誰かあの本を知らないか

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田中彰『明治維新と西欧文明』可能性の文体

明治5年(1871)12月23日、岩倉具視を全権大使とした一行が横浜を発っている。

本書は、この岩倉使節団の報告書である『特命全権大使米欧回覧実記』(以下、『回覧実記』)を中心に、若き明治政府の要人たちが遭遇した〈西欧文明〉が何であったかを説いたものになる。副題「岩倉使節団は何を見たか」。

岩倉使節団

明治の初年にあってこの明治5年は、7月に廃藩置県を断行している。これは明治2年(1969)版籍奉還が思いのほか順調に実施されたことによるだろう。

その順調さは、さっそく若い政府の喫緊の外交課題に着手させる。

不平等条約の改正である。

幕末、アメリカとの条約を嚆矢につぎつぎと結ばされた諸条約は、平等を大いに欠いていて、それは日本が独立国と呼びうるのかすら怪しいものであった。しかし、当初、結んだ幕府もその欠陥に気づかないまま締結しており、政権を引き継いだ新政府にとって、この条約の改正はすぐにでも果たさなければならない課題となっていた。明治の悲願とは、ひとえにこの不平等条約の改正であったといってもよい。

もちろん、結果からいえば、日本が近代国家として成長し、明治の末年、明治44年になってやっと解決を見るに至るわけで、この使節団も早々にその改正の不可を悟り、途中から見聞と情報収集に目的を切り替えるのである。

目的は早々に破綻してしまったわけだが、この使節団の参加者たちが、目のあたりに〈西欧文明〉を「見た」ことで、それまで掲げていた尊王攘夷思想から大きく転向してゆく、その契機ともなっている。また、いっぽうの留守政府がそれを「見」なかったことで、のちに征韓論から西南戦争に至る政治思想の分裂も胚胎している。

そういった意味では実地の見聞、旅行が、歴史に大きな影響を与えた大きな出来事であったといえる。

それにしても、この一行は若い。

岩倉具視全権大使を筆頭に、使節46名、随行員18名、留学生43名。最年長は岩倉具視の数え47歳。もっとも若いのは長野文炳(ながあきら)の18歳。

維新政府という東アジアに誕生したばかりの国家の若さを体現している。

久米事件と『回覧実記』

『回覧実記』の編纂執筆は久米邦武。

久米は天保年間、肥前佐賀の生。江戸に遊学して古賀謹堂門下に学んだのち、昌平黌に学を修めた。帰藩後、鍋島閑叟の近習を勤める。漢訳書を通じてのその和漢の教養は深く、維新後は新政府に仕え、岩倉使節団においては権少外史として随行。全百巻におよぶ『実記』を明治11年太政官記録掛より刊行した。

のちに明治を代表する歴史家になる久米のこの仕事がながく脚光を浴びなかった理由はさまざま考えられるが、大きな原因として〈久米事件〉が考えられる。

明治24年(1891)、久米は「神道は祭天の古俗」(『史学雑誌』23-25号掲載)という論文で、帝大教授の地位を追われる。理由は、皇室への不敬、国体毀損、安寧秩序の紊乱、というものであった。久米の史料学的なアカデミズムが、日清戦争に向けて国家神道天皇制国家の形成に邁進していた時流から排斥されたものである。

その後、久米への敬遠が『回覧実記』への敬遠となり、なかば失われた書籍となっていたものを、本書では改めて光を当てている。

漢語による表記

横浜を発った一行はサンフランシスコに至り、ホテルに逗留する。

予想がつくことだが、まずその設備に目を見張っている。詳述は本書を読んでもらうこととする。膝栗毛的な珍談は、べつに文明の彼此にかかわらず起きうるからだ。

それよりもたとえば「華毯美榻」と書いて「カーペットチェア」とルビを振るような表記のほうが興味ぶかい。「毯」は毛織の敷物。「榻」は寝台に用いる腰掛。そしてそれぞれに「華」「美」の形容をほどこして意味を伝えようとしている。そのほかにも、「寝室」(ベッドルーム)、「浴室」(バスルーム)の今でも見慣れたルビがあるが、漢字で表記した意味に、英語の発音を振るという表記法は、かつて漢字が将来されたときに日本人が読解したやり方である。ただ、ルビのほうに意味をほどこすのではないから、その逆の方法ではあるが。

また、地名国名も漢語表記を宛て行っている。

嗹馬(デンマーク)、何加利(ハンガリー)、梅格稜堡(メクレンブルク)、波希米(ボヘミア)、日耳蔓(ゲルマン)、費拉特費(フィラデルフィア)、里味陂(リヴァプール)

