井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』海上の道
万次郎の略歴
天保12年(1841)、土佐国幡多郡中の浜から出航した漁師伝蔵以下5名は遭難し、漂流すること12日。13日目に伊豆諸島鳥島に漂着。およそ5か月にわたって生きながらえ、米国の捕鯨船ジョン=ハウランド号に救われた。*1
5人のうち、いちばん若年で、かぞえで14歳であったのが万次郎である。同捕鯨船の船長であったホイットフィールドは、万次郎の才覚と胆力を愛で、ジョン=マンの名を与え、小学校教育を授けた。
嘉永3年(1850)、かの地で捕鯨船員ほかさまざまな経験を積んだ万次郎は帰国を果たす。23歳になっていた。このときの捕鯨の経験は万次郎に強い印象を残したらしい。
米船サラボイド号に便乗し、沖縄沖から小型艇で琉球摩文仁(まぶに)間切に上陸。その後、薩摩藩の取り調べを受けるが、藩主島津斉彬のはからいもあり、長崎を経て土佐に戻ることができた。
土佐藩主山内容堂は万次郎に、その生地「中の浜」から「中浜」の姓を与え、土佐藩の教授官下遣に取り立てた。
賢公と称された両藩主である。当時しきりに海域に出没していた外国船と、海防の重要性を案じていたゆえのはからいであり、取り立てであったろう。土佐城下にあって万次郎は、岩崎弥太郎、坂本龍馬に英学を授けている。
嘉永6年(1853)、浦賀にペリー艦隊があらわれる。万次郎はその英学を求められ、幕府に出仕。普請役格ニ十俵二人扶持、韮山代官江川英竜手付。旗本、幕臣となる。
時代が時代とはいえ、漁民の子が、幕藩体制のなかで出世した例としては異例である。
安政4年(1857)、幕府は江戸軍艦操練所の教授方に万次郎を任ずる。このとき、万次郎は捕鯨に関する建言を行い、鯨漁御用にも任ぜられる。しかし暴風に遭い、漁は失敗したらしい。英学者としては、西周、大鳥圭介、箕作麟祥ほか、おおくの者に英学を教えている。
翌万延元年(1860)、遣米使節を乗せた咸臨丸に同乗。通弁主任としてである。
元治元年(1864)薩摩藩開成所、慶応2年(1866)土佐藩開成所にて、それぞれ英学を講義した。また同年、幕府帆船一番丸の船長に任ぜられ、捕鯨漁に出る。
明治2年(1869)、新政府のもとで開成学校中博士となり、翌3年渡欧使節にくわわるが欠病により中途で一団を離れ、米国経由で帰国。このときかつての恩人ホイットフィールドに再会。万次郎は42歳になっていた。
帰国後は、療養生活を送り、明治31年11月12日、東京京橋弓町に没した。享年72歳。
ジョン=マン
福地桜痴は晩年往昔をかえりみて『懐往事談』を明治27年に発行しているが、安政6年(1859)森山多吉郎から英語を学んだことを記している。
此時に際し江戸にて英語を解し英書を読たる人は、此森山先生と中浜万次郎氏との両人のみなりければ、余は此先生に就て学びたるなり。既に福沢諭吉氏も先生の宅に来りて益を請ひたる事などもあり*2
柳田泉によれば、当時横浜開港のことがあり、森山多吉郎は多忙をきわめていたため、実際には森山と万次郎の塾それぞれで隔日の講義を受けたらしい。*3なお、「益を請う」は「請益」。禅語で、不明を問うて一層の教えを請うこと。
なんの引用かというと、万次郎は、「中浜」万次郎と呼ばれたものだという確認である。こんにち膾炙したジョン万次郎という通称は、井伏鱒二の創作になる。米国でジョン=マンと呼ばれた名前と、中浜万次郎という士族の名前を、それぞれふたつに切って貼り付けた不思議な呼称なのである。
また、冒頭に記した略歴のとおり、万次郎が歴史に果たした役目は、帰国後の英学者としての役割であって、数奇な漂流をした体験者としてのそれではない。
しかし『ジョン万次郎漂流記』は、作品名がしめすように、故郷を離れた「漂流」に紙幅が大きく割かれている。それはそれで運命に翻弄されながら大成する人物譚、記録物語にも読めるのだが、記録文学としての意図は希薄である。
