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久保田彦作『鳥追阿松海上新話』毒婦の明治維新

解題

解題*1を始めに。

タイトルは『とりおいおまつかいじょうしんわ』と読む。

作は久保田彦作。掲載は仮名垣魯文の『假名読新聞』に明治10年12月10日から〈つづき物〉として連載された。今では珍しくない連載形式だが、もともと〈つづき物〉は、とうじの戯作者の収入安定から編み出された方法である。しかし、本作は当時の実学偏重の風潮により、連載は中止され、あらためて単行本として刊行された。

絵入りの合巻ということで本当は書誌に触れなければいけないのだが、今回は書かない。

また、明治5年に発令された「三条の教憲」以降、廃止同然になっていた戯作が再び脚光を浴びる第一作であり、また〈毒婦物〉の第一作でもある。はしがきを魯文が書いているが、あるいは本文にも彼の筆が入っているかもしれない、とされる。

次にあらすじを書いておくが、ちょっと長すぎるので飛ばしていただいてもいいです。

それから、差別表現が出てくるが、筆者はそれを容認するものではないし、助長する意図もないことを断っておく。

あらすじ

江戸は木挽町采女が原。*2

定五郎、お千代という「非人」の夫婦があり、娘を阿松といった。阿松の生業は、「鳥追」「女太夫」であった。*3

折しも明治維新のころ、江戸には「諸藩の兵隊大名」が「屯営」していた。母娘はこの「屯営」におもむき「女大夫」という門つけ芸で稼いでいた。

「屯営」する「徴兵隊」に濱田正司という男がいた。見目のよい阿松に言い寄る正司を、母娘は騙らい、二百円を騙し取る。衣類調度まで売って金を作った正司は隊長から禁足に処せられる。

阿松には吉という同じ「非人」の男がすでにいた。阿松はこの吉と語らって、こんどは浅草並木街の松屋という呉服店の番頭、忠蔵から店の金をゆすり取る。美人局である。

度重なる悪事に、江戸に居づらくなった阿松と吉は、吉の故郷である大阪へいったん隠れることにする。ほとぼりを覚ますためである。

東海道をのぼる品川で、二人は父定五郎の友、安次郎というこれも同じ「非人」の仲間のもとに泊まる。すると安二郎はこっそり「取締所」の「分営」に「注進」に及ぶ。褒美めあてに二人を売ったのである。

吉は捕縛され、市政裁判所にて裁かれ、明治3年2月、伊豆七島三宅島に配流となる。

いっぽう阿松は逃げおおせ、忠蔵と再会する。店の金を無くして自殺しようとしていたところを阿松は巧みに騙らって、忠蔵の故郷難波津へ落ち延びることにする。

ところが蒲原駅、正木の宿で忠蔵が病みつき、阿松も看病するところ、路銀を盗まれてしまう。途方に暮れていると、相宿していた甲州屋定次郎、駿府で芸者屋稼業と名乗る男があらわれて、金を出してくれるという。もとより病人の世話が嫌になっていた阿松はこれに同意し、駿河で芸者をすることにする。

しかし、じつは路銀を盗ったのは定次郎で、本当の名を、「凶状持ち甲府無宿*4の根方の作蔵」。三島から阿松に目をつけていて、蒲原で阿松忠蔵を陥れたのである。

蒲原から海沿いへと連れ出された阿松は手籠めにされそうになる。やにわに逃げ出した阿松だが、海に転落する。それでもたまたま遠州灘を航海する東京の廻漕丸という蒸気船に救われる。阿松は身分を暴かれそうになるが、ひそかに盗みおいた、忠蔵の「守り袋の臍の緒書き」で大阪の者と偽りまぬがれる。

船は神戸につき、「臍の緒書き」*5を種に、大阪心斎橋博労町、忠蔵の親、「桝や忠兵衛」のもとを訪ねる。阿松は忠兵衛夫婦に、忠蔵が路中に死んだといつわる。髪を切り落とし、尼になって菩提を弔うとの演技の迫真をして、うまく忠兵衛夫婦にとりいろうとするところに、濱田正司が現れる。来歴を暴かれた阿松は身分を明かし、そのまま捕縛される。

正司は、一旦は禁足となったが後に許され、「官軍御発行」の先鋒となり、奥羽の役に罪許されて出陣し、これがきっかけで出世していた。

阿松捕縛は正司の一計で、連れ出した阿松に、正司はじぶんの「妾」になるよう口説く。

阿松は長町浦の妾宅におちつくこととなる。

半年後、妾宅通いで身を持ち崩している正司は免官寸前になっている。正司の本妻安子は本邸に阿松を引き取ることにする。本邸に本妻妾同居しはじめたそのころ、「新政」「御発令にて」「御仁恵の御沙汰」にて放免された吉蔵が、正司の厩の中間(ちゅうげん)になっていた。

