櫻田百衛『西洋血潮小暴風』明治14年の政変
百華園主人
櫻田百衛、生年は安政4年とも6年とも云う*1。岡山に生まれ、上京して東京外国語学校にドイツ語を学んだが中退し、自由民権運動に身を投じた。さくらだももえ、と訓む。念のため。
なお、当時の外国語学校は、二葉亭四迷も通ったころの東京外国語学校である。
「学生の気風は一般に豪放不羈を得意にして磊落を喜ぶ」*2というから、壮士の風があったようだ。
明治11年(1878)紀尾井坂において、大久保利通暗殺した中にいた杉村文一も同校の出身である。斬奸状のうつしが校内で回されていたとさえいう。反政府の巣窟みたいな学校だが、立身出世主義ばかりが学校ではないし、政府と国家とを同義に思いみなしてはなるまい。
ただ、百衛の文才が天性のものか培われたものか、不明である。当時の外国語学校の英独仏科は学述語・実用語を修めたというから、四迷の属した露科のように文芸書に触れる機会が果たして百衛にあったものかどうか。
ともあれ、語学屋にならず中退して百衛は民権運動に参加した。それがただの「壮士の風」だけでなかったことは、明治14年に自由党の結党にともない入党して、「指揮謀略」をふるった*3というから、組織を指導する能力があったとみてよい。
例えばひとつに人力車夫の運動がある。それをば「車界運動」と洒落た。もちろん、ただの地口ではなく、人の口の端に乗りやすいような工夫だろう。四角張った理屈に人が付いてこないのは、いつの時代も一緒である。
一方、百華園主人と号して『仏国革命起源 西洋血潮小暴風』を「自由新聞」初号から連載した。「自由新聞」は板垣退助率いる自由党の機関紙である。この時期あたりから、各新聞には政党色、政治色が反映するようになってくる。むしろ、手すさみの文芸ではなく、「書くこと」が政治行動である時代になる。
なお書名の読みは「にしのうみちしおのさあらし」。司馬遼太郎なら、血風録、なんてつけるかもしれない。
原作はアレクサンドル・デュマ・ペールの『一医師の追想』から『ジョゼフ・バルサモ』の「訳出」というが、随分と改変があるから翻案と云った方がいいだろう。とはいえ、登場人物の紹介ほどで話が終わっている。いくら翻案とはいえ短かすぎる。
それというのも、『小暴風』を書いたあと、百衛は喘息の悪化、早世したからで、その死は惜しまれた。もとより、その政治活動家としての才幹が第一であろうが、作品の続編の望めないことも惜しまれた。ゆえに請われて百衛のあとを、「自由新聞」に入社した宮崎夢柳が書いた。その続編を『自由の凱歌』という。
『凱歌』はフランス革命の、バスティーユ襲撃を眼目に描かれている。デュマの原作からいえば、これもずいぶんと端折ったものだ。読者の興趣が、デュマの描こうとした大革命前後のフランス史を舞台にしたロマネスクではなく、革命そのものにあったことが伺われる。『太平記』なら、だしぬけに大楠公登場みたいなものだ。
ジョゼフ・バルサモ
『ジョゼフ・バルサモ』は、デュマの『一医師の追憶』という長編連作の第一篇にあたるものである。『バルサモ』を皮切りに『王妃の首飾り』『アンジュ・ピトゥー』『シャルニー伯爵夫人』と続く。
この『バルサモ』が書かれたのは1848年。かの、パリ二月革命の年にあたる。劇場を主な収入源としていたデュマが苦難と困窮に追い込まれた年でもある。ゆえにデュマは二月革命に懐疑的で批判的で、かんたんにいうと憎んでいる。これはたとえばトクヴィルが『フランス二月革命の日々』で描いたように、懐疑を抱き、且つは恐怖を感じながらも、「論理的帰結」として志向した、それではない。王制への鎮魂とも哀惜ともつかない、そんな未練がましさがあって、筆者はその人間くささを徳とする。
この作品の時代設定はルイ16世即位の1774年からはじまり、『首飾り』はその10年後、『ピトゥー』は5年後、『シャルニ―夫人』はさらに5年後となっている。ブルボン王朝打倒を目論んで暗躍する怪人カリオストロ伯ことジョゼフ・バルサモを中心に、多数の登場人物が交錯するロマネスク小説なのだが、フランス革命を舞台にした四部作は〆て全15巻という、とにもかくにも長い長い小説でもある。しかし、史実と創作が巧みに織り込まれている小説なので、ロマネスクとは言っても、単なる荒唐無稽を意味しない。史実を足らざるを小説的想像力で補い、小説的虚構の脆弱を史実で支えるという、大作であると同時に名作でもある、見上げるほどにおおきな小説群である。
