誰かあの本を知らないか

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内田義雄『戦争指揮官リンカーン』明治日本の幸運な時間

今のところ、明治10年あたりまでを書こうとしている。

近代文学はまだまだ現れない。明治14年が一応の目途になるのではないかと目算を立てているが、これまで役に立ったためしのない目算だ。あてには出来ない。

文学でなく、歴史で語ればいくらか見やすい。開国維新、版籍奉還廃藩置県征韓論から西南戦争まで。これで明治10年である。

激動、だなんて生ぬるい。ちょっと急ぎすぎである。それでも、世界史のなかで非常な幸運な時間に日本はめぐり合わせたから、それを生かした、ともいえる。

幸運な時間

明治から少し遡って、この「幸運な時間」を年号で辿ってみる。

1840年 アヘン戦争。1841年、天保の改革

1853年 ペリーの来航。1854年、英仏のクリミア戦争への介入。これが2年つづく。同年、日米和親条約

1858年 日米修好通商条約締結。前年1857年からヨーロッパは経済恐慌が起きている。

1861年 アメリ南北戦争。これが1865年まで続く。

1868年 明治維新

1870年 普仏戦争にてフランスは敗北、第三共和制宣言。

1871年 廃藩置県岩倉使節団ドイツ帝国成立。宰相ビスマルク

1873年 三帝同盟。ビスマルク外交。

1877年 西南戦争

列強が日本にかまっている暇がなかったわけだが、累卵之危というか、薄氷を履むような危うさのもと、なんとか近代化した。これが神風ふうな理解のされ方をするようになると、尊大な自尊心が肥大化してくる。日露戦勝あたりから明確になってくる。

それはさておき、来航して日本を開国せしめ、初めに不平等条約を結ばせたのはアメリカである。アメリカに、どれくらいの侵略の意図があったか筆者にはわからないことではある。けれども、この遅れてきた植民地主義国家がそのまま触手をのばしていれば、距離的に植民地にはならなかったろうが、港のひとつふたつ租借地にくらいはなっていたであろう。

南北戦争

独立戦争からはじめて年中戦争をしている人口国家が、アメリカという国のひとつの顔である。そして戦争だから人が死ぬ。戦死者数で見てみる。*1

独立戦争:4434人

米英戦争:2260人

メキシコ戦争:13283人

南北戦争:624511人

米西戦争:2446人

第一次世界大戦:116516人

第二次世界大戦:405399人

朝鮮戦争:36574人

ベトナム戦争:58209人

湾岸戦争:382人

人口比で言うと、第二次世界大戦における戦死者が0.3%であるのに対し、南北戦争は2%。50人に1人が死んでいる。

そして「南北」とは言うが、たとえばリンカーン夫人メアリーの兄弟は南軍に投じて戦士しているし、南部連合デーヴィス夫人の親族は北軍に属している。南軍のリー将軍のいとこサムエル・リーは北軍の海軍の指揮官。北軍ポーター提督の子息たちは、南軍の英雄とされたストーンウオール・ジャクソン将軍の配下。

骨肉相食むとは言うが、同じ時期の戊辰戦争西南戦争とは比べるべくもない。

こんにちのアメリカが、「分断」をヒステリックに恐れている背景には、南北戦争の経験と記憶がよみがえるからではあるまいか。ぎゃくに言えば、トランプはそれを逆手にとっているとも言えるが……。

電信の時代

今回とりあげた内田義雄『戦争指揮官リンカーン』は、南北戦争を「電信」の視点からとらえなおしたものである。

リンカーンの政権はサイモン・キャメロンを戦争長官に任じた。彼は旧知の仲であったトマス・スコットに鉄道と電信線の確保を要請した。スコットはペンシルヴァニア鉄道の副社長である。ワシントンに呼び出されたスコットは陸軍大佐および戦争省次官補に任命される。

そしてスコットは右腕とも呼ぶべき若い助手を連れていた。のちに「鉄鋼王」と称される若き日のアンドルー・カーネギーその人である。当時26歳で、ピッツバーグ地区の鉄道および電信管理を任されていたという。

そしてカーネギーはスコットの命で「戦争省電信室」を立ち上げる。ホワイトハウスの隣にあった戦争省の一室に電信室をもうけ、各前線の司令部と電信線で結ぶというものだったようだ。

この「戦争省電信室」にリンカーンは足しげく通うことになる。戦況を把握し、やがて戦争そのものの指揮を執り始める。本書タイトルの「戦争指揮官」はそういう意味である。

南北戦争の推移は、本書を読むか、ネットでしらべていただくとして、やがてこの田舎弁護士上がりの「戦争指揮官」はU・S・グラントを見出すに至る。南北拮抗、やや北軍不利の情勢をひっくり返したのがグラント将軍であることは良く知られている。

しかし面白いのは、たとえばミシシッピ川制圧作戦など重要な作戦遂行になると、ワシントンとグラント本営との通信がしばしば「不通」になることである。

電信室に情報として挙がってくる、いわばデータ、を分析して「指示」を出してくるリンカーンが、グラントにとってはだいぶ厄介だったようだ。前線と司令部の違い、現場と会議室の違い、なんていえば分かりやすいかもしれない。

モニターの前であたかも世界を把握しているかのように評論批評する先駆けでもあったわけだ、リンカーンは。

グラント大統領

なんだか駆け足で書いて、戦争の推移を書かないのは戦死者の数をえんえん書きたくないからだ。グラント将軍の成功は、南軍の死者による。リー将軍が名采配を振るえばそれだけ北軍が死ぬ。死屍累々。ほとんどドーソンの『蒙古史』同然である。

なお、救国の英雄となったグラントは、1868年、合衆国大統領にえらばれる。ちょうど明治維新と同じ年である。また1872年には横浜から出立した岩倉使節団アメリカにいたっており、大統領のグラントと対談している。

ところが大統領になったグラントは将軍としては優秀であったが、政治家ではなかったようだ。汚職事件および先住民政策で失敗し、2期まで務めるもののその後完全に失脚する。そして、雲隠れというか、ほとぼりをさますために1877年、世界周遊の旅に出る。この年、日本では西南戦争が起きている。

グラントの旅のその第一歩目はイギリス。ヴィクトリア女王のもてなしをウインザー城に受ける。それからヨーロッパ諸国をめぐり、エジプト、インド、タイ(当時はシャム)、中国をおとずれ、明治12年(1879)、日本に至る。

この来日が明治天皇にあたえた印象は相当強かったようだ。ドナルド・キーンの『明治天皇』二巻に詳しい。

汚職事件の醜聞はアメリカ国内に限られたもので、グラントは南北戦争の英雄としてだけ知られ、どこでも熱狂的な人気を誇ったそうだ。その人気は、黙阿弥が新富座で「後三年奥州軍記」で歌舞伎芝居にした。あろうことか、グラントを八幡太郎義家になずらえた演目である。また仮名垣魯文は『格蘭氏伝倭文賞』(ぐらんどしやまとぶんしょう)という伝記を書いたそうだ……。

のちに大洋をはさんで「最終戦争」にいたる日米両国の、これもまた「幸運な時間」であったと言えそうだ。

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*1:以下、内田義雄『戦争指揮官リンカーン』文春新書参考