阿松は下女のおさよを味方につけ、吉へと手紙をおくり、中間部屋で再会する。

するとそこに「忠僕」佐助がふみこみ、不義の現場をおさえる。一旦はゆるされるが、二人は狂言をしくむ。

安子の実家より安子の弟洋行の不足二百円を用立ててほしいという手紙を盗み、さらに正司の手箱から二百円を盗みだして、小箱の傍らにその手紙を落としておくと、正司は安子が盗んだものと思い込み、安子を物置に監禁する。その後、安子は佐助に助けだされ逃げるが、佐助は主人に背いた責から自殺する。

正司は、この佐助の死を正しく届け出もしなかった罪により、職を免ぜられ拘留される。正司は、己の余罪を思って絶望し「囚獄所」にて果てる。

阿松と吉の二人はふたたび今度は東京へ逃げ延びることにする。

師走のころで、神戸は摩耶山のふもと、こんどは根方の作蔵にでくわす。山で狩りをしていた作蔵は手に鉄砲をたずさえ、吉に襲いかかる、吉は匕首で応戦する。吉は崖から転落。阿松は作蔵についてゆく。如月の末に、阿松は鉄砲で作蔵を殺そうとするが失敗。山刀で阿松を殺そうとする作蔵に、鉄砲の音に驚いた熊が襲い掛かり、組み合ううちに作蔵は谷底におちる。

そしてそのまま雪の山中に倒れていた阿松を、旅僧が助ける。

事情を聴いた僧は懺悔する阿松と師弟の約をするが、妖艶な顔が障りになると考え、阿松の顔を「火器」で焼く。この僧は故郷の、甲斐巨摩群延山寺村まで連れてゆき、悪業と死者たちの菩提を弔わせるが、その暮らしに飽きた阿松は、逃げ出す路銀のために僧の金を盗もうとするが発覚する。寺を追われた阿松は、顔を焼かれたせいで顔がただれたまま千住までたどりつく。

いっぽう忠蔵は、息子を探して江戸に下る途中の父忠兵衛と蒲原にて再会。松屋の主人に詫びをして、松屋へ戻り、その後は自分の店をもつまでになる。そして、西新井の弘法大師へ参詣のおり、零落した阿松を見かけ、憐れんだ忠蔵は金をめぐんでやる。

明治10年2月9日に阿松は死ぬ。

毒婦物

突然〈毒婦物〉と言われて読者も困るだろうが、男勝りの女性が主人公で、ゆすり騙り、殺人などの犯罪をくりひろげる一連の戯作を、そう称する。

もともとは歌舞伎から来たものである。

それというのも、歌舞伎・戯作・花柳界・浮世絵が相関して文芸をなしていたのが江戸期における世俗文学だから、歌舞伎と戯作は今思うよりはるかに距離が近い。仮名垣魯文河竹黙阿弥と親交が深く、魯文は歌舞伎評論でも名高い。

もうちょっと言っておくと、江戸後期の歌舞伎は人形浄瑠璃にとってかわられていたから、正確にいうなら、人形浄瑠璃を加えなければいけないが、わかりやすさの利便上、歌舞伎、と言っておく。

本作『鳥追阿松海上新話』で言うと、忠蔵の親、忠兵衛宅で正司に身分を暴かれた阿松が

いつ迄知れぬと思いの外、釘をさされた其のお詞(ことば)、斯(こ)う顕れる上からは今更包むも詮なきこと。此身の素性を打明せば、羽生の小家(こや)の賤しい身のうえ、幼少(ちいさい)時から母親(おっかあ)が教えた敦賀新内節、弾(ひく)三弦(しゃみせん)が調子づき、采女の原の葭簀張で粂三阿松(くめさおまつ)といわれた体、女だてらに素人衆が、何の彼のといわれたので、一人や二人は宿(うち)へとめ、色に此身を切売もだんだんに、越た遠州灘沖に……*6

言うまでもない。『白波五人男』だ。

弁天小僧は女装して身分を偽るのに対し、阿松はその才覚と美貌で「非人」であることを偽るわけだ。

男の言いなりになるのではなく、逆に手玉にとって次々と男の身を滅ぼし、死に追いやるとも、それに痛痒など覚えない、そんな造形が〈毒婦物〉の特徴で、本作はそこに被差別者を主人公として据えたものとなる。

解放令

背景には明治4年(1871)の解放令がある。

明治四年八月二十八日発第六十一号布告
穢多非人等の称を廃され候条自今身分職業共平民同様たるべき事*7

もちろん、これは一夜にして解決されることなく、長い長い闘争として続く。

dokusyonohito.hatenablog.com

しかし、この明治10年前後までの開明開化期、その啓蒙と実学尊重の風潮のなかで、「阿松」は、その上昇志向の興趣をもって迎え入れられたものだろう。

「温故知新の大実録」(本作、仮名垣魯文による序文から引用)

