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伊藤潔『台湾』親日と反日

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伊藤潔『台湾』中公新書(1993年8月25日初版)

 

大航海時代に「発見」されたことで台湾の歴史は、はじまる。

 

ヘロドトス司馬遷が創始した歴史は、叙述されなければ歴史にならない。誤解と語弊を覚悟で言うが、無文字文化や先史時代に、歴史は、ない。言語によって記され述べられたものだけが歴史になりうる。

