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読むことについて書かれた作文ブログ。

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福沢諭吉『学問のすゝめ』維新と腐敗

明治初年は文芸文学の空白地帯とされる。

それを埋めてあまりあったのが福沢諭吉『学問のすゝめ』や中村正直『西国立志伝』、他、明六社同人の啓蒙活動である。

その「実学」への偏重は、文学はともかく明治以降の「学問」のありかたを決めた。それについては明六社のはなしになるから譲るが、近代文学史が近代思想史からはじまることは、不思議といえば不思議である。

少なくとも『学問のすゝめ』は、文学っぽくない。

それは昔のひともそう思ったようで、この作文でもしばしば参照にしている筑摩書房の『明治文學全集』はその第一巻を「開化期文學集」と銘打って戯作文学からはじめている。

正しいかどうかまでは筆者には分からないが、れっきとした編集方針が察せられる。

第一、二巻を戯作にさき、第三巻で明六社。それから政治小説、翻訳小説とつづいて、第八巻目にしてやっと福沢諭吉を配置している。

すぐれた全集というものは、背表紙だけでも勉強になるらしい。

さて、言わずと知れた福沢諭吉の『学問のすゝめ』。筑摩の全集には載っていない。手に入りやすいものは他に譲る、というのが編集方針だからだろう。これも『明治文學全集』の特徴である。

著作の多い作者の場合、取捨選択に編集子の苦労がしのばれる。

よって今回は、青空文庫の『学問のすゝめ』を使って読んでいる。管理者並び耕作員諸氏に深く感謝する。

『学問のすゝめ』初編から第三編

思想家で思想の暗さがないのは福沢の特徴で、それをよく表わしたのが『福翁自伝』である。からっとして快活なところは『氷川清話』とともに明治の自伝物、その双璧をなしている。しかし、死ぬまで政治家であった海舟は『清話』といいながら、韜晦をちりばめていて、言葉のままには受け取れない。その点、福沢のほうが発言に負債が軽くてすんでいる。立場と生き方の違いである。

幕臣から転じて在野の教育家・思想家としての明治を迎えた福沢諭吉は、当時すでに一級の著名人であった。『西洋事情』はじめ著書は、旺盛であった西洋文明にたいする知識欲によってよく読まれ、よく売れた。

しかし、それは西洋文明の紹介屋のしごとで、思想家としてのそれではなかったとも言える。そうした中で、系統だっているとは言えないが、少なくとも読み書きができるなら誰でも分かるように〈思想〉を述べたのが、『学問のすゝめ』になる。

初編は明治5年(1872)2月刊行。これが飛ぶように売れたとは服部撫松の回で記したとおりだが、翌6年に第二編、三編、7年に第四、五編が刊行。明治9年までに全十七編が書き続けられ、今見る形と内容の一書が完成する。

この作文では、初編から第三編までに触れる。構成と内容上、四編以下とは分けて読まれるべきだろう。

攘夷から開国

何度も言っているが、明治5年は、版籍奉還廃藩置県の強行とその意外な成功に意を強くした新政府が、海外視察に向かったその年である。

もちろん「意を強くした」のは福沢も同じであった。

そもそも明治維新には、言ってみれば、詐術があった。国内の尊王攘夷派や草莽の諸隊、農民一揆などの勢力を討幕にもちいたが、これらをことごとく裏切ることで維新政府は成立した。dokusyonohito.hatenablog.com

そのためには神権的な天皇をいただく政体をも、一時的にとはいえ採用さえ、した。*1

しかし、明治4年(1871)太政官職制を定め、政権の枢機を薩長土肥で独占する有司専制体制を敷く。目的は、近代文明国家をつくるためで、反対勢力を権力から放逐した。

まず旧大名が版籍を失った。尊攘勢力の牙城であった刑部省と弾正台は廃止、司法省へ移管。大学は文部省へ、神祇官は神祇省へ格下げ。民部省は大蔵省に合併されて国内財政の中央機関になり、宮廷からは女官がいっせいに罷免された。また事実上の東京遷都が確定するのも同じ時期だ。四民平等。「穢多・非人」の称の廃止。

暗殺の心配

開明開化へと一気に舵が切られたのである。福沢が「意を強くした」のは、じしんの「開明文化論」がうけいれらる情勢になったという判断である。この判断の背景には、

私の言行は有心故造(ゆうしんこぞう)わざと敵を求める訳(わ)けではもとよりないが、鎖国風の日本に居て一際(ひときわ)目立つように開国文明論を主張すれば、自然に敵の出来るのも仕方がない。その敵も彼是(かれこれ)喧(やかま)しく言うて罵詈(ばり)するくらいは何でもないが、ただ怖(こわ)くてたまらぬのは襲撃暗殺の一事です。*2