これらが清朝の辞典からの引用なのか、筆者にはわからないことだが、〈西欧文明〉に対置される〈漢語文明〉にとって、地名国名が平仮名や片仮名で書かれるものではないという、文明の思想に基づていることはわかる。

これは福沢諭吉の『世界国盡』にも通ずるのではないか。

アメリカからフランスへ

さて、一行はニューヨークからロンドンに至ったようだ。ドーバーを渡り、パリに到着する。ここでは市内観光のほか、都市インフラに注目している。上下水道の完備は、その規模の大きさに驚いたろう。とくに、第二帝政期、セーヌ県知事オスマンによって大改造された下水道は、観光名所でもあったらしい*1が、「穢気」悪臭には閉口したらしい。

そして、下水道から転じて道路、鉄道、運河という近代都市を形成するインフラの規模とその重要性を久米は見出す。引用はしないが、国家をひとつの体に見立てるあたり、後代の都市論のさきがけとも言える。またそのインフラが国外につながり、貿易を通して国家が反映する姿も見出している。

貿易立国は、幕末フランス派の幕臣、技術官僚たちが提言していたものだから、昌平黌にいたこともある久米が着目するのは当然かもしれない。

なお、フランス鉄道網の大発展も第二帝政期だ。サン=シモン主義の申し子であったルイ・ナポレオンが推進した国家の大動脈である。

そして一行はスエズ運河に至る。レセップスが開削したこの運河も同じく第二帝政期だ。

『回覧実記』の文体

さて、漢語表記については既にふれたが、『回覧実記』の文体について述べる。

『回覧実記』は「漢文訓読体を基調とした仮名交じり」の文体である。これは、幕末から長く近代日本語の基調をなす、客観性のある文体である。今でのアカデミックな文章にはこの文体が残っている。

よって、「岩倉使節団は何を見たか」という副題は、言語的にみるなら、「漢文訓読体は何を見たか」と置き換えることができる。

はじめのほうで述べたことだが、〈西欧文明〉に〈東洋文明〉が対置されているので、この文体は、西欧コンプレックスを持っていない。偏見はあるかもしれないが、劣等感を伴うコンプレックスによって歪んではいないのである。偏見は見聞を深めて理解すれば払拭できるが、劣等感による歪みは自らそれに気づくことさえできない。

あんがい偏見は健全なのだ。それの虜になったとき堕落するだけである。

そうした意味では、まだ近代国家建設の端緒についたばかりの、無限といってもいい可能性に満ちた一つの時代が、文体に残されている。

 

それを具体的な意味内容に見るなら、たとえば大国と小国の比較に見ることができる。

嗤うべきことかもしれないが、あらゆる術数権謀を尽くして奪取された明治新政府という政治権力は、維新という建国を迎えたときに、いかなる国家を建設するのか決まっていなかった。

あろうことか、国造りをしながらグランドデザインを決めようとし、岩倉具視はじめ一行は米欧に向かう。

そうしたなかで、アメリカ、イギリス、フランス、プロイセンなどの大国を参考にする一方で、ベルギーやデンマークといった小国にも興味を示している。ずっと後年、石橋湛山小日本主義にまでつながる小国主義の濫觴がここにある。結果として近代日本が大国主義を選択したことを今の私達は知っているわけだが、可能性としては十分ありえたわけだ。

もちろん、こんにちのこの国のように夜郎自大な肥大弛緩した自意識がそれを選んだわけではない。不平等条約改正という明治政府の唯一の目的であり悲願を達成するために選ばれたものだろう。筆者、死んだ昔の人には少しだけ優しいのだ。

 

小国主義という在り得たかもしれない未来が閉ざされたことは、久米邦武自身の排斥にも繋がるように見える。

1891年、明治24年。「神道は祭天の古俗」という論文を発表したことで帝国大学文科大学教授の職を追われる。いわゆる久米事件と呼ばれるもので、皇室への不敬、国体毀損、紊乱罪を問われた。可能性に満ちた明治は終わろうとしていた。近代天皇制のもとで、漢文訓読体は国家神道イデオロギーに収斂されつつあったその文体はこの事件2年前の「教育勅語」に見ることができ、さらにこの2年後、日清戦争詔勅に見ることができる。

曰く、「天佑ヲ保全シ萬世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス」と。

 

舌禍、筆禍といって言葉が話者筆者に禍をもたらすことはある。

しかし、文体が禍いに遭うことを何というのだろう。

久米邦武の遭遇した事件によって、あの文体はどこへ行ったのだろう。

 

 

*1:小倉孝隆『写真家ナダール 空から十九世紀パリを活写した鬼才』中央公論社2016.9.10参考