誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』読むことの帰する処

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村上春樹回転木馬のデッド・ヒート講談社(1985.10.15第一刷発行)

まいにち同じはなしをしている。評論文、感想文もとより研究論文ではないが、さてこれなんだろうという作文である。筆者もわからない。筆者じしんが、よくわからなくなったところから書き始め、分からないことだけを考えながら書いているためではないか。構造的欠陥とも、言う。

とはいえ、今のところ、ほかに方法も思いつかないので、このまま書く。

自己言及的いいわけ。

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地の文

前回までの「タクシーに乗った男」で「僕」の語り、という言い方で筆者が拘泥したものは、一般には、地の文、と呼ばれるものだ。もともとは、作中にあらわれて、講談師や落語家のように話を回す役割を担う人物であったものが、やがて人称を失って、後景に埋没した。そういった意味では日本文学には懐かしい、近代文学以前の「僕」でもある。

国木田独歩のような人からそれが始まり、数人をのぞいて、やがてそれに誰も疑問を持たなくなったのである。馴致されたリテラシーとでもいえばいいだろうか。作者と、作中の語り手との間隙が見えなくなったときに、フィクションでありながら同時に真実でもあるという、ある種のリアリティを獲得したわけだ。この間隙、すきま、を無意識に作者読者ともに見えないふりすることを、両者の狎れあいだとはすでに書いた。

なんで、狎れあっていけないかと言うと、帰するところがないからである。

リアリティの作中に、作者読者ともに遊び、熱中することで、作者読者の現実に帰すべき人間の欠片が取り残されたままになるのである。本を閉じれば本が閉じられると思うのは気休めである。たとえば、なにがしかの作品の大ファンで、作中に現れたあれこれの消費財を身辺にならべて暮らしているとすればそれは、いっしゅの遊びではあるが、作中のリアリティが現実に侵食している証拠でもあるだろう。

遊びと現実の区別がつかない、ということを、したり顔で言いたいのではない。それが「ほんとうに」区別がつけられないまま生きる辛さ、そのことを言いたいのである。

帰するところ

筆者は、帰するところ、と言った。

小説的リアリティというものが、現実のリアリティを形成していて、じつは、帰するところがないのである。そのせいで、現実と思しきそれら万象を小説のように解釈し、小説のような人生を歩んでいる。

繰り返しになるが、村上春樹はそれを「我々はどこにも行けない」と傍点を振ってまで書いている。

筆者が、ファンからは喜ばれず、アンチ・ファンからは一顧だにされないであろう、こんな作文を書いているのも、こうした在り様を、実際に現実に自分の手で確認したいからである。それというのも、理屈は必ず理屈に倒れるもので、また、虚実の区別をつけましょう、と言って済ませようとする態度は、必ずそれに祟られるからだ。

じっさいに目の前の本を読んで、敗れ去ったり、四苦八苦したり、じたんだを踏んだりする必要があるのである。その方法を、たとえば他人の文学理論を用いたところで、ほかの科学とは違って、人文学の営為はきほん手作業である。しかも、それは理論の原理上、製作者専用である。言語、言葉というものがいったい何であるか依然わからない以上、その然らしむところだ。

なんだか屁理屈ばっかり言っていやがるが、読者がじぶんで読むこと、を筆者は書こうとしているのである。どうやら。できるのかね。

「僕」の目論見

「僕」を通して作家が作中でやろうとしていることは、その目論みは、序文に示されている。「スケッチ」とは、ずいぶん苦しい言い方で言い表されているものだが、「小説」でも「物語」でもないと言っている。もちろん、それは「小説」や「物語」として読めば読み誤つことを指している。

よって本作『回転木馬のデッド・ヒート』は、ものすごく、読みにくい。馴致されたリテラシーに引きずられながらも、なんとか踏みとどまらなければならない。

逆に言えば、どこが「小説」「物語」でなのかを読めばいいわけだが、そんな簡単でないのはすでに書いた作文のとおりである。筆者は賢くないのである。

ここまで序文からわずか2編を読み終えた。そしてそれがどうやら、小説以前に戻ろうという意図のもとに書かれていることが分かった。疑念を、起源に遡って検証しなおすという手作業が行われていることも、どうやら確かそうだ。

筆者はそれが手作業ゆえに信じている。そして、なんじゅう年かぶりで本書を開きページのこちら側で、かじかむ手をこすりながら、読むこととはなんだろうと考えている。