と「暗殺の心配」という一章を立てて記しているように、開明反動派による「暗殺」が、現実の心配としてあったということがある。それまでの福沢が、読者を知識人層にかぎった「紹介屋」にとどめていたのは、こうした現実情勢も影響しているだろう。

こうした「心配」が杞憂でもなんでもないのは、明治2年には大村益次郎が襲撃され、落命していることからも窺われる。政治家が政争によって殺されるのは、桜田門外の変以来ずっとつづいていた現象だが、明治になったにも拘わらず、純粋なテクノクラートであった大村の死は、福沢を「心配」させたに違いない。

そうしたなかで、政府による開明開化政策に、抵抗や反動がなく、むしろ新文明を受け入れようという機運の高まったことを見た福沢は、彼の思想を、知識人に限らず、大いに語り始めたのである。

『学問のすゝめ』初編

本書が〆て十七編あることはすでにふれたが、初編から第三編までは意味内容からひとまとめにできそうだ。第六編以降になると文体も変わり、多少知識が無いと難しくなる。そして時代情勢を反映して、論旨もすこし変わってくる。

よってまず、初編から第三編までで、くくって読む。まずは初編。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言へり。*3

読んだことがなくとも誰でも知る書き出し。天賦人権論と呼ばれる人権思想、それから平等が説かれている。とはいえ、貴賤貧富、賢不肖は存在する。それを「学問」によって越えることができるというのが福沢の説く平等と権利である。

「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。

明治4年に刊行された中村正直の『西国立志編』にも見える〈自助論〉である。むりやり延長させれば、こんにちの自己責任論にまでつながる誤解を生む元だねとも言える。そしてその学問によって結果としての「貴賤・貧富」の違いが出てくることを述べた上で、

学問とは、ただむずかしき字を知り、解(げ)し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上の実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦(よろこ)ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴(とうと)むべきものにあらず。

学問の虚実を分け、「実学」の貴ぶべきことを指摘し、

士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身を独立し、家も独立し、天下国家を独立すべきなり。

という。「文学」と言っているが、漢文を筆頭にいただいた古典世界および、儒教国学からの離脱を指している。ちなみに、福沢を襲撃しようとした中に増田宋太郎がいたことは『福翁自伝』にも出てくる。増田は福沢にはいとこにあたるが、水戸学を学んだ尊攘派の人物である。「調法なれども」「さまで」というあたりに、断言しきらない逡巡が見える。

いっぽうで、

学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生まれつきは、繋(つな)がれず縛られず、一人前(いちにんまえ)の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自在とのみ唱えて分限(ぶんげん)を知らざればわがまま放蕩に陥ること多し。

J・S・ミルの『自由論』に見えるような、ある種の〈愚行権〉によって、「自由」を補足、定義している。

そして「自由独立」を「人」から「国」に拡大して同様の論をすすめる。「自由独立」によって「互いの交わりを」「結」ぶことができると説く。

支那人などのごとく、わが国よりほか国なきごとく、外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)夷狄と唱え、四足にてあるく畜類のようにこれを賤しめこれを嫌い、自国の力をも計らずしてみだりに外国人を追い払わんとし、かえってその夷狄に窘(くる)しめらるるなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にて言えば天然の自由を達せずしてわがまま放蕩に陥る者と言うべし。

アヘン戦争以降、大いに国力を落とした清国への批判は、手厳しい。のちに『脱亜論』に結びつく視点である。また、アジア的封建性が西欧文明に屈するすがたに同情しないのは、福沢自身の幕臣としての経験、封建的機構の内側にいた経験からの分析であろう。清国の凋落に対し、日本は王政復古により「政風大いに改まり」、

今より後は日本国中の人民に、生れながらその身につきたる位などと申すはまずなき姿にて、ただその人の才徳とその居処(きょしょ)とによりて位もあるものなり。

儒教に基づく身分制はなくなったのだから、

人々安心いたし、かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、これを包みかくして暗に上(かみ)を怨(うら)むることなく、その路を求め、その筋より静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。天理人情にさえ叶うならば、一命をも抛(なげう)ちて争うべきなり。これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。

これこそが「自由独立」の「人民」のすがたであるとする。こうした「自由独立」を守るためには「一命をも抛」つべきだが、しかしそのためには前提となる「物事の理」を知らなければならない。よって、これを知るために「学問」が「急務」なのだと説く。