と魯文が記すように、「明治初年の戯作や歌舞伎が、実学尊重の風潮に迎合して事実性をことさら強調した」*8ことは知られている。

同時代のベストセラーを思えば、たとえば福沢諭吉の『学問のすすめ』であり、加藤弘之の『国体新論』である。

自由民権運動に接続する自由平等主義はみなぎっており、解放令の発布にしても、明治4年1月に、土佐藩士・大江卓の意見書から、民部省の採用するところとなり、民部卿大木喬任が同1月に「穢多非人烟亡(おんぼう)を平民となすの儀」を出し、解放令発布に至るという速さで、政府内にも同じ機運が醸成されていたとみてよい。

もちろん、それは早々に画餅に帰す。維新の志が、破綻してゆく過程としての明治史がここにもある。

毒婦の明治維新

「非人」である阿松が、「徴兵隊」隊士や「呉服屋」の番頭というこれまで自分を差別して来た階層に向かって上昇、侵食してゆくエネルギーは何だろう。

明治維新は、一面的には幕末の一揆打ちこわし、ええじゃないかなどの体制を破壊するエネルギーを討幕に転化したもので、新政府という新たな体制はこれを段階的にとりしまってゆく。何度も触れたとおりだ。

しかし、この横溢するエネルギーを、例えば福沢諭吉は〈学問〉による〈立身出世〉という、功利的な方便で、なんとか社会制度のなかに収めてゆくことをはかったわけだ(『学問のすすめ』参考)。結果としてその「功利的な方便」つまり〈立身出世〉だけが残ったことは周知のとおり。

また、維新は、近代イデオロギーによる革命ではなく、中世以来の徳政一揆に見られる〈世直し〉願望が反映されているとみたほうが、よい。そして、こうしたなかで、〈学問〉に回収されない、回収しえない願望、欲望が〈毒婦物〉の受容を生んだのではないか。

そして、阿松は、徴兵隊隊士から番頭という町人、武家の娘、やくざ者、僧侶までを遍歴する。それまで階層化されてた身分を縦横に動き回る。上昇したいという欲望のなせるものながら、作品のなかで四民は平等なのである。平等に毒牙にかかる。

結末の因果応報はかえすがえすも残念だが、これは戯作というものの、お約束だから仕方ない。それでも、阿松は、ある意味で、明治維新の本懐を遂げたのである。

 

*1:『明治文學全集1 開化期文學集』筑摩書房

*2:『江戸名所図会』巻一によれば木挽町四丁目「采女が原」五丁目に「歌舞伎芝居」とあり、浄瑠璃ほか見世物小屋がかかっていたらしい。この場合の歌舞伎、浄瑠璃は民間芸能としてのそれ。

*3:「非人」の女が行った初春の門付け芸。室町期にはすでにあったようだ。職業化する以前は、田畠の害鳥を追い払う予祝行事の一つであった。諸国の大社の神事にも、鳥追いの式がある。江戸では元日から中旬ころまで新しい綿の着物に網笠をかぶり、常の浄瑠璃とは異なる節で、三味線・胡弓を弾きながら、何人かで連れ立って門付けをした。中旬以降、笠を管笠に替えるまでを「鳥追い」と言い、それ以後を「女太夫」と呼んだ。単なる門付け芸も「鳥追い」と呼んだようだが不詳。『國文学 解釈と鑑賞』昭和37年10月号参考。また喜田川守貞『近世風俗志』岩波文庫に「(非人)小屋の妻娘は女太夫と号(なづ)け、菅笠をかむり、綿服・綿帯なれども新しきを着し、襟袖口には縮緬等を用ひ、紅粉を粧ひ、日和下駄をはき、いとなまめきたる風姿にて、一人あるいひは二、三人連れて、三絃をひき、市店門戸に拠りて銭を乞ふを業とす。往々この女太夫に美人あり。市店には一文与ふのみ。他国より勤番の下士等は、邸窓の下に呼び、二、三銭を与え一曲を語らせ、あるひは花見遊山の所多く女太夫徘徊する時、かの士酒興に乗じ杯を与へ、烟管をともに吸う等言語に絶せり。」このほうが本作には近いかもしれない。

*4:喜田川守貞『近世風俗志』岩波文庫を参考にみると、「非人」と「乞食」の違いは、前者が「市中に出て銭を乞ふことはあれども、食を乞はず」という相違。また「乞食、京坂にてはこじきと云ふ。江戸にては、やどなしと云ふ。無宿なり。」とある。

*5:「ほぞのおがき」。歌舞伎ではおなじみの身分由緒を明かすお守り。古浄瑠璃にも「膚の守り」「はだのまぼり」など見え、系図を記し肌身に持っていたものと見える。説経節『さんせう太夫』で厨子王丸の由緒が知れるのもこの趣向による。

*6:前掲書引用

*7:高橋貞樹被差別部落一千年史』より引用

*8:前田愛前田愛著作集』第四巻「幻景の明治」「高橋お伝と絹の道」より引用