ドナルド・キーン『明治天皇』全4巻 新潮文庫(平成19年3月1日発行)
老獪ともいえる韜晦を含んだ、読み応えのある本である。
読者という、自分の読みたいものしか読まないワガママ者の、浅ましくも健気なその欲求に応えながら、書いておくべきことはちゃんと書いてある。それでいて、『明治天皇紀』に多くの出典を求めているから、天皇制の賛美者も批判者もともに同意しないわけにはいかない表現と内容となっている。
能、能楽の話題がとくに取り上げられているのは、キーンの研究テーマと教養ゆえであろう。日本人より日本のことを知っているくせに、ガイジンぶって書いているのは、そうした態度をニホンジンが好むことを、キーンがよく知っているからであろう。そして、奇跡によって歴史と人物を賛美しない態度は、学問的というよりは、海軍情報士官であった際に身に着けた職業的な態度で、終生変わらなかったにちがいない方法であろう。
読みながら筆者が想起したのはルース・ベネディクトの『菊と刀』だ。
根底には野蛮を見る目がある。ベネディクトが文化人類学者という植民地主義の先兵であるのに対し、キーンは文学者という世間的には毒にも薬にもならない好事家であるにしても、それでも、根底にある構図と構造は同じである。
その目は、アルカイーダやタリバンやチェチェンや、ソマリアの海賊を見る目と変わらない。
名誉白人であることを擬態して、まんまと自己欺瞞をやりおおせた日本人に、日本は見えない。自己欺瞞とは、自分の見たいようにしか自分が見えなくなることだ。そしてその罠に陥ることを自ら求めることだ。
単行本初版は平成13年。西暦2001年。
歴史的に振り返れば、戦後、長い昭和を経て、「野蛮を見る目」に日本人が完全に擬態、同化し、その錯覚に錯覚を覚えなくなったあと、その錯覚がもたらした弊害に身動きが取れなくなった、あの平成の中頃である。
近代を目指した日本の自己規定は、具体的には「条約改正」に尽きる。西欧化、中央集権、地租改正、徴兵制とその戦争、自由民権運動、国会開設、憲法制定、それらの国家と国民たちの行為はすべて、「条約改正」に収斂される。
坂の上の雲とは、「条約改正」という雲のことだといってもよい。
雲を手に入れたあと、国家と国民を突き動かしていたエネルギーは方向と目標を見失う。明治国家から方向と目標と除いたものがそれ以降の日本である。
ゆえに明治は、ながく聖代として讃えられるわけだが、その方向と目標さえ、じつは、降ってわいたような外圧の賜物である。それが、多かれ少なかれいずれの国もそうだという一般論で説明しきれないのは、そこに主体的な意思はないことを挙げれば足りるだろう。理論であれ、来歴であれ、ものごとの根本をたどってゆくと、その根源が雲散霧消してしまっていることは特徴的というべきだろう。
ほんとうは虚無の、その意思主体を制度上、天皇に求めたものが日本という国だとも言える。
筆者は天皇制の賛美者ではない。現人神という人身御供を必要とする制度に疑問を持つ者である。神でも王でもないひとりの人間に、生れついて神であることと王であることを強制する制度とはなんだろう。そしてその臣民、赤子、国民、人民にとって、その生贄を欠くことができないとは。
もちろん、本書『明治天皇』に上記のごときことは書かれてはいない。書かれてはいないが、筆者はこのように読んだ。
わたしもまた、自分の読みたいものしか読まないワガママ者の、浅ましくも健気な、ひとりの読者なのである。