仮名垣魯文『安愚楽鍋』娼妓の語りから太宰治へ
明治初年の文学が、と書き出した時点で、だいぶ読むひとを遠ざけている。
インターネットの特徴だが、好きなものだけ集まる仕組みなので、興味ないことは日々に疎い。村上春樹と書いたらずいぶん読まれるが、成島柳北と書いたらその数はぐっと減る。しかし、堀辰雄と書けばまた大いに増えるから、明治初年という時代に固有の読みにくさが原因かもしれない。
明治初年の文学とジャンル
まず時代が遠い。そして一般的に文学と思われているものと様相が異なる。
A)漢学、国学、和歌、歴史、思想的著作
この時期の文学は、大まかに上のような分け方ができ、さらに、A)を「雅の文学」、B)を「俗の文学」とわけることができる。そして、「漢学」から順にヒエラルキーをなしている。
上記の段階から、「戯作」を抜き出して、これを「小説」則ち「文学」へと昇華発展させようというのが逍遥の『小説神髄』で、以降、この「小説」への極端な偏重が、近代文学の歴史をなしている。研究者ならともかく、筆者のようなただの読者にとっては、過去に向かってかけられたバイアス、偏りと歪みのせいで、ひどく読みにくい。
文学ってこんな感じ、という感じが通用しないからである。
逆にいえば、露鷗や漱石、あるいは一葉あたりまで時代を下ると、こんな感じ、でとりあえずは読める。今でも読める。それは、明治後半からの、近代文学という大きな括りがいまだに続いている証拠でもある。もうすこしいえば、その制度性は明治後半に確立して、そこから免れることなく今に至っているとも言えるだろう。
そして、江戸期の文学でもなく、近代文学でもない、端境期となる明治初年は、前後の時代の要素が入り混じって、いささか混沌としているように見えるわけだ。制度性という言い方を続ければ、この混沌は政治と社会のそれで、制度性の空白地帯に、明治初年の文学はある。混沌といえば混沌。自由といえば自由。
ただ、視点の基準を、明治初年のほうに置くと、「小説」のほうが異質であることは言うまでもない。
仮名垣魯文『安愚楽鍋』
魯文は、幕末すでに一定の成功をおさめていた。*2しかし、維新とともに後援者を失った。パトロンがいなければ、恒産のない魯文はたちまち窮すほかなかったが、明治3年(1870)に『西洋道中膝栗毛』を刊行。もともと、瓦版や流行歌をつぎつぎと書き飛ばした「際物作家」であったから、他の戯作者たちが廃業や転職してゆくなで、いちはやく時流に乗れたものであろう。
もちろん、戯作者としての才覚と、知識は別物であるから、『西洋道中』の記述はだいぶ怪しい。
そして翌明治4年(1871)に刊行されたのが『牛店雑談 安愚楽鍋』である。
膝栗毛ものの形式から転じて、式亭三馬の「浮世床」のように、そこに集まるひとびとの会話を集約したスタイルと、同じく三馬の「古今百馬鹿」に見える或る典型を描き出す手法で書かれている。
西洋好(せいようずき)、堕落個(なまけもの)、鄙武士(いなかぶし)、野幇間(のだいこ)、諸工人(しょくにん)、生文人(なまぶんじん)……
ぜんぶ引用するのはやめておくが、牛鍋屋に居合わせたという設定で、これらの典型化された人物がそれぞれ、時世と自身について語る。
衣は骭(かん)に至りイ、袖はア腕(わん)に至るウ腰間秋水(ようかんしゅうすい)。鉄を断(きる)べしイ。人触(ふる)れば人を斬(きり)。馬触るれば馬を切るウ。十八交(まじわり)をむすぶ健児(けんじ)の社(しゃ)ア。*4
野暮と田舎者を笑うのはお決まりだが、今からみれば別に面白くはない。悪ふざけが過ぎて、却って笑いに転化する現実らしさのバランスを失っているようにも見える。
これじゃ、あんまりだ。
「娼妓」の語り
そんななかで以外に面白いのは
娼妓(おいらん)の密肉食(あくものぐい)*5
歌妓(げいしゃ)の坐敷話(ざしきばなし)*6
の二編。
どちらも今でいえば水商売の女性たちで、仕事の「愚痴」を相手に語っている。とりあえず、「娼妓の密肉食」から引用。
ネエ、おはねどん、お前の前だが伊賀はんという人もあんまり卑怯な人じゃないか。この節、上方から芸子(げいこ)とか舞子(まいこ)とかが訪ねて来たので、わちきの処へはぱったり足がとまった、そのはずじゃああるけれど、切々と来るじぶんにゃあ、ヤレ身請(みうけ)をしようの、親元へ掛け合って貰い引(ひき)をするのと、無理往生にわちきの体へ疵を付けたり証文をかかせたりしたくせに、樽漬けが出来たから、モウ用はねえというイタチの道を切ったようでサ。今度焼け出されたから尋ねて行きゃ、留守を使って中宿(なかやど)の二階へ上げっぱなしの客人を見たように、さんざんぱら待たせた挙句が、取り込んでいて会われないから、いずれ茶屋迄訪ねるからとサ。*7
「愚痴」という語りが、はしばしに娼妓の人生や背景をのぞかせて、まるで「小説」のようになっている。
おい木村さん信さん寄っておいでよ、お寄りといったら寄っても宜(い)ではないか、又素通りで二葉(ふたば)やへ行く気だろう、押かけて行って引ずって来るからそう思いな、ほんとにお湯(ぶう)なら帰りにきっとよっておくれよ*8
一葉の『にごりえ』冒頭である。
不思議なことだが、「女性の語り」になった途端、「近代文学」が発動したかのように見える。
女性の独白体形式
たとえば太宰治は「女性の語り」による独白体形式の小説を数多く残している。また谷崎潤一郎の『盲目物語』。調べればほかにもたくさんあるだろう。これらは、おおく、文学史家をして古典王朝文学に起源を求めしめた。曰く『土佐日記』『とはずがたり』しかしか。
しかし、作家や文学史家の自意識とは別に、起源はそんなに古くないだろう。
小説的文学観で文学史をむりやり説明しようとして、却って足元を見失っているようにも見える。
冒頭挙げた文学ジャンルの一覧にしたがえば、王朝文学は「雅の文学」、『安愚楽鍋』は言うまでもなく「俗の文学」になる。
『小説神髄』以来、「戯作」を卑しみ、その卑陋からの離脱と離陸を、近代文学=小説はかかげたし、またそれは成功したように考えられているが、その断絶よりずっと多くの連続を残していると見た方がよい。
このあたりの消息は、柳田泉はじめ明治文学の研究者がすでに論じていることであるから、筆者の発見でもなんでもない。
筆者の思う不思議は、こうした「女性の語り」の歴史的な持続性、その息の長さである。これはジェンダー論を持ち出すまでもなく、この「女」は男性が抑圧して作り出した幻想である。そして、ここにおいては「幻想」の最たる「娼妓」の語りであることを見逃してはなるまい。
「戯作の娼妓」の「語り」が発生とは口が裂けても言えないから、王朝文学を持ち出したのかと勘繰りたくなるが、たわむれである。いや、どうだろう。
さしあたって、文学と戯作は思った以上に距離が近い、ということを一先ず確認したところで結論とし、終わりにする。