誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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太宰治『燈籠』女が独りで語ること

前回、うっかり太宰治と書いた。書いた手前そのままにもできないから、今回は太宰治

dokusyonohito.hatenablog.com

今回取り上げた『燈籠』は、角川文庫の『女生徒』に入ってる。
この一冊は、編集方針がはっきりしていて面白い。タイトルの『女生徒』含め〆て14編、すべて女性の告白体形式を採用した作品だけを載せている。

『燈籠』成立の時代

『燈籠』の発表は昭和12年の秋、らしい。不確かな言いぶりだが、文学年表には載っていなかったので解説に従う。

同年、盧溝橋事件から日中戦争開始。
山本有三路傍の石志賀直哉『暗夜行路』永井荷風『墨東綺譚』川端康成『雪国』井伏鱒二『ジョン萬次郎漂流記』が同じ年に刊行されている。こんにち知られる「文学」は15年戦争下に大いに生まれたとはすでに述べた通り。

本作発表時、太宰治はかぞえで29歳。作品は彼の青春期の終わりに書かれた。このあたりの太宰治をめぐる略歴と文壇の逸話は、よく知られたことなので省く。生活と作品をごっちゃに読ませるところが、太宰治には、ある。

『燈籠』あらすじ

「ことし二十四にな」る娘が「水野さん」という男と知り合う。「みなしご」であるという男の「不自由」に同情した娘は、「海へ泳ぎ」にゆくという男のために「男の海水着」を盗む。「交番」にしょっぴかれた娘は、じぶんの悪くないことを述べる。留置所に一晩留められ、翌日父に伴われて娘は家に帰る。男からは別れを告げる手紙がくる。娘は、父の交換した部屋の「電球」を眺めながら、自分たちの「幸せ」はこんなものだ思うが思いなおし、「私たち親子は、美しいのだ」と、言う。

本作は独白形式、女性の独白形式で書かれている。
内面の独白は、外部性という出来事から薄皮一枚へだてた処に成立する。
よって、この「薄皮」を取り去って、あらすじを出来事だけで整理し、一行に直すと、

男のために盗みを働いて捨てられた貧しい娘の独白。

いささか酷な気もするが、外部性、つまり客観的に確認できる出来事はこれしか残らない。
そこで独白が生まれる。本当は違うのだと。
しかし、それは「言えば言うほど」誰も「信じて呉れな」いものになる。

『燈籠』を読む

盗みをいたしました。それにちがいはございませぬ。いいことをしたとは思いませぬ。けれども、……いいえ、はじめから申しあげます。私は、神様にむかって申しあげるのだ。私は、人を頼らない。私の話を信じられる人は、信じるがいい。*1

なんだか女性週刊誌みたいだ。ところが、「私」が読者に独白する形式は、週刊誌の読者欄や独白記事をへて、インターネットの掲示板、SNSにまでいたっている。語るべき内実がなくとも、「私」は独白するのである。独白という形式が内実を満たすことを強いる、と言ってもいい。
内実のないそれを娘は

私は、ひとめで人を好きになってしまうたちの女でございます。

と言っている。からっぽの「私」を、ふとした感情が満たそうとするのである。理由はないし、先の当てもない。
内実を満たす何物をも持たないから、「眼医者」の「待合室」でであった男の「みなし児」だという言葉に対し、娘自身がじぶんの内面を満たすようなやりかたで、男の内面も満たそうとする。つまり「しんみになって」しまう。
それを娘は「眼帯の魔法」だという。

外界のものがすべて、遠いお伽噺の国の中に在るように思われ、水野さんのお顔が、あんなにこの世のものならず美しく貴く感じられたのも、きっと、あの、私の眼帯の魔法が手伝っていたと存じます。

ポイントは両目で見ていない、ということだろう。よりにもよって、開いた方の目は、「お伽噺の国」を見ている……。
「交番」に連れていかれ娘は、ながながと、滔々と弁明をする。9頁しかない短編の2頁にわたるんだから、長い弁明だ。しかし、この自己弁護は、

私は、強盗にだって同情できるんだ。

の一行に尽きる。ここを見誤ると、「万引にも三分の理、変質の左翼少女滔々と美辞麗句」という「夕刊」の「見出し」同然の見方に陥るだろう。
ここにあるのは他人へのいたわりでもなければ、「正直」なにんげんの弱さでもない。倫理的に苦しんでいるわけではないし、と言って「強盗にだって同情できる」という思想を獲得しているわけでもない。

おまわりさんは、蒼い顔をして、じっと私を見つめていました。私は、ふっとそのおまわりさんを好きに思いました。

どうやら弁明ですらないらしい。もちろん、倫理だの思想だのがあればいいわけではない。倫理と思想に凝り固まった碌でもない男はたくさんいる。ちょうどここに「水野さん」の手紙がある。

