思うのは、「梟首」のごとき野蛮を背負って近代の坂を上らなければならなかった大久保の心境である。江藤を殺し、西郷をも殺した明治11年。紀尾井坂で5月14日、大久保自身も暗殺される。死屍累々。

時代小説に反対したくせに、小説みたいな感想だ。

人が死にすぎると、こんな感想も吐きたくなるのだ。

 

*1:明治文學全集35『山路愛山集』筑摩書房より引用。

*2:明治文學全集33『三宅雪嶺集』筑摩書房より引用。

大久保利謙『明六社』読み物ふうの人物紹介

明六社

明治6年にできたから明六社という。

横文字の専門家のあつまりだからと言って、妙な片仮名を使わなかったのはよかった。

この明六社が出版した雑誌を『明六雑誌』という。

「社」が「雑誌」を「出版」する草分けである。旧四六判という小冊子の体裁も、新しかった。明六社じたいが西洋の学会に倣ったものだから、会誌もそれに準じた大きさなのである。

後続の雑誌はみなその新しさを真似した。

だから、明治の10年くらいまでの雑誌はこの旧四六判が多い。今の新書サイズより一回りほど大きいものになる。

また、明六社は、主宰した「演説会」で知られる。日本における講演会、演説会の、これも事はじめである。その初めの初めは福沢諭吉である。“speech”を「演説」と訳してじっさいやって見せたのが福沢らしい。

明治6年からおよそ2年あまりで解散してしまったから、有名なわりに今では殆ど注目されない。また、今でいう総合誌にちかい内容さえ含むので、ジャンル分けが難しい。

けれども、この明六社が発した文章や演説は、物議をかもす一方で、若い明治人たちに多大な影響を与えた。

よく知られたところでは植木枝盛

彼が明六の演説会と、福沢諭吉の主宰した三田の両方に足しげく通ったことは、枝盛自身が日記に残している。語学のできなかった枝盛にとっては、明六社の専門家たちの〈翻訳〉を通じて得る知識が〈西洋〉であり、その自由民権思想になっていったのである。

洋学派のひとびと

明六社の主要なメンバーは、

森有礼(もりありのり)27歳

西村茂樹(にしむらしげき)46歳

西周(にしあまね)45歳

津田真道(つだまさみち)46歳

中村正直(なかむらまさなお)42歳

福沢諭吉(ふくざわゆきち)40歳

加藤弘之(かとうひろゆき)38歳

杉享二(すぎこうじ)46歳

箕作秋坪(みつくりしゅうへい)49歳

箕作麟祥(みつくりりんしょう)28歳

当代きっての著名な学者ばかりが集まり、学術研究とその啓蒙を担った結社が明六社なのである。

森有礼

一番若いのが森有礼

薩摩藩士で幕末元治2年(1865)に英国に留学した。攘夷盛んな折から沢井鉄馬の変名を用いたらしい。明治になって一旦帰国するも米国在勤小弁務使に任じられて渡米、また帰国。この二度目の帰国のさいに、西洋の学会方式を日本でも試みようという提案を、西村茂樹にしたのが明六社の発端である。

それというのも、特にアメリカでは、知識人エリートはその知識を一般のひとびとに還元するものであったからで、*1森はこれに触発されたものらしい。

のちの初代文部大臣。

西村茂樹

西村茂樹は江戸の佐倉藩邸に生まれる。佐久間象山に兵法、砲術を習い、安政年間には佐倉藩主で老中の堀田正睦を扶けた。のちに修身道徳の普及につとめる西村は、森の提案する啓蒙活動というところに惹かれたようだ。理想家肌で、加藤弘之津田真道とは対照的な人物。考え方は中村正直に近い。

ながらく日本を離れていた森は、誰に相談したものか悩んだ結果、当時、長老格で、この理想主義的な西村に相談したのであろう。取り持ったのは木戸孝允とされる。

西周

この西村茂樹のひとつ年下になるのが、西周だ。

津和野藩亀井家に仕えたのが西家の生まれである。

朱子学から荻生徂徠の徂徠学を修め、のちにオランダ語を学ぶ。さらにジョン万次郎こと中浜万次郎から英語を学び、慶応の幕府留学生となってオランダはライデン市立大学で、自然法、万国公法、国法、経済学、統計学を修める。