しかし、ここに「自由」のために暴力に訴えることは否定する。

知恵なきの極(きわ)みは恥を知らざるに至り、己(おの)が無智をもって貧窮に陥り飢寒に迫るときは、己が身を罪せずしてみだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、はなはだしきは徒党を結び強訴(ごうそ)・一揆(いっき)などとて乱暴に及ぶことあり。恥を知らざるとや言わん、法を恐れずとや言わん。

先に述べた〈自助論〉と同じ理屈のように見えて、為政者の視点である。あるいは社会の混乱を予見した理屈である。政治の主体が、どこにあるのかわかりにくい。読みようによっては民権論から民主主義、共和主義から無政府主義アナーキズムまで引き出すことも可能だ。よって「徒党を結び強訴・一揆などとて乱暴」は許されないとそれを否定するわけだが、この「乱暴」への抑止は、「恥」と「法」という儒教ふうの道徳倫理を持ち出すしかない。フランス大革命以降の混乱が念頭にあったものか。

また、「愚民の上に苛(から)き政府あり」と「西洋の諺(ことわざ)」を引用した福沢は、「学問」によって「智恵」を身につけ、「文明の風に赴」けば、「良政」の政府をいただくことができると言い、

大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行いを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政(まつりごと)を施すに易(やす)く、諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。

と結ぶ。

『学問のすゝめ』の目論見

江戸末期から横溢していた〈世直し〉の機運と意志が、討幕維新へと歴史を動かしたことは先に述べた。そのエネルギーは、強大と思われた幕府という政治権力をも打ち倒すものであった。これに何らかの方向性をあたえて矯めなければ、その矛先が新政府に向かうことは火を見るより明らかなことであった。

明治4年太政官職制他の政策は、政治によるこの方向性の提示であり、『学問のすゝめ』はとうぜんこれに呼応したものだ。けして抽象的な理想論ではありえない。

ややもすれば無政府主義を志向しそうなそれを、つなぎ止め、方向性を与えようとする意図が見える。

「自由」「平等」を唱えたから福沢先生は偉いんだろうと思って読むから、そう読めるだけだ。今なお生き続ける思想、というなら、今だに果たされていない思想とも言えるのである。

啓蒙思想の弱点は、抽象的な、普遍的なことがらを論じている場合には、威風堂々、敵するものはないのであるが、それを具体的に社会にあてはめて論ずる際、急に調子が弱くなる点にある。

四民平等を唱えた論旨は、具体化されると「分限」をわきまえるという儒教的階梯のはなしになってしまうし、四海同胞の世界認識に、「支那」は含まれない。

しかし、この背反した論理も含めて、というより、この二律背反の矛盾こそが民衆に広く受け入れられた秘訣なのではないか。その都合のいい矛盾が。

さきに自由民権運動と言ったが、明治の労働争議や社会運動は、この矛盾を突いたものである。「徒党を結び強訴・一揆などとて乱暴」する暴力的側面を含む〈世直し〉への希求が、活動家たちをそこへ導く。そして、彼らがことごとく潰えていく例は、たとえば草莽の相良総三が諏訪で斬首されたように、いくたびも繰り返される。

もとより、それら頓挫の原因はひとつではないが、日本的風土の特徴とだけ言っておく。以前書いた中野重治の『村の家』にも繋がるそれは、矛盾が、活動家や知識人が論理的に批判するよりも、ずっと緊密に、権力と民衆を結んでいることだ。矛盾は矛盾だが、それによって権力と民衆はひそかに結託しているのである。

おそらく福沢はそこまで見抜いたうえで、新しい思想を「すゝめ」る。しかし、新しい倫理、思想を支える倫理は提示しない。それが末尾の「一身の行いを正し、厚く学に志し、博(ひろ)く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて」云々である。修身斉家治国平天下。福沢の否定した儒教そのものではないか。

しかし、幕末から襲撃暗殺謀殺にさらされた、そしてそれを生き延びた福沢は、生きる「智恵」を身に着けていたはずだ。正しいことだけを正しく言う者がつぎつぎと斃死してゆくのを見すぎるほど見ていたろう。

