この世に悪人はいるであろうか。人がひとりでは生きられない以上、必ず善人でさえ悪人とも手を結ぶしかないとすれば、それは悪人であろうか。それは善人であろうか。
それでも有史このかた、人類は悪人という象徴を、とりわけ政治家に必要とした。彼は人類の嫌われ者である。
有能で見識があって必要悪に手を染める勇気があり、誰も知らないところで自己犠牲に身を挺し、このうえないほど憎まれた。その仕事は省みられず、すがたと面つきばかりが戯画化され、遠巻きに嘲弄され、近い者は面従腹背した。家族ですら家族でなく、場合によっては自らも敵であった。
彼は恫喝することをためらわない。私腹も肥やす。なぜなら善人こそが、金で転ぶことをよく知っているからである。善人のように金が好きなわけではない。
人間には「生まれつき」と「めぐり合わせ」で果たさなければならない役目がある。その天命はだれにも下っている。しかし誰しも良い役ばかりをやりたがるから、多くはその天命は無用に終わる。
悪人としての天命を受け、後世誰にも知られることのない、それへと邁進しつづけた彼。
ちなみにインテリは政治家が嫌いである。このインテリは善人で、善人は政治家が嫌いで、虐げられた者が嫌いで、女が嫌いである。彼らは男である。日本人の男である。
この、善人の男たちに嫌われ、忌まれ、畏れられた人間があったとすれば、彼の人生は何であったのだろう。そんな関心があって、本書を読んだ。
彼と彼女は「不都合な真実」であるゆえに、ひとりの人間が負いきれるか怪しいくらいの悪罵と嫌悪と「差別」を浴びた。ひとびと、という日本の男たちは、その「真実」が科学的論理的に「真実」でないことを証明しようとした。その証明は、なされたかもしれないし、なされなかったかもしれない。
筆者はあたまが悪いから判定、判別できない。生きている、あるいは生きていた人間が「真実」であったかどうかなど、誰に分かるだろう。
それでも確かなことは、彼と彼女が、「不都合な真実」であることに反駁し、相手を屈服させることの不可能性に対峙しながら、「不都合な存在」であり続けることを選んだことことだ。
敢えてこの本を読んだ。読んだことを敢えて筆者は書いた。時代錯誤で、日本人の男が喜ばないことを。
読んでも人生は豊かにならないし、賢くもならない。
しかし、書かれている内容の辛酸を舐める真似くらいは、もしそれが人生ならば、してもいいはずだ。