誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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村上春樹『雨やどり』幻想の向こうの娼婦

思い出したように村上春樹の小説について。

とりあえず『回転木馬』を読み終えよう。

dokusyonohito.hatenablog.com

前に何を書いたかまるで覚えていないので読み返したら、羞恥にまみれた。読み返すものではない。

さて、『雨やどり』である。

明治初年の本ばかり読んでいたから、なんだか未来の小説を読んでいるような気になる。今回はみじかく書く。

村上さんらしき「僕」が冒頭から「個人的な話」をしている。そして太字で「我々は多かれ少なかれみんなお金を払って女を買っているのだ」という。

しかし、高度な資本主義下では人間の性愛ですらも売買される、というなら何も不思議なはなしではない。「自然発火のごとくにセックスが生じるものだという考え」のほうが、ナイーブすぎて、よっぽど疑わしい。

そして話は、かつて少しだけ「村上さん」と仕事をしたことのある女性編集者の話になる。今回は彼女のはなし。とあるバーで雨やどりしているときに、「僕」が聞いた話だ。

それを要約すると、「我々は多かれ少なかれみんなお金を貰って男に買われているのだ」ということになる。

彼女が、不倫相手と別れたところから話は始まるが、彼女が直面したのは、それはかつて彼女が結んだ不倫関係に潜んでいて、顕在化しなかった性愛の実相である。

一人きりに耐えきれなくなった彼女が、男に買われるのは、人寂しいからだけではない。買うこと、売ることの関係性のなかにしか性愛が成立しないというその事実に直面したからだ。つぎつぎと関係する相手をかえてゆく娼婦に彼女はなる。

彼女の不倫相手である男性が投影していた、疑似的な、妻・恋人・愛人という関係は幻想である。吉本隆明ふうに言えば〈対幻想〉である。しかし、相互に思いあっていたわけではない。彼女が協力することで共有される幻想の関係である。しかし、会社の異動をめぐって、男性にとってだけ都合のいいそれに気づいた彼女は、共有をやめる。つまり、別れ、会社を辞める。

このとき、彼女は、男の幻想が支配する不倫という関係と、同じ幻想から成立している会社、いずれもやめる。降りた、のである。

男の幻想とは、彼らは、妻・恋人・愛人を「お金を払って」「買っているのだ」が、それを捨象して、見て見ぬふりをして、あるいは全くそれに気づかずに、まるで「自然発火」のように内面化していることを指す。よって、幻想の都合が悪くなれば、もとより幻想だから、任意に捨てることができる。

しかし、月並みに言えば、男を捨てて生きることを彼女は選べなかった。経済的な関係性のなかにしか成立しないその性愛を彼女は生きようとした結果、彼女は娼婦にならざるをえない。

彼女が、相手の男たちについて職業その他社会属性は覚えているものの、「内面的」にいかなる人物であったかを記憶していないのは、その幻想を共有することを拒んでいるためだとみてよい。

この「内面」の極致に、母なる幻想があるのは言うまでもないといったら、まるで上野千鶴子だな……。

しかし、聴き手である「僕」はこれに同意も、批判もできないことだ。

それをすると、男の語るフェミニズムという珍妙な立ち位置に落ち込んでしまう。

「山火事みたいに無料」だったと語る心事が那辺にあるのか筆者にはわかりかねるが、男は同意するかもしれないが、女性は必ずしも頷くものではないだろう。

しかも、彼女も、ほんとうの娼婦にはなれない。一回限りの関係に継続性はないし、「内面」を共有しない関係性は不可能である。批判することと、可能性は別のところにある。

そして、彼女にはボーイフレンドがおり、結婚も考えている。一時は失職していた彼女も、再び仕事をはじめ、またあの男の幻想が支配する社会に戻ったからだ。

それは幻想の雨をさけるための、ほんの仮の宿り。

それは「雨やどり」であったのだ。