しばしば、明六社中、福沢諭吉だけは体制寄りでなかったとされるが、ほんとうだろうかというのが筆者の疑念である。

穏健な中立派こそが体制を支えるのは古今変わるまい。

『学問のすゝめ』第二編、第三編は、好評を博した初編につづいて書かれたもので、初編の補足とその敷衍である。

素読と会読

古来世の人の思うごとく、ただ文字を読むのみをもって学問とするは大なる心得違いなり。*4

これは素読が、初等教育であった当時には新しい考え方であっただろう。

福翁自伝』に「年十四五にして初めて読書に志す」の項に、初めて素読を習った話がでているが、素読はまずともかく読むことだけを覚え、しかるのち「会読」といって意味を取るのだが、初歩であっても福沢は素読を教えてくれた先生に「会読をすれば、必ず」「勝」ったと言っている。また、緒方洪庵適塾の教え方も同じであったようだ。「素読を授ける傍らに講釈をも聞かせ」「文典が解せるようになったところで会読をさせ」たものらしい。

ここで福沢は学問の種類を挙げて「心学」「神学」「理学」を「無形」とし、「天文」「地理」「窮理」「化学」を「有形」としている。とうぜん、いずれも「知識見聞を開く」ためのもので、「文字を読むことのみを知りて物事の道理をわきまえざる者はこれを学者と言うべからず」と。

そして、実地になにごとをかなさない学問は「無用」すなわち実学という考え方が示される。

天賦人権論

ここまでが第二編の「端書」でつづいて「人は同等なること」として人間の平等を説く。「権理道義の等しき」と書いている。

その喩えとして「大名」「人足」「役人」「商人」あるいは「相撲取り」「お姫様」とこの世にさまざまな「人々」があるけれど、

その権理通義とは、人々その命(いのち)を重んじ、その身代所持のものを守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心の動きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛けを設けたるものなれば、なんらのことあるも人力をもってこれを害すべからず。

前回は天賦人権論とかんたんに書いて澄ましていたが、この福沢の説くところは、個人に不可侵の権利が先験的にそなわっているのだとしたら、社会の主体者はその構成員である個人になる。たとえば加藤弘之は福沢と同じ天賦人権論を主張していたが、のち〈転向〉して儒教の身分制を認める。人はもともと不平等だという考えにかわる。民選議員設立には時期尚早を唱えるに至る。

それは政治的、現実的な判断であったといえようが、権力の暴圧に抵抗する民衆に〈言葉〉を与えたという意味で『学問のすゝめ』の価値は重い。家永三郎の『革命思想の先駆者』(岩波新書)という植木枝盛の評伝によれば、外国語のできない植木枝盛は「三田と明六社」の講演に足しげくよったらしく、また『西洋事情』や『学問のすゝめ』を愛読していたという。

腐敗と擾乱

しかるに今、富強の勢いをもって貧弱なる者へ無理を加えんとするは、有様の不同なるがゆえにとて他の権利を害するにあらずや。これを譬えば力士がわれに腕の力ありとて、その力の勢いをもって隣の人の腕を捻(ねじ)り折るがごとし。隣の人の力はもとより力士よりも弱かるべけれども、弱ければ弱きままにてその腕を用い自分の便利を達して差しつかえるなきはずなるに、いわれなく力士のために腕を折らるるは迷惑至極と言うべし。

言うまでもなく、「力士」は政治権力の謂い、「隣の人」は国民民衆の喩えである。

「そもそも」と福沢は言う。

そもそも政府と人民との間柄は、前にも言えるごとく、ただ強弱の有様を異にするのみにて権理の異同あるの理なし。百姓は米を作りて人を養い、町人は物を売買して世の便利を達す。これすなわち百姓・町人の商売なり。政府は法令を設けて悪人を制し、善人を保護す。これすなわち政府の商売なり。この商売をなすには莫大の費えなれども、政府に米もなく金もなきゆえ、百姓・町人より年貢(ねんぐ)・運上(うんじょう)を出(い)だして政府の勝手方を賄(まかな)わんと、双方一致のうえ相談を取り極めたり。これすなわち政府と人民との約束なり。

ちょっと長く引用してしまったが、明治5年のいわゆる留守政府において、前回見た太政官制改革から始まった国内整備は加速した。攘夷思想から急な開明思想への転換は、多くの反動的な混乱を巻き起こした。*5

民衆のあいだには、たとえば戸籍制度や徴兵令に関して文字通りの膏血を絞るためだなどの風聞が伝播し、新政府に反対する一揆が各地で起きた。被差別民部落への放火、殺戮も発生し、維新そのものを否定する動きすら見せていた。

