誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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坪内逍遥『河竹黙阿弥伝 序』歌舞伎の歴史

坪内逍遥が「新旧過渡期の回想」*1と題して、明治初年から10年あたりまでの文学の動向を、懐古的に記している。

小説神髄』を著して、ちょっと外に類例のない実践編を含む概括的な理論書をものした逍遥だから、目配りがきいていて、全体像をつかむことに優れている一篇になっている。

明治10年で区切る、というのは数字としてキリがいいからではなく、この年に西南戦争があったからである。不平士族の乱に見られる維新のやり直し、その武力抵抗が終焉を迎える。これを受けて、そののちの自由民権運動は、言論による維新の素志を継いだものとなる。西南の役で、鎮台兵の大砲や小銃が薩兵を攻略したように、新聞・雑誌によって形成される世論を、明治政府は新聞条例や讒謗律でとりしまり、その記者たちを下獄せしめた。成島柳北末広鉄腸、藤田茂吉。

文学史でいえば、政治小説ならびに翻訳小説の時代となり、長谷川二葉亭の文壇への登場で明治20年。このあたりになると急に目の当たりが明るくなるのは、小説偏重の文学史でものごとを捌いていけるからである。

はなしを戻す。

歌舞伎の歴史

逍遥は明治10年までの「民間文芸」を振り返ってこう書いている。

社会一般は、まだまだ四分六分の継粉よろしくで、ほんの橋渡しが済んだばかりの過渡状態に止まっていた。随って其反映である所の民間文芸が混沌未分の境に彷徨していたのは自然の数である。其うち劇だけは、作者に、五瓶、南北以来の巨匠河竹新七の其水(黙阿弥)がおり、三世治助や三世如皐がおり、若手の俳優には、――最も多く嘱望されていた彦三と田之助は、ちょうど其頃相ついで夭折してしまったものの、――例の団、菊、芝、左が恰も躍進しはじめた時であったので、むしろ一種新鋭の意気を発揮しはじめていたともいえる*2

さて、これだけではわかりにくいので、小西甚一の『日本文学史*3を頼りに歌舞伎史をたどってみる。

江戸初期

まず、歌舞伎の隆盛は安土桃山から江戸初期にかけてである。そして元禄期には初代団十郎藤十郎が東西にあった。ただ、このあたりは不詳である。文字だけで書かれた創作にくらべて、舞台で演じられることで一回ごとに完成する演劇は実態が伝わりにくい。能狂言の台本、謡曲集などをいじくり回したテクストだけを独立させた分析も、ずいぶん昔からあるが、たいして面白くはない。演劇は演じられて観られなければ完成しないのである。

そして、歌舞伎の場合、その黎明期にすでに東西の二大俳優をもってしまったために、役者をまず鑑賞するという今にまで通じる観劇法を確立してしまった。そのせいもあって正徳年間(1711-1715)にはいると、話の筋が売りの人形浄瑠璃に圧され、やっと宝暦年間(1751-1764)に勢いをとりもどす。

江戸中期

歌舞伎再興の功績者は、大阪の並木正三。そして江戸では桜田治助(初代)。今、鑑賞観劇されている歌舞伎はこの時代の後継である。せり上がりや回り舞台は並木正三の工夫である。また、初代治助が、今でも観られる、常磐津、富本(とみもと)、豊後節系統の浄瑠璃を地方(じかた)につかった舞踊劇を数多くつくった。治助が改良に大きくかかわった「助六」は江戸歌舞伎の傑作のひとつとなる。

浮世離れした江戸歌舞伎に対し、京阪の上方歌舞伎は世話物をよくし、両者の融合をはかったのが初代並木五瓶であるが、このころ松平定信による寛政の改革がおこる。

弾圧された歌舞伎は、舞台技巧と官能的刺激に活路を求め、鶴屋南北(4代目)の時代となる。知られたところで仕掛けと早替わりで、有名な「東海道四谷怪談」では技巧と官能、といっても暗い官能が、尽くされている。

南北において、ある種の、悪の美学が見いだされ、5代目松本幸四郎が活躍した。

江戸後期

文化文政以降、扇情的な、濡れ場、殺し、に見せどころを置く。そして成熟した観客は、定型化した芝居を求めるようになる。このころ清元がおこり、清元・常磐津・富本のほか長唄が地方になり、七変化、十二箇月などの短い舞踊がつくられる。

幕末には市川海老蔵(七代目団十郎)があらわれる。九代目団十郎において実現する「勧進帳」の新作など時代に先んじた取り組みがあった。

そして嘉永年間から登場するのが河竹黙阿弥で、四代目市川小団次、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、七代目市川団蔵と、それほど詳しくなくとも名前くらいは知っている名優たちに、描き分けた手腕は特筆すべきものがある。