たとえば、万次郎たちが鳥島で救助される描写に、井伏はこう書く。
びっくりした伝蔵がその手を払いのけ逃げ出そうとしていると、そこへ色の白い異人が割り込んで来て、手真似で伝蔵に云った。次のように云っているのだろうと伝蔵は解釈した。
――騒ぐな騒ぐな。拙者等は其方の一身に害を加えるものではない。しかも其方の朋輩三人は、すでにわれ等の船に助けてある。騒ぐな騒ぐな。四海みな同胞である。
色の白い異人はにこにこ笑っていた。*4
なんともとぼけたユーモラスな書きぶりで、井伏鱒二らしいと思われるが、文体については後で述べるとして、字義の穿鑿めいたことをしてみる。
四海みな同胞
「四海」とは四方の海、世界の謂いだが、大和言葉、和歌のことばでは、「よもの海」という。また「同胞」は「はらから」。明治37年に明治天皇御製に
よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
四方の海の皆同胞と思うこの世に、どうして波風が立ち騒ぐのであろうか
がある。ひどく有名な歌である。
こまかいことを言い出せばきりがないので、簡単に言うと、日露戦争開戦にあたって詠まれた歌で、なかば伝説ながら、平和を希求した天皇の歌ということになっている。
また、太平洋戦争にさいして昭和天皇も昭和16年(1941)9月6日の御前会議で、祖父帝のこの歌とその心事を引用したとされているのだが、ほんとうかどうか。
しばしば参考にしているドナルド・キーンの『明治天皇』を読み返してみたが、この歌は出てこない。見落としかもしれないから、うっかりしたことは言えないのだが、キーンが敢えてこの歌を避けた可能性はある。とくに、太平洋戦争に関しては、開戦詔勅に、
今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に已むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。
これが戦後、戦争は天皇の本意ではないという、論拠を与えた。
もちろん『ジョン万次郎漂流記』は昭和12年刊行だから、まだ太平洋戦争ははじまっていないわけだが、〈五族協和〉〈八紘一宇〉という15年戦争のスローガンは、玄洋社や黒龍会といった民族主義の団体が掲げたアジア主義から通底していたものである。
近衛内閣がだしぬけに言い出したように見えるかもしれないが、既に流布されていたスローガンを剽窃したと考えたほうがいいだろう。
そして、逆説的に聞こえるかもしれないが、戦時下こそ、多様性と平和が謳われるのである。
井伏鱒二の文体
ともあれ、ずいぶんと有名であった御製から太平洋戦争のスローガンまでが、「四海みな同胞」という日本語の後ろに控えている。
『ジョン万次郎漂流記』自体が、一見すれば「四海みな同胞」をテーマにした記録文学に読める。日米友好、平和と交流のかけ橋としての文学に読める。
しかし、先の引用部分は、伝蔵の「解釈」と断りながら、「色の白い異人」が言ったことなのである。
理屈を言うようだが、果たして「手真似」だけでこれほど意が通ずるものか。
ユーモア、洒落、あるいは小説の創作がわからぬ奴だと謗られそうだが、まがりなりにも年号や固有名詞という記録文学の体裁を備えた小説が、ユーモアや洒落で通るものだろうか。
井伏鱒二の文体は、一見ユーモアに見える。そしてそれも理屈を言い出せば叙述そのものが消え去ってしまう、そういう性質がある。
内面を吐露する、心情を仮託する、そういう内面や心情を跡形もなく消したところに文体が成立している。そこには、内面の事実や心情の真実と一般に呼ばれているもの、そう信じられているものへの不信というよりは不可能性がある。文体は、そうしたものからの距離をあらわしている。