また新政府の財政も、廃藩置県によって財政規模こそ拡大したが、支出のうち1/3は家禄支給であるという悲惨とも言うべきありさまであった。

そして、明治5年(1872)、山城屋事件が起きる。陸軍御用商人山城屋和助がとうじ65万円(一円あたり今でいう二万円に該当か)にのぼる陸軍省の公金を借り受けていたが、返却に失敗し、同年11月、陸軍省一室で証拠書類一切を破棄して自殺した。江藤新平司法卿は近衛将校とともに厳しく追及したが、和助の自殺により追及は頓挫した。しかし、山城屋による長州閥への多額の遊興費の贈賄もあきらかになった。

さらに明治6年(1873)、これも陸軍御用達三谷三九郎が投機失敗により破綻。明暦以来の豪商であったが、山城屋同様、陸軍省からの公金の前貸しが発覚した。

また、明治4年に起きた尾去沢鉱山払い下げをめぐる疑獄も発覚。それぞれ山縣有朋井上馨は、辞任、罷免されたが新政府の職権乱用や贈収賄がはびこっていた。

厳しく追及を行ったのは江藤新平だが、明治6年に江藤は下野。さらに翌7年佐賀の乱連座して梟首された。「梟首」に山縣や井上の憎悪を見るべきだ。

よって、「権理の異同あるの理なし」の一文は原理論でありながらも、ただの一般論を述べているのではない。また、「政府と人民との約束」は社会契約論のことだ。

しかるに幕府のとき政府のことをお上(かみ)様と唱え、お上の御用とあらばばかに威光を振うのみならず、(中略)旦那が人足をゆすりて酒代を取るに至れり。沙汰の限りと言うべし。

「幕府」と言っているが当然、新政府のことをもさしている。そして、平等は、法の下の平等へと論が進む。

およそ人を取り扱うには、その相手の人物次第にておのずからその方の加減もなかるべからず。

しかし、「人民」における蒙昧も新政府同然であることを言う。

その無学のくせに欲は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁(のが)れ、国法の何ものたるを知らず、己(おの)が職分の何ものたるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子繁盛すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず。

つまり、

これすなわち世に暴政府のある所以(ゆえん)なり。ひとりわが旧政府のみならず、アジア諸国古来みな然り。されば一国の暴政府は必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず、その実は人民の無智をもってみずから招く禍なり。他人にけしかけられて暗殺を企つる者もあり、新法を誤解して一揆を起こす者あり、強訴を名として金持の家を毀(こぼ)ち、酒を飲み銭を盗む者あり。

ずいぶんと引用ばかりしてしまったが、最後に新政府の改革に反対した騒擾をあげておく。

明治5年(1871)8月、広島芸備16郡での「郡中百姓騒動」。廃藩置県に伴い、藩主浅野公が離藩すれば、「世の中は暗闇の様に成る」という藩主の東京移住に反対したものである。流言飛語繁く、「太政官は異人が政事を取扱う処」。あるいは、庄屋に太政官が「耶蘇宗の秘仏」を渡した。「異人」に百姓の娘や牛馬を差し出せたなど。太政官が異人に支配されているという誤認と、藩主という「お上」不在の不安から騒動になった。*6

また同年9月には旧福山藩でも藩主を引き留めるため、官員宅や富豪の家に放火があった。このときも、芸備16郡同様の流言がなされた。

さらに同年暮れから翌明治6年にかけて、高知県北西部でも同様の騒擾があった。

明治6年(1873)に発令された徴兵令がこれを加速させた側面があり、明治7年(1874)には秋田県平群郡では「血税」の誤解による騒擾事件が起きた。

挙げればきりがないので、もう止すが、以上は『明治初年農民騒擾録』に詳しい。

ただ、これらの騒擾の対象でもっとも数多くの死者を出したのが被差別部落襲撃であったことを付け加えておく。

腐敗した政府に、蒙昧な人民、そしてその人民はさらに弱者をなぶりものにする。

 

『学問のすゝめ』は、抽象的な理想論ではなく、今そこにある現実への批判と啓蒙の書であったのである。

 

*1:以下『岩波講座 日本通史』第16巻「一八五〇ー七〇年代の日本ー維新変革ー」安丸良夫を参考

*2:岩波文庫福翁自伝』より引用

*3:青空文庫『学問のすゝめ』より引用。以下引用は同書による

*4:青空文庫『学問のすゝめ』より引用。以下引用は同書による

*5:以下『岩波講座 日本通史』第16巻「一八五〇ー七〇年代の日本ー維新変革ー」安丸良夫を参考

*6:以下『岩波講座 日本通史』第16巻 鶴巻孝雄「民衆運動と社会意識」を参考