なお現在刊行されているのは、マリー・アントワネットのいわゆる「首飾り事件」を扱った『王妃の首飾り』だけ。創元推理文庫におさめられている。『ジョゼフ・バルサモ』と『アンジュ・ピトゥー』に関しては篤志の方がネット上で日本語訳を公開されているから、語学ができなくても安心だ。
翻案の政治小説
請(こふ)眼を放つて社会を看よ。又回顧して往昔よりの。歴史を通観沈思せよ。果して什麼(いか)なる感想(かんじ)か起る。億兆無筭(おくてうむさん)の蒼生(さうせい)ハ。悉皆(しつかい)不正の人爵(しやく)が。懸隔(へだて)し上下貴賤の枷(かせ)に。心身を束縛せられ。高天厚地に踞蹐(きよくせき)し。昼夜休(いこ)ハず孜々黽勉(しゝびんべん)と。玉の汗より稼ぎ出して。命脈(いのち)を保つ宝とする。米銭ハ余り些少(すくな)く、租税の名をもて〇〇てう。虐賊們(ばら)に掠(かす)め収(とら)れ。彼が酒色に沈湎(ちんめん)なす。冗(むだ)な費(つひ)えを幇助(たすく)る而已(のみ)。*4
引用は、バルサモが、王制転覆を狙う秘密結社で行った演説のぶぶんにあたる。
文体は、和風漢文の読み下しをベースに、軍記物、謡曲、読本、戯作の言い回しが見受けられる。ただ、檄文めいた異様に熱のある五七調は、リズムがいい。これが当時人気を博し、短い期間ではあるが、櫻田百衛は「東洋のユゴー」と称されたらしい。
デュマの翻案なのにユゴーとは可笑しな気もするが、政治運動から政治小説への転向が民権運動におけるひとつのスタイルであった当時、ヴィクトル・ユゴーとベンジャミン・ディズレーリは、文人政治家として非常な人気があった。一等の褒めことばなのである。なんだか見て来たような言いぶりだが、内田魯庵がどこかに書いていたはずだ。
伏字は讒謗律や新聞条例への用意である。言論側にも加減がなかったが、取り締まる側もそれに輪をかけて容赦がなかったので、今日の自主規制風の伏字とは意味が異なる。
また、ここだけ読んでいると、フランス革命になずらえて、自由と権利を謳う、そういう小説に読めるかもしれない。しかし皮肉を云うようだが、政権と民衆という素朴な二項対立の構図は、いつでも人の目を欺く。これは明治から遠く令和の御代とて変わらない。
図らずも、「百華園主人」は言っている。
〇百華園主人謹で曰す。抑(そもそも)本編を茲(ここ)に訳出して博(ひろ)く看官の劉覧(りゅうらん)に供ふる所以ハ、仏国革命の惨状を鑑みて、其覆轍(そのふくてつ)を踏(ふま)ぬよふ心を注ぎ給へといふ一片の老婆信切なり。されバ激烈粗暴なる該国の政党が社会を毒せし弊害に涵染せざるぞ肝要なれ。*5
これを「老婆信切」と受け取るか。語るに落ちたとみるか。少し考えてみる必要がありそうだ。
民権運動と民衆
当時の民権運動は大いに高まったが、それは民権思想の「理解」が高まったわけではない。
西南戦争が終わった翌年、大久保の暗殺された明治11年(1878)に「地方新三法」*6が公布された。全国各地には県会が設立され、地方の名望家や有力者などを中心に、幕末維新期に混乱疲弊した郷土復興を目的に、政治への意識が高まる。もちろん彼らの欲得まじりの「復権」も狙いとしてはあったろう。それらを当て込んだ「新聞」や多くの政治結社が作られ、かなりの数にのぼる請願や建白が政府に提じられた。
しかし、民権を担うべき当事者であるはずの「民衆」は
鯰(なまず)の子が地震になろうが、赤髭〔外国人〕が威張ろうが、琉球人が将軍になろうが、米さえ安くなって元の様に一日三度ずつ米の飯が食われれば、己達(オラッチ)は外に望みも願いもなし*7
と『東京日日新聞』(80年12月6日)に描き出される民衆であり、それは福沢諭吉が『学問のすゝめ』第三編において説いたような「一身独立」を果たしていない「お上」とは共依存のような関係にある存在であった。
加藤弘之が明治15年に『人権新説』を発表し、歪曲させた社会ダーウィニズムをもって天賦人権論を否定し「転向」するのも、背景にはこうした民衆への絶望と拒絶が看取される。
じっさい、民権運動の沸騰は、たとえば民権演説会が、
政府や警察を罵倒する弁士に喝采を送り、臨席警官が演説を中止させれば大騒ぎをひきおこしていた。たとえば、弁士が「流行の俚謡(ウタ)」だといって、「懲(こ)も懲りない圧制は竹槍席旗(むしろばた)の花が咲く」と歌いはじめ、警官が演説中止を命じるや、聴収四千余人が立ちあがって「警察官に論弁抗争し、場中の紛擾(ゴタツキ)一方なら」ず、となった*8
