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中島敦『李陵』転向をめぐって①

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中島敦『李陵・山月記新潮文庫(昭和44年9月20日発行)

『李陵』概略

中編小説。昭和18年7月『文學界』。昭和21年、小山書店初版発行。

あらすじを記す。

武帝の治世。李陵は匈奴との戦に敗れ捕縛される。武帝はその敗報に赫怒し、李陵の罪を臣下に諮る。帝に阿る諸臣は李陵を讒言誣告するが、ひとり太史令だけが大いにその忠勇を弁ず。司馬遷である。これによって遷は宮刑を受く。いっぽう匈奴に囚われた李陵は、単于に下ることを潔しとしなかったが、老母妻子弟が悉く殺されたことを知るに及び、匈奴に下る。李陵は中郎将蘇武が胡地になおあることを知る。蘇武は節を曲げず、十九年。その地にあった。やがて武帝は崩じ、陵と武は許される。蘇武は帰国を果たし、李陵はその地に残る。司馬遷はそのころ『史記』を完成させ、死去。李陵の死没、年号はつまびらかでない。

中島敦の漢文体については既に書いた。

dokusyonohito.hatenablog.com

作品のタイトルを論うのはよい趣味とは言えないが、李陵・司馬遷・蘇武の三者いずれも等しい比重で書かれているから、『李陵』と題するのは不思議な気もする。

はじめに書いた通り、昭和18年に発表された作品だが、前年17年12月4日に中島敦は没している。『山月記』も発表こそ生前に間に合ったが、17年2月のことである。作品発表とその反響という、書いたものと書かれたものの行末という、言語営為の果てを彼が見ることはなかった。毀誉褒貶とはいうが、批判悪罵嫉妬こと挙げその他訳のわからぬ馬鹿のたわごとに付き合ういとますら、中島敦になかった。神かなにかはしらないが、人の境涯とは無残なものである。

ちなみに、ふと気になって調べたら、武田泰淳の『司馬遷』も昭和18年であった。

年号のはなしばかりで恐縮だが、昭和16年真珠湾攻撃、太平洋戦争が開戦している。

いわずもがなの話だが、『山月記』も『李陵』も戦時下の文学である。

転向

文学史ふうにいえば、プロレタリア文学の崩壊から文芸復興期、そして太平洋戦争下での戦時下文学、というように辿れる。

昭和5年から本格的な左翼への弾圧がはじまり、昭和7年(1932)、いわゆる<32年テーゼ>という社会主義革命の決行を迫る声明のあと、文学の世界ではプロレタリア文学が徹底的に弾圧された。後世からみれば、超国家主義完成のちょうどいい踏み台になったようにも見える。

彼らの政治活動は結果として国家を大いに利した。社会批判の牙城を滅ぼしたことで、翼賛体制に向かう日本の国家と社会を止める勢力は、国内のどこにもなくなったからだ。

そして社会批判という根を失った文学文芸が流行する。世に、文芸復興期と呼ばれる時代であるが、もちろん、皮肉、である。しかし、ここで見ておきたいのは、谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫堀辰雄ほか、こんにちブンガクだと思われている作家たちはプロレタリア文学の退潮と消滅のなかから浮かび上がったものだということだ。

いっぽう、<転向>がもんだいとされるのも、この頃である。

今からみると、ひどくわかりにくい。政治犯、おおざっぱにいえば社会主義者たちであるが、彼らを捕縛投獄した日本国家は、彼らに<転向>をせまった。その信奉する主義を捨てると誓えば、多くは、許されたのである。

日本特有のやり方である。

諸外国の政治犯ではありえないやり方だ。

これは、一度言い出したことから<変節>すれば、彼らは日本の<世間>のなかでもう生きていけない、二度と活動は続けられない、という日本の風土と社会を利用した、実に狡猾なやり方である。

もちろん、中には転向を認めず獄中に残った者もあるにせよ、多くのプロレタリア文学運動に参加した作家は、なんらかの<転向>という節を曲げることを強いられ、結果として自ら<転向>を選んだのである。

絶対的な、強圧的な権力を前にしながらも、結果としては自分の意志で<変節>にいたった自身をどうみなし、どう考えるのか。かんたんな善悪では計れない。見かけほどたやすい問題ではない。