よって、読者が文体をながめてユーモアだと読んでいるところから、その対象である事実や真実に近づこうとすると、文体を過ぎ越して、叙述は壊れて消えてしまう。
読者がやむなく文体にとどまれば、可笑し気な、滑稽なことを言っている、あるいは坦々とした叙述のようにしか見えない。
これは例えば『黒い雨』に顕著である。記録文学として名高いが、原爆罹災者の手記『重松日記』からの乖離と虚構は発表当時からあった。体験者が体験談を包み隠さす語る、という、小説的あまりに小説的な虚構をこそ突いた作品なのは、言うまでもない。
どれほど悲惨な目に遭おうと、たとえそれが被爆体験であったとしても、それが真実や事実をなすとは限らない、むしろ、新たな虚構を生み出してしまう、というのが井伏鱒二の文学観であり、その文体とみるべきだ。
この文体と対象との距離は、ややもすると自己の優越性、作家の特権性に陥る。そのために、作家は最低の位置にいなければならない。そして、自己表現や自己表出という近代文学の特徴を断念しなければならない。「内面や心情」が「跡形もなく消」えているのは、禁欲というより、断念、なのである。
この作家がデヴュー作に、岩に閉じ込められた『山椒魚』とその断念を描いたことを想い出してみてもいいだろう。
海上の道
『ジョン万次郎漂流記』はくりかえしになるが昭和12年刊行。文庫本の河盛好蔵による解説では9月。手元の『日本近代文学年表』では11月になっているが、さて、どちらだろう。
ともあれ、同年3月は盧溝橋事件、日中戦争。昭和6年(1931)に日本は国際連盟を脱退し、ワシントン体制は崩壊。日米関係は悪化の一途を辿っていた。
こうした歴史的文脈からすれば、かつて在りし日米友好の記録『ジョン万次郎漂流記』と、どうしても読みたくなるのだが、もうすこし見てみよう。
この作品は、前半が「漂流」と万次郎一同のアメリカでの暮らし、後半が帰国後、幕府の英学者としての活躍に分けられる。前半が小説的描写に拠るのに対し、後半は歴史資料からの引用に拠っている。
小説の構造からいえば、万次郎の視点が描写の人称をになっているから、万次郎の成長とともに彼が歴史のなかに入っていくその過程を表現していると、一応は説明できる。
しかし、万次郎は鳥島で捕鯨船ジョン=ハウランド号に「発見」されなければ、かの島で朽ちていたはずだ。あるいは救助されアメリカに渡ったとしても彼に見いだされる才能がなければこれもまたかの地で埋もれたはずだ。
吉村昭に『漂流』という小説があるけれど、八丈島、伊豆諸島、小笠原諸島へと広がる太平洋の群島と孤島は、ながく「漂流」の歴史をつづってきた。「漂流」は太平洋の歴史であったと言ってもいい。万次郎一同の背後には、あまたの漂流者たちが揺曳しているのである。
バスコ・ヌニュス・デ・バルボアが太平洋を〈発見〉したとは前に書いたが、それは言うまでもなく、西洋中心史観の幻想である。そんな〈発見〉よりはるか昔から、無名で、無名のまま漂流し、無名のまま死に、あるいは往来さえした者たちがあったはずなのだ。
マゼランが艦隊で太平洋を渡ってみせたことや、イエルダールがコン・ティキ号に乗ってその往来を実証しようとしたことは、歴史的偉業に属するかもしれないが、彼らは歴史に名を残すという、たっぷりお釣りの来る、有名のひとびとである。
万次郎たちは、「鱸を釣る目的」で漁に出たのである。偉業のため、有名のためではない。生活、そのためだ。遭難する危険を負ってでもそこで生きてゆかなければならない、そういう「生活」である。
こうした無名の歴史に注目したのは戦後の柳田國男である。
万次郎一行をして「漂流」せしめた暴風雨とその潮流は、同時にながくながく海に生活するひとびとを殺しも生かしもしてきたものだ。
これを柳田は「海上の道」と称した。
ちなみに、「名も知らぬ遠き島より」で知られる藤村の『椰子の実』に材料となる話をしたのは、柳田國男だそうである。
