誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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黒い奥

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人間は人間を恐れているのではないかと思って、古本を何冊か買った。いずれも世に知られた事件を扱ったものである。事件の詳細はだれでも調べられるであろうから省く。発行は2009年から2013年の間。昨日のような昔。

 

既視感

奇妙なことだが、著者たちの膨大であろう労力と根気と意欲にもかかわらず、固有名詞が違うだけで同じ本を読んでいる既視感にさいなまれた。こう言うと、本がつまらぬと言っているように聞こえるかもしれないが勿論、違う。

そういった既視感として受け止める気構えが筆者のなかにできていて、事件の記述を感受できなくなっていることに、さいなまれたのである。事件という出来事に遭遇することはもとより不可能だが、こころを痛めることすらない。こころを痛めるやりかたが思い出せなくなっている、とでも言えばよいだろうか。

こういった状態を一般的には、無関心、と呼ぶ。しかし、無関心は、関心が無いわけではない。関心からじぶんを除外しておくこと、関心にかかわって損耗することがないように見ぬふりをすること、それを無意識下に合理化することを指す。

「彼」の罪

事件が法律のもとに処理されていく一方で、容疑者をめぐって報道が行われる。加害者への批判、被害者への配慮。また、事件を調べたものは、書籍としてまとめられ出版も行われる。インターネットへの書き込みもこれらに含めてよい。それら情報は、筆者のところにも届く。

加害者、容疑者、犯人、受刑者、呼称はつぎつぎと変わってゆくが、ここでは「彼」と呼ぼう。

「彼」を中心に、事件を幾重にもとりまくそれらはすべて情報である。もっと言えば、情報しかない。当たり前ではないかと言われれば宜うしかないのだが、ほかに対応のしようがなくて已むなく情報で処理しているようなところがある。その客観的で合理的で数量化可能なそれに一縷の望みをたくしているようなところが。

かつてこの情報には、感情とか心とか人間性と呼ばれるヒューマニズムが対峙していた。対峙している、ということになっていた。もちろん、今でもその枠組みは存在しているのではあるが、その空疎さと不毛さにも、ひとびとは気づいている。

それは例えばニュースでも耳にしたことがある精神鑑定書である。精神鑑定は、起訴前、公判時に行われるものがあり、それぞれ数百頁におよぶ膨大な精神鑑定書が提出されるという。法律による決まり、精神医療の観点、さまざま理由はあるであろうが、なにゆえこれほどの情報が要るのか、いぶかしい。病気であるとか、異常であるとか、そういった原因、理由をなんとしても見つけなければならないという焦燥にすら見える。

十重二十重に、膨大な情報で取り巻きながら「それ」にだけは触れることを恐れている。そんな感じだ。なおかつ、誰もけして触れることができないという不可触性。「彼」が問われているのは、「それ」を喚起した罪ですらあるようにも見える。

「それ」の奥

「それ」には例えば「暴力」と名付けることもできる。訳のわからない恐怖から逃れるためにラベルを貼るように。確かに事件は殺人という暴力の行使によって発生し、暴力装置としての国家がその権力を行使して裁いた。しかし、それだけでないことをひとびとも筆者も気づいていて、恐れている。暴力の奥に、その黒い奥に潜んでいるものを。

そしてその恐れは、「それ」への渇望をも含んでいる。ヒューマニズムに欺瞞を覚えるのは、この二律背反性を捨象しているからである。ときとして「彼」がヒーローにさえなるのは、渇望に由来するとみていい。心理構造的には原始宗教とまるで変わらない。畏怖と崇拝、である。

情報化できるものだけが情報化され、その量は膨大にまた加速度的に流通速度を増していくが、「それ」はそのままなのである。

月並みなことを言っているようだが、この恐怖は、「それ」を生み出したものが人間でも社会でも制度でもシステムでも資本主義でもなかったら、という仮定の可能性があるからである。そうした意味では環境問題にも似ている。炭素排出と地球環境の悪化に、人類の営為が原因でなかったとしたら、どうだろう。人類は免責されるかもしれないが、人類に出来ることは何もないという事になる。環境問題はぜひとも人類の責任でなければならない。

「それ」に対して、原始宗教のごとき対応以外、方法がなかったとしたら、という怯えがある。死者たちは生贄か。

 

読めば読むほどわからなくなる。そんな読書をした。