帰国後、幕臣となり、大政奉還のさいには徳川慶喜の帷幄にくわわる。

明治になり3年、東京府から請われ、兵部省に出仕。「哲学」はじめ、日本語として定着した翻訳語が多いことでも知られる。

津田真道

西周と同じ津和野藩の生まれ。江戸で同郷の箕作阮甫について蘭学を修め、佐久間象山平田篤胤に学び、伊藤玄朴の門下になる。慶応の幕府留学生としては西周の同輩。

帰国後、開成所教授となり、明治2年には、新政府の権判事となる。

中村正直

江戸麻丹波谷の生まれ。二条城交番同心の子。

昌平黌で佐藤一斎に学び、幕府の英国留学生として渡英。大政奉還に帰国して、明治3年。スマイルスの『自助論』や、J・S・ミルの『自由論』の翻訳を行い、『西国立志編』を刊行。『学問のすゝめ』とともに明治初年のベストセラーとなる。

明六社に参加したころ、メソジスト派の洗礼を受けている。

当時は大蔵省翻訳御用をつとめていた。

福沢諭吉

さきに演説のはじめ、と書いたが、当時、演説会で有名であったのは、明六社のそれと、慶應義塾のあった三田の演説会であった。『学問のすゝめ』の売れ行きと、三田演説会の盛況で、当時も今もいちばん名の知れた参加者である。

加藤弘之

東大の初代総理。

但馬国出石藩士の子。江戸ではじめ甲州流兵学をおさめ、その後蕃書調所につとめる傍ら、法学、哲学を学ぶ。ドイツ語を学んだことでも知られる。政治学の大家。

官軍が江戸を攻めるというとき、江戸城中で忠義に燃えて悲憤慷慨していたのが加藤である。同じく城中にいた福沢諭吉が、戦になりそうなら「ドウゾそれを知らしてくれ給え」「即刻逃げ」るからと答えて、加藤を憤慨させたという話が『福翁自伝』に出てくる。

前にも書いたが「非人穢多御廃止之儀」を建議したのも加藤弘之である。

しかし、権威主義的なところがあり、官学アカデミズムは加藤から始まると言ってもいい。

民選議員建白書をめぐっては、保守化して、植木枝盛や馬場辰猪と論争になる。馬場辰猪は福沢諭吉の門下生。

杉享二

日本の統計学の開祖。長崎の生まれ。

福沢諭吉と同じ緒方洪庵の弟子。適塾に学ぶ。福沢とは同期ではない。同期は大村益次郎

勝海舟の塾頭をつとめたあと、才幹を認められて時の老中阿部正弘に仕える。

蕃書調所、開成所につとめた。このころ統計学に興味を覚えたようで、明治の幕臣静岡移住のさいは沼津と原の人別統計をとっている。

新政府に出仕してからは、正院政表課長として統計事務を統括。

今につづく人口調査などは杉の建言による。

箕作秋坪

津和野藩の生まれ。父は津和野藩、預所学校学監、菊池文理の子。

津田真道同様に、箕作阮甫に学び、のち適塾に移る。阮甫の次女つねと結婚し、箕作を名乗るようになる。

物理の入門書『格物問答』の翻訳で知られる。文久の遣欧使節団に随行幕臣となる。慶応2年の樺太境界交渉では訪露もしている。

明治には私塾を営み、門人育成につとめた。

箕作麟祥

箕作阮甫には孫にあたる。

外では安積艮斎に漢学を学び、家では蘭学、英語を修める。さらにフランス語も、これは速習であったようだが学び、徳川昭武のパリ博覧会使節随行

明治政府につかえ、大学中博士となる。家塾も営み、門下に大井憲太郎、中江兆民を教えた。ナポレオン法典翻訳で江藤新平に大いに困らされたことは、すでに書いた。

ナポレオン法典から「ドロア=シビル」を「民権」と訳したのは箕作麟祥である。人権思想に関しては大井憲太郎の師にあたる。

さて、今回は人物紹介だけである。昔の小説は見返しなどに必ず登場人物紹介がついていた。それを真似してみた。読んでも迷子になりにくかろう。

それにしても面白いのは、思想も性向もばらばらの面子であることだ。

もと幕臣が多いのは、最高学府が昌平黌や開成所という幕府の施設に独占されていたからである。もちろん、明治以降だって東大以下が独占するのだから同じことだ。

そして新政府に出仕した者もあれば、福沢のように断固として断った者もある。

明六社解散後、めいめいそれぞれの道をゆくに至ることを思えば、期間限定の、知識人オールスターみたいな、そんなところのある明六社であり『明六雑誌』なのである。

次回は、そんなことを書く。

なお、人物来歴の記述は、大久保利謙の著作のほか、吉川弘文館『日本近代人名辞典』を参考にした。

 

*1:森本あんりの著作に詳しい