今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまわって、東おもての小松原の外に、船の出入りにはあまり使われない四五街ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実が流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。*5
もちろん、日本人と日本語の起源としての北進説は「南島イデオロギー」*6などとも称され、考古学や歴史学あるいはDNAの研究の進化により、今ではまったく否定されているものだが、敗戦後、これを唱える必然が、柳田國男にはあったはずだ。
もとより、柳田の『海上の道』は、大陸南部の稲作農民が琉球に渡り、黒潮に乗って、つまりその「海上の道」を通って日本列島に到達した、というものだ。
柳田の興味と関心は、「生活」のために海を往来した無名のひとびとと、その歴史への憧憬にある。
そこには戦争も平和もない。
「生活」があるだけだ。
ジョン万次郎
小説前半において井伏が書いたのは、この、無名の生活者としての万次郎である。
そして「四海みな同胞」は、一見、戦争と平和をめぐる「御製」の言葉に見せて、じつはそんなものとは関係のない、海上の道にずっと続いていた〈歴史〉なのである。
だから、伝蔵が云ったようにも読めるし、「色の白い異人」が言ったようにも読めるように書いてある。彼ら海上の道に生き暮らした者たちからすれば、誰に教えられるでもない、当然の理であったに違いない。
そのせいで、理屈を言うと、可笑しな感じがする。
この可笑しな感じは、今読むとユーモアを感じさせるが、作品発表当時の言論統制を考えれば、これくらい巧妙なレトリックは必要であったろう。だから、当時もユーモアと読まれたはずだ。こういうことをさせれば井伏は、名人、であった。
そして先にも述べた、対象への距離は、ユーモアとして表出されているが、心情や内面を吐露しないそれは、そんなものに拘泥していては生きてゆけない生活者の文体として生かされている。
戦争に協賛してよろこんだり、反対して眉をひそめたり、他人や国家のおもわくに、いともたやすく翻弄されてしまうなら、それは「生活」ではない。その昔、向田邦子は、戦時中でも女学生は箸が転げても笑ったと書いていたが、それは、それが「生活」だったからだ。
くどいようだが、ひとは、いちいち国民や非国民になる必要など、ありはしない。
寅右衛門はジョン万の顔を見ると大いに驚いて、
「おお、万次郎ぬし!」
と云ったかと思うと次は亜米利加語で、
「なんという珍しいことか、これは珍しい再会である。お前はこの地にいつ来たか?」と云った。
ジョン万も、
「おお、寅ぬし」
と云った*7
懐かしき友と再会できたら、ひとは喜べばいいのである。朋、遠方より来たるあり、また喜ばしからずや。
後半部に入ると、つまり万次郎が、有名で、日本に有用の人物となると、ユーモアは鳴りを潜め、坦々と歴史的事実の引用がはじまる。
幕府や藩に仕えながら、万次郎の望みは捕鯨船に乗ることであったことは略歴に書いた。その建言を何度も行っているし、実際にその船を仕立てもしたのだが、幕末維新の大変動期は、万次郎にそれを許す余裕はなかった。
明治五年、再び病いを発し、以来幽居して専らその志を養った。ただ一つ思い出すだに胸の高鳴る願望は、捕鯨船を仕立て遠洋に乗り出して鯨を追いまわすことであった。それは万次郎の見果てぬ夢であった。*8
運命は、万次郎を歴史に棲む中浜万次郎に仕立てたが、見果てぬ夢はジョン=マンとしてその追憶をかけ廻っていた。言うまでもないことかもしれないが、この、切り裂かれた思いと思いのつぎはぎを、井伏は哀惜をもって「ジョン万次郎」と記したのである。