戦時下の転向文学

『李陵』は昭和18年7月『文學界』に発表されたとは既に述べた。

時代はすでに戦時下に入っていたが、ここまで文学史ふうに記したとおり、本作はある種の<転向文学>とみるべきだろう。

作中で、李陵や司馬遷が「恥」についてしばしば言及するように、ここでの「恥」は内面の問題ばかりではない。<世間>が個人をに対して科する制裁である。その「恥」でもって個人を搦めとってその口をふさぐ日本特有の<文化>を利用した政治・言論に対する制裁である*1。そしてこの「恥」は彼らが<転向>したことによって、あるいはしなかったことによって<世間>から科せられる。

この<世間>は作中司馬遷

全躰保妻子の臣(くをまっとうしさいしをたもつのしん)

中島敦『李陵・山月記』より引用

と呼んだものだ。家族のためと嘯きながら、保身に生きる臣下。もちろん、ふつうの、安全な生き方である。これに怒るとすれば怒るほうがおかしい。家族とともに幸せに暮らして何が悪い。法に触れたわけでなし、武帝の意向を汲む、つまり<空気>も読めないで、いたずらに正義を弄するものこそ処罰されるべきだ。世人みな<転向>しているのに、遷のみが<転向>に応じない。

そんな男は、あたうかぎりの恥辱を与えて、思い知らせてやるに限る。ゆえに、太史令司馬遷宮刑という「恥」をたまわる。

憤怒と恥辱にまみれた遷はこう言う。

このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、何処が悪かった? 己の何処が? 何処も悪くなかった。己は正しい事しかしなかった。強いていえば、唯、「我在り」という事実だけが悪かったのである。

※前掲書より引用

ほんとうに「正しい」だろうか。それとも間違っているだろうか。人間の規範となる善悪の道徳ではちょっと捌ききれない問題である。

かたや李陵は、捕縛はされたが「心」は売っておらぬと頑張る。一敗地にまみれたが、単于の首を取り、都へ戻ればすべては挽回されると夢見ている。陵の「心」を保証しているのは宮廷、都の人心、すなわち<世間>である。寡兵にて難地強兵に当たらせた<世間>にまだ幻想を見ている。だから、その「心」は彼のものではない。彼のもとに「心」はない。

ゆえに、陵は遷がかれの為に弁じたことを知っても「別に有難いとも気の毒とも思わな」い。陵みずからが自分に見出している義心は、<世間>のものだ。厳しい言い方をすれば、その<世間>を当て込んだ功利心だ。だから、老母妻子弟が悉く殺されたとき、陵は<転向>し、匈奴に下るのである。李陵は間違っているか。それとも「正しい」か。

そして蘇武がいる。李陵をして「痩せ我慢」を「大我慢」にまでなしたと言わしむる彼は何者であろうか。「持節十七年」はのちに顕彰されたが、武帝の崩ずることがなければ犬死に死ぬしかなかったはずの男である。武の存在は陵を不安にさせる。ここに至って、李陵は自身の「心」を見出す。

しかし、蘇武のそれは語られない。<転向>しなかった、というただそれだけが語られる。李陵が蘇武の「心」を思うのは、陵が陵の「心」と対話しているだけだ。<世間>は蘇武の忠節を讃嘆するに至るが、蘇武が「持節」して過ごしたそれが、果たして忠義なのか、いったい何なのかを知る者はないのである。人は、<世間>は、知りもしないことを絶賛、賛美、賞賛する。これに抗弁、これをいくら批判しても、けして<世間>は絶賛、賛美、賞賛をやめない。蘇武は「正しい」のか。間違っているのか。

 

戦時下、すでに戦後をにらんださまざまな清算が始まっていた。

中野重治などもそうだが、<転向>はたんに権力に屈したとか、抵抗したとかいう二者択一の選択のもんだいではなく、じぶんの唱え信奉した主張や思想を、じぶんで否定することによって発生する、生き方や倫理のもんだいである。

これが現在ひどくわかりにくいのは、最近、大塚英志が書いているように、現在が<戦時下>だからである。<転向>はその中にあると見えないのである。

<転向>を悔い、懺悔告白したからといって、それで済むものでもないのも<転向>の特徴で、ある。ブンガクに書いたからと言って必ずしも清算されない。

早世した中島敦はそれに拘わることはなかったわけだが、心事を司馬遷に仮託している書きぶりが傷ましい。もちろん、そこいらじゅうに、李陵や蘇武がいたわけだと読めないこともないが、当て込みをしだすと面倒なことになりそうなので、ここまで。

 

 

 

*1:ベネディクト『菊と刀