誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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誰かこの本を知らないか【5冊紹介】時代小説ほか

文学史をたどり直そうという、まあまあだいぶ無謀な試みをしているので、かならずしもそれに含まれない本も多い。

それで思い出したように消化しきれない本を紹介する。筆者の備忘録とも言う。

今回は時代小説、ほか。

司馬遼太郎国盗り物語

たぶん、司馬遼太郎の作品はおおかた読んだはずだ。ひどく面白いと思った頃があるのである。
こんにち的価値というなら恐らく『街道をゆく』かとは思う。
けれども、剣劇、忍者、時代小説から、歴史、のほうへ司馬遼太郎が向かってゆく画期はこの小説ではないか。近代日本を描くにつれて、〈司馬史観〉なる見当違いの批判を浴びるに至るわけだが(批判者は歴史と小説の区別がつかないらしい)道三から信長、光秀を繋げて「国盗り」を見出す叙述は、面白くて楽しい。徂徠の云った、古今の英雄を豆でもかじりながら批評批判する楽しみ、である。
司馬遼太郎の作品は、〈歴史小説〉ではなくて〈時代小説〉。その〈時代物〉を他の領域にも広げたことが功績で、本当の歴史だと思い込む向きを生んだのが罪つくりの罪かもしれない。

宮城谷昌光三国志

文藝春秋』雑誌連載当初、後漢楊震の「四知」から話がはじまったとき、筆者は不安になった。ずいぶん手前から始めたものだと思った。
そのうち単行本が刊行され、文庫本も発行された。もう『文藝春秋』を読まなくなっていた筆者は、つづきを文庫本で読んでみた。
まだ董卓が洛陽を焼き払っていた。
もう三巻である。
五巻でやっと官渡の戦い。八巻で英雄豪傑がつぎつぎと死没し、九巻で、出師の表。そして十巻「星落秋風五丈原」。やっと終わりかと思った。なにしろもう10年経っている。
ところが、ここからもう2巻続いた。読み終えればわかるが、なるほど英雄豪傑の活劇で知られた三国時代は蜀の滅亡と晋の成立までを描かなければ、足場のない空想みたいなものに堕してしまう。
そしてこの三国時代の終焉は、夏王桀から商の伊尹をえがいた『天空の船』以来書き続けた、漢字と漢語文明のひとつの終焉でもある。五胡十六国以降、大陸は騎馬遊牧民の有する地になるからだ……。
長い長い溜息をつくような、そんな読後感のある大作である。

吉村昭『天狗騒乱』

はたして時代小説に入れてよいものかどうか迷う。
歴史小説ではないか。
ともあれ、吉村昭の文体は、凄惨なできごとを淡々と描く。冷静である者のみが凄惨を見届けられるとでも言うように。
本書は言うまでもなく、幕末水戸藩の改革派天狗党の蜂起とその顛末を描いたもの。凄惨、という言い方をしたが、この蜂起の凄惨なるところは、これが歴史に何も産まなかったところだ。わが主と仰いだ一橋慶喜への嘆願は聞き届けられず、士分とは思われぬ扱いを受け、刑に処された。もちろん、天狗党が無意味に死んだように、天狗党も庶民に無用の死をたまわっている。
水戸学という学派につきまとう宿痾が、のちに大きな禍根を残すことを思えば、無意味どころが有害であったわけだが、有害に価値はない。

山本周五郎『楡ノ木は残った』

仙台伊達藩のいわゆる伊達騒動に取材した作品。
むかしは誰でも知っていた話だったが、きょうび原田甲斐と言ったってわからない。
もちろん、わからなくていいのである。
山本周五郎の他の作品どうよう、善人と悪人が、善人でも悪人でもなく、ただの人間でしかないことを描く作品。
また、戦後民主化の反動時代、逆コースの時代に書かれた作品でもあり、そのへんへの興趣が、この騒動に取材した作品をささえる背景にもなっている。

岩本憲児『「時代映画」の誕生』

時代小説ではないが、時代小説、時代映画の流行してゆく背景を詳述した一冊。
歴史小説と時代小説の定義の違いも、筆者はこの本で知った。
純文学だけ、大衆文学だけ見ていると見落としてしまう目配りのよさに著者の見識がうかがえる。
観客、見物、ファン、といった享受者の視点から論じているのは、文学者前田愛の一連の論文に通ずるものがある。作品の需要のされかた、についての本でもある。
「時代物」と呼ばれる物語世界が、「歴史」を侵食してしまうその起源をめぐるはなしにも読める。史実を連呼しながら物語世界でたわむれる現在のありようを再点検するためにも、読んでみても損はない。
時代小説を楽しむことと、歴史に向き合うことはほとんど別の営為であることを知るかもしれない。