折口信夫『身毒丸』伝説、芸能
学識とひとことで呼ぶにはあまりに該博な、直観と言ってしまうには射程がながくながく深度の深すぎる知性がある。そしてこの知性は、知性みずからによって観察され実験されつくされた感受性を備えていて古今類例のない詩(うた)をうたうのである。
号は釈超空。
知性としての名は折口信夫という。
先だって三島由紀夫の「弱法師」をめぐる作文を書いた。だしぬけに折口信夫と書いて、ふと不安になったので今回は補足である。
身毒丸(しんとくまる)は「住吉から出た田楽師」の子である。そうこの小説は書き起こされる。
九つのときに父子は訣れた。父、信吉法師はらい病を患っていた。
身毒は住吉に縁のある遠里小野の家に養われる。田楽師の座である。
眉目秀麗であった身毒は、同輩が十二、三歳で髪を落とすなか、十七になるまで剃らずにいた。美しい姿に師匠である源内法師の愛着があった。しかし、伊勢の関の宿で田植踊りのあったとき、関の長者の妹娘のすがたを見た身毒が「耳朶まで真赤に」なったことを師匠は責め、身毒の髪をそり落とす。
小説は身毒丸の妹娘への淡い焦がれと、師匠源内法師の身毒への執着を描き、それぞれの決別を予感させて終わる。
この短い小説には、民俗行事や伝承、中世芸能、神事などに関する固有名詞がおおく出てくる。構造だけなら稚児愛と別離のおはなしである。
クナラ太子伝説話
「身毒」はインドの古名だと説いたのは折口自身である。中世の古辞書のたぐいに見えるものだ。つまり「身毒丸」は「インド丸」ということで、それは『今昔物語』天竺・震旦部などに見える「クナラ太子伝」のことを指しているというのが折口の指摘である。
クナラ太子は天竺は阿育王の子、継母の邪恋により失明し、王宮をおわれるが仏の功徳により本復(ほんぶく)するという説話。クナラ、とはヒマラヤに棲む「目」の美しい鳥だとされる。
継母の邪恋というモチーフは、たとえば晋の献公の長子申生が、献公の寵姫驪姫(りき)に邪恋をしかけられるという説話にも見られるが、シルクロードの展開とともにアジアに広く伝わった「孝子譚」のうちのひとつだろう。この歴史的地理的な広範さを折口は「身毒」はインドだとひとことで言っているわけだ。よって、説経節の「しんとく丸」にも同じモチーフは残されていて、継母の邪恋、叶わぬがゆえの恨みから、その呪詛により「しんとく丸」も失明する。
小説「身毒丸」においては、同じモチーフを師匠から身毒への恋慕執着に翻案している。師匠源内法師のサディスティックで粘性の強い執着の描写は、折口じしんの資質によるところが大きそうだ。
貴種流離譚
また、この小説は折口自身がとなえた「貴種流離譚」という文学概念を、じしんがどういった実相でとらえていたかを考えるうえで参考になる。こんにち漫画やアニメ、ゲームなどのサブカルチャーにまで影響を残すこの概念は、貴種という選ばれた者が、身をやつして流離遍歴し、やがて世に出るという構造をもち、それが民族、民俗の基層にあると説いたものだ。この、現実の悲惨を救うための想像の構造分析、は折口が提唱したあと、その構造だけがロマン主義に回収され、やがてウルトラ・ナショナリズムを形成するに至る。昨日書いた「僕」の文体に通ずるところもある。
よって、いまなおその残滓は見られるわけだが、折口じしんは「現実の悲惨」のほうに比重を大きく置いている。それがこの小説に見られる。
芸能のふるさと
舞台は民俗芸能のふるさととでも呼ぶべき畿内からその外縁に及ぶ。
折口も親しく民俗採集でしげく通った道々である。住吉、伊勢伊賀、逢坂山、奈良から長谷寺、国見山。こころみに作中の地名を書きつらねてみると、古典とよばれる文学芸能のあれこれが立ち現れる。とうぜん、「田楽師」たち、中世の芸能者たちが本貫(ほんがん)の地をはなれて往来した故郷(ふるさと)である。
中世の芸能者たちは、それぞれの物語、歌、舞踊という芸能を保持して旅をした。これを唱導芸能(しょうどうげいのう)と呼ぶ。おおくは寺社に属し、その教義を宣布伝導するための、漂泊の布教者であり、その芸能は布教の「方便」であったとされる。そこから一般民衆とその民俗にひろまった唱導芸能は、書承の文芸よりはるかに広大な裾野をもつ。特定の個人によって書かれた文学は、近代以降の特異な現象とさえいえる。
源義経、曽我兄弟、小栗判官、百合若大臣そして「しんとく丸」などの「貴種」たちは芸能者とともに「流離」したのである。
小説作中では、田楽から猿楽へと推移してゆく歴史的な文脈も描かれている。その向こうには大和猿楽座に観阿弥の姿がほの見える。
その子世阿弥元清が「弱法師」を作能するに至るまでは、もう少し待たなければならない、そんな時代設定となっている。