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戸田欽堂『情海波瀾』はじまりの政治小説

『情海波瀾』は戸田欽堂の政治小説

タイトルに「はじまり」とつけたのは明治文学の研究者柳田泉がそう言っているからで、筆者に定見があるわけではない。へりくつを言えば、一番とか嚆矢とか白眉とか、芸術や文学はすぐに決めつけたがるから、そう、ムキになるものでもあるまい、というくらいのつもりである。

さて、一般には「政治小説」と云った場合、明治8年民選議員設立の建白から全国に拡大過熱していった自由民権運動とその思想を扱った小説のことを指す。政治的な宣伝、プロパガンダ、あるいは民権思想の啓蒙を目的とした。それは平易な言葉づかいと文体に見て取れる。

もちろん、この「平易」は、福沢諭吉をはじめとした啓蒙家たちが拓いた「平易」である。しかし、民選議員設立をめぐっては、活動家たちを批判するがわに明六社同人はまわったわけだから、皮肉といえば皮肉である。

あらすじ

本作のあらすじは、いたって簡単である。

まず、登場人物は「魁屋阿権(さきがけやおけん)」「和国屋民次(わこくやみんじ)」「国府正文(こくふまさふみ)」。

名前が典型を表している。「阿権」は芸者で「権利」のこと。「民次」は「日本の民衆」、「国府」は「国家の政府」。「民次」と「国府」が「阿権」をめぐって争い、「国府」がゆずるかたちで「民次」が「阿権」と「夫婦」になる、というものである。

作品の「情海」は「政海」の謂い。これは言うまでもないことかもしれない。

今からみれば、素朴なアレゴリー小説とでも言えるだろうか。

しかし『明治政治小説集(一)』を見ただけだが、なかなか面白そうな点がいくつかある。

成島柳北

まず冒頭に「柳北拝」として本作が脱稿してまず成島柳北校閲を請うたことが記されている。柳北は「多事病懶ノ故」をもってこれを辞したが、いくらかのアドバイスはしたらしい。

当時すでに「天地間無用の人」と称しながら、『朝野新聞』で社長として筆を振るい、讒謗律による検挙にも屈しなかった柳北は、文壇の大家になっていた。没年は明治17年なので、欽堂が校閲を請うたときは柳北の最晩年となる。

「梅暦東京新誌ト何ゾ擇バン」という三輪信次郎による序文に見えるように、花柳を舞台に、ひるがえって時事政治を諷する手法は『柳橋新誌』が能くした手法である。柳北が示したささやかな好意は、じしんの後継への好意と見える。

しかし、いっぽうで、『柳橋新誌』が備えていた言語修辞の多義性、ひとつの詞で幾重にも意味の広がる表現は受け継がれず、一語に一意が対応する「平易」な文体になっている。柳北の好意は「ささやかな」ものにならざるをえなかっただろう。

これは先に述べたように明六社、とくに福沢諭吉の影響である。なにしろ「第二齣」には「福沢氏曾て宗吾ヲ評シテ曰ルアリ」と出てくる。この「第二齣」は劇中劇になっていて、「佐倉宗五郎ノ劇演ジ、恰モ帰郷決別(コハカレ)ノ一段(ヒトクダリ)」の芝居を、「阿権」と「民次」が「遊覧」しているという構造をとっている。

福沢諭吉

『学問のすゝめ』第七篇は、「義民」としての「宗五郎」を取り上げている。「国民の職分を論ず」というテーマで、「国法」に従い、その範囲のなかでルールにのっとって、争議や議論があるべきだということを論じている。法をやぶった時点で、赤穂浪士の仇討ちも罪であり、主人の金を無くした権助が死ぬのと「軽重」はないとさえ言っている。

「権義」と「正理」を主張して「世界中に対して恥することなかるべき者は、古来ただ佐倉宗五郎あるのみ」という有名な一説は、のちに福沢をいわゆる長沼事件に導く。

もちろん、福沢が、明治維新という回天の根源に、民衆の世直しへの希求という破壊的エネルギーを見ていたことは言うまでもない。このエネルギーを矯めるための「国民の職分」である。

孟子の説いたような易姓革命、たとえば吉田松陰の『講孟余話』に見える革命理論は、討幕にこそ役立ったが、国家草創の期にあっては危険思想でしかない。「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」(『古文孝経』序文)という、福沢が罵言をあびせた儒学のかんがえに近いことを言わざるをえないところまで、民権運動は福沢を押し込んでいったとも考えられる。

佐倉宗五郎

ところで、とここで筆者は不安になったので、「佐倉宗五郎」について記す。

佐倉惣五郎下総国佐倉のひと。年貢の減免を将軍に直訴して訴えは入れられるものの、直訴をした罪によって処刑された人物で、百姓(ひゃくせい)のためにその命をなげうったゆえに「義民」とされる。

義民伝承とよばれる一連の伝承のなかで有名なもののひとつである。史実としてはだいぶ怪しい。死後、祀られていることと、磔刑に処した佐倉藩堀田家に祟ったとされる辺りには、御霊信仰もうかがえる。

歌舞伎、講釈、浪花節などさまざまな芸能の主題となった。とりわけて「決別ノ一段」は好演目で江戸期をつうじて人気があったようだ。

明治になると、民権運動は、こうした民衆のよく知る人物を取り上げた。福沢の『学問のすゝめ』第七編はその先蹤となる。

長沼事件

明治7年(1874)、千葉県長沼の沼沢における漁業権をめぐった訴訟に福沢は関係する。

訴訟の裁定にあたった県庁は、長沼村に不利をもたらした。訴えをおこすことを決めた長沼村は小川武平を中央に派遣。その上京の宿で武平は『学問のすゝめ』を読み感動し、福沢に助けを求めた。福沢は政府への願上書を代筆した。

思想が現実に生かされたという世評があるいっぽうで、福沢は嘆願が通りやすいように、武平ら長沼村の陳情を改変したことも知られている。

福沢が村民たちに与えた忠告は「県庁をば親とも君とも思」え、とか、「官員の立腹せざる様」詫びよ、とかいったものでさえあった。

これを思想への背反とみるか、現実主義の対応とみるか。

福沢はじしんの説いた民権思想が、〈蒙昧な民〉によって実践されてゆくことをどう見て考えていたかがわかる出来事である。

明治14年の政変

国府」がゆずるかたちで「民次」が「阿権」と「夫婦」になる、と先に書いたが、こういう予定調和のような民権の確立はありえなかった。後世からみれば、絵空事である。

北海道開拓使払い下げ問題からはじまった明治14年の政変は、板垣退助率いる自由党と、政府を追われた大隈重信の改進党との結成にいたり、官民対立の激化が明らかになった。

なお、この政変のなかには、大隈と親交を深めた福沢のすがたもあり、三田の慶応義塾への資金援助とその問題視も含まれている。

『情海波瀾』の素朴なアレゴリーにならえば、「阿権」は力ずく、金の力で奪われたのである。

しかし、政治小説の隆盛がここに始まったのだとすれば、戸田欽堂『情海波瀾』を、「はじまりの政治小説」と呼んでもさしつかえはないのではないか。

もちろん、ムリに主張する気がないのは、はじめに書いたとおり。

「権利」を艶やかな芸者、女に見立てた点は面白い。金や力には、なびくようでなびかぬということか。

ちなみに戸田欽堂は大垣藩主戸田氏正の妾腹の子。よって『情海波瀾』は、維新後、れっきとした華族様の書いた「はじめ」の戯作小説でもある。

なお、これが本家に知られた欽堂はおおいに叱られたそうだ。