しかし、明治20年まで、君臨といってもいいほどの名声と権力を歌舞伎にふるった黙阿弥の保守性は、江戸歌舞伎の集大成をこそなしとげたが、近代劇への変化を妨げ、いわゆる歌舞伎の近代化、は二代目市川左団次を俟たなくてはならないのである。

古典芸能と近代文学

なんだか、Wikipediaみたいなことを書いてしまったが、演劇ではなく〈文学〉として見た歌舞伎はちょっと論じようがないのである。舞台を観た楽しさが、詞章をいじくるつまらなさを際立たせる。観るものではあっても、読むものではない。

舞台上で、身体性や空間性に飛躍拡大してゆく楽しさを切り捨てたところに、文字だけによる〈文学〉が成り立っている。

おそらく読者のおおくが呆れたであろう、今回の歌舞伎史は、近代文学が捨てた古典の遺産のひとつである。もちろん、歌舞伎は滅びもしなかったし、今なおある。けれども、戯作と花柳界と浮世絵とが混然と文化をなしていた世界は今ではちょっと想像が難しい。

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前に三島由紀夫の『近代能楽集』をほんの少しだけ書いたが、たぶん、三島は能楽堂で〈観て〉いない。〈観て〉この作品を書いたかどうか疑わしい。筆者は〈読んだ〉ものだろうと思う。しかし研究者でもないから、証明もできないので、明らかに疑わしい「弱法師」一篇だけを取り上げた。

しかし、仮に三島が〈読んだ〉としても批判とか非難のつもりはない。

江戸期の文化が混然と一体化していたような回路が、近代文学には無いのである。

逍遥と黙阿弥と桜痴

「『河竹黙阿弥伝』序」*4坪内逍遥の手によるもので、黙阿弥の評伝評価としては随一のものだ。

近松門左衛門を「徳川文芸の興隆期に於ける最初の最大の集大成者」とし、黙阿弥を「其頽廃期に於ける最後の集大成者」とする評価はおそらく今なお変わらない。

逍遥は、江戸期の歌舞伎・浄瑠璃は「遊戯本位」で、黙阿弥もそれを免れることはできないが、「生の観察の比較的真面目にして細緻なるは彼れが作の特徴」であるとする。

そして黙阿弥が、依田学海や福地桜痴による〈演劇改良運動〉への「指導」と「橋わたしの役」をつとめたことを、功績に挙げている。しかし、啓蒙開化期の〈事実性〉を重んじる「活歴物」は先にも挙げた九代目団十郎によって実現するものの、歌舞伎は歌舞伎の中に閉じてゆく。とくに桜痴の〈運動〉への興味は渡欧したさいに観たシェークスピアに由来しているものだ。

こうしたなかで、黙阿弥は桜痴から依頼されてエドワード・ブルワー=リットンの『マネー』の翻案『人間万事金世中』を作っている。観ていないからなんとも言えないが、話の筋立てを見るかぎり、世話物として成立しているのか分からない。

また黙阿弥がグラント大統領来日に『後三年奥州軍記』を仕立てたのも、桜痴がかかわっていたらしいが、これはもう別の話なので措くしかなさそうだ。

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小西甚一『日本文学史

今回参考にした小西甚一『日本文学史』は、〈文学〉を言語営為とその創作全般まで広く視野をもった文学史である。ドナルド・キーンが絶賛といってもいい評価をし、解説も書いている。歌、漢詩漢文、能狂言連歌俳諧、草子物、歌舞伎浄瑠璃から近代文学まで、「雅」と「俗」という美学的な基準で手際よく整理されている。

文学ジャンルの相互関係、相関性を述べた文学史を筆者はほかに知らないので今回参考にしたものである。

 

さて、今回はいつもにもまして散漫な話になったが、「其頽廃期に於ける最後の集大成者」である黙阿弥以降、歌舞伎=演劇と近代文学はだんだんと袂をわかってゆく。歌舞伎が歌舞伎に閉じてゆくと書いたが、近代小説もその中に閉じてゆく。たとえば漱石や鷗外などは、〈文学〉が諸文化の総合的なものであることを知っていたが、相互的な回路は閉ざされて、〈文学〉は小説を指すようになってゆく。

この作文ではずっと先の話だが、この〈文学〉が純文学と呼ばれ、やがて完全に滅び、漫画やアニメーションやTwitterのつぶやきの一分野になるところまで書けるかどうか。

そんな見取り図のために名著の力を、今回借りた。

 

*1:『明治文學全集2 明治開化期文學集(二)』所載参考。引用は仮名遣いと旧字体をあらためた。

*2:前掲書より引用

*3:講談社学術文庫

*4:『明治文學全集9 河竹黙阿弥集』所載参考。引用は仮名遣いと旧字体をあらためた。