というような、それが「激烈粗暴」であるがゆえに人気を博したとすれば、国家構想や民権思想への支持や理解とは程遠い。
これは日本と日本人が「未開」であるせいだろうか。
言うまでもなく、フランス革命自体がすでに「激烈粗暴」であったのである。モンターニュ派独裁という、「革命の深化」は過激化の一途を辿り、テルミドール9日、ロベスピエールやサン=ジュストを断頭台に送ることで独裁は崩壊するが、革命は確固たるものになった、とされる*9。これには両義的な評価があるだろうが、既存の権力勢力を一掃するための死屍累々とは、過程だけみるなら「未開」のしわざとしか思えない。
維新とフランス革命を重ね合わせてみるならば、民権運動には、断頭台に象徴される過激化の路線もありえたわけである。実際に、政府の危機意識はそこにあったであろうし、在野とはいえほんの数年前まで政府に地位を占めていた板垣退助ら自由党幹部にも同じ危機感は共有されていたはずである。
図式的にいえば、政府と政党、そして民衆の三つ巴で、民衆の「激烈粗暴」を権力は恐れていたともいえる。民衆のための政治、あるいは政党と言いながら、政府と政党の争いは権力闘争にすぎず、民衆はじっさいは蚊帳の外、という構図の起源はこのあたりにあるのではないか。
明治14年の政変
明治7年の民選議員設立建白書は板垣退助、副島種臣らによって出され、退けられた。時期尚早、という政府の判断だが、征韓論を通して分裂した薩長主流派と土佐派を中心とした不満分子との権力闘争が背景にある。
萩の乱や西南戦争において武力闘争の不可能性を見届けた板垣らは、国会開設、地租の軽減、不平等条約の改正をかかげ、彼らの政治結社愛国社を全国規模に拡大した。
これが明治11年。
また同年、福沢門下で英国から帰国した馬場辰猪は慶應義塾のメンバーを中心に交詢社を結成し、福沢がつねに説いていた「一身独立」した国民(ネイション)を育てるために、啓蒙的な方法で民心の改革を目指した。馬場は自由党結党に合流する。
しかし、明治13年の集会条例発布が法の拡大解釈もふくめて、彼らをことごとく弾圧してゆく。
もちろん、強固な弾圧は有司専制政府の「危機感」のあらわれであると同時に「不安」のあらわれでもある。不平等条約改正の見込みはなく、財政状況は最悪であり、西南戦争後、不換紙幣を乱発したことによるインフレが急速に進行、結果地租による歳入が大きく目減りしていた。このころの財政状況だけ見ていると、国家が破綻しなかったのが不思議なくらいである。
一方、これも不思議なことだが、明治13年、地租改訂を政府が断念したことにより、全国農村は一部を除いて好況に沸いていた。実質地租負担が軽減しながら、インフレによる農作物物価の上昇、不平等条約による自由貿易で輸入品が廉価で国内に出回るようになったからである。
全国の政治結社や民権活動は、こうして生み出された余剰の財により支えられていた。
輸入超過は大量の正金流出を招いた。当然である。追い詰められた政府は地租の米納制を復活させるか、外債を募るか、議論を重ね、とくに後者の採用を検討していた。しかし、来日していたグラントから外債の危険性を教えられていた明治天皇はこれを拒否。背後に、元田永孚らの宮中勢力が天皇親政をもくろんでいたのは言うまでもない。
八方ふさがりのなか、やむなく政府は財政支出の大幅な削減と酒税などの間接税の増税に踏み切るいっぽうで、国会開設の詔によって民権運動の鋭鋒をそらし、参議大隈重信を政府から追放し、政府の意思統一を図る。
明治14年の政変と呼ばれるものである。
このクーデタの原因の大きな要因のひとつである北海道開拓使官有物払下げの中止決定は、その「輿論」とともに民権運動の成果ともいえるが、こうした動きを政府が徹底的に弾圧することを決断するきっかけになったともいえる。
こうした中で自由党は結党された。しかし、結党以降、総理(党首)板垣退助の動きは不鮮明である。「自由ハ死ストモ」で膾炙した岐阜遭難は翌明治15年4月だが、その年の11月には後藤象二郎に資金を仰いで外遊、これに反対した馬場辰猪、末広鐡腸らは離党し、板垣不在の間に党内急進派は福島事件を起こす。この福島事件が加波山事件へと波及し、苛酷な弾圧に遭い、自由党を解党へと追い込んでゆく。
百華園主人の「老婆信切」は取り越し苦労ではなかったわけだが、老婆心とは往々にしてそういうものだ。ゆえに、お節介、とも言われるのである。