ただ、さき子さんには、教育が足りない。(中略)環境において正しくないところがあります。僕はそこの個所を直してやろうと努力して来たのであるが、やはり絶対のものがあります。人間は、学問がなければいけません。

筆者、少し乱暴ないいかたをする。
なんて嫌な男だ。
しかも、

海浜にて人間の向上心の必要について、ながいこと論じ合った。僕たちは、いまに偉くなるだろう。

とご丁寧に付け加え、「その罪を憎みて」と結ぶ手紙を送る。そのうえ、

(読後かならず焼却のこと。封筒もともに焼却して下さい。必ず)

と嗤うべき卑劣な追伸まで付いている。まさか読者諸氏、この男に内実があるとは言うまい。しかし、娘は

私は、水野さんが、もともと、お金持の育ちだったことを忘れていました。

とだけ言う。かなしみをひめている、なんて言う莫れ。降って湧いたように「私」を満たしていただけのものだから、「忘れ」るのである。「私」には「忘れず」覚えているほどの何物もないのである。
つぎつぎと外から何かが訪れて、「私」を通り過ぎてゆくのである。それを「私」は「私」だと思っている。冒頭で娘は、「言えば言うほど」誰も「信じて呉れな」いものだと言ったが、そもそも「私」自身が、「忘れ」てしまうほどに不確かなものなのだ。

私たちのしあわせは、所詮こんな、お部屋の電球を変えるくらいのものなのだ、とこっそり自分に言い聞かせてみましたが、

娘が「私」になる契機がないわけではない。「電球」交換ていどの「しあわせ」かもしれないが……。しかし、

そんなにわびしい気も起らず、かえってこのつつましい電燈をともした私たち一家が、ずいぶん綺麗な走馬灯のような気がしてきて、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます。

「わびしい」「私」に「私」は堪えられない。契機、チャンスはそこにあったかもしれないのに、娘はふたたび、次の、別の、「美し」さと「よろこび」を見つけてしまう。

それは、明晰に照らす「あかるい電燈」ではなく、「走馬燈」のように明かりが定まらない「燈籠」である。「美し」さと「よろこび」をめぐって、ゆらゆら揺れて定まるところを知らない。この、ほの明かりが彼女の独白を満たしていると言ってもいい。

しかし、これは「教育」がなく「環境」が悪く「学問」を身につけていない所為だろうか。
こんにちでも、成功者教育家啓発家ほか頭の良いひとびとは、この娘の愚かさを嗤うだろう。「万引にも三分の理、変質の左翼少女滔々と美辞麗句」。そのとおりだと。

けれども、娘にとって意識化されない、それ自体困難な「私」をめぐる悲劇は、「教育」「環境」「学問」で超克可能なのかは疑わしい。

「水野」という男を満たしているのは、「教育」「環境」「学問」である。それが男の「私」を満たすに足るというなら、なぜ「僕たちは、いまに偉くなる」などと言うのか? 男の「私」は功利的な立身出世主義に満たされているだけのことだ。

彼女「さき子」の愚かさより、はるかに陋劣なだけのことだ。

女が独りで語ること

現在であったら、バカな女、を小説の形式とはいえ男性作家が書いたなら批判は免れない。おそらく非常に厳しい批判にさらされるだろう。
もとより、現実に存在しない作中に偽造された「女」である。
前回『安愚楽鍋』に登場した戯作の「娼妓」同様、男から見た幻想によって生み出されたものだ。

しかも、作中で語り手が「女」であることを独白しないとこの文体は機能しないのである。こころみに、全編「男」のつもりで読むと一応それでも読めてしまう。かろうじて「ございます」「です」「ます」の敬語によって、それらしさは醸し出されるが、読者が協力して「女」を読まなければ、彼女は「女」として存在できない。幻想の「女」は作者と読者との共犯が生み出している。

もちろん、好意的にみれば、男の独白する私小説の破産を狙った太宰治の文学的挑戦、とも受け取れる。これだけ多くの女性による独白形式を採用していることは、太宰治論の一角をなしているのだろうけれど、筆者はそこまで知らない。

それより、創作上の効果のために、この文体に閉じ込められた彼女と彼女たちを思うばかりだ。戯作から始まったその開放は、たとえば山田詠美の登場を待たなければならない。読者諸氏が知っているように、彼女と彼女たちはそれまで待ちつづけることになるのである。

……ちなみに、お気づきかはわからないが、筆者が男である保証もどこにもない。あと、筆者、太宰治ペンネームを略さず書いた。太宰は、とか恥ずかしくて書けない。まあ、ブンガクっぽいけどね。太宰は、とか。

 

 

 

*1:太宰治『女生徒』角川文庫クラシックスより引用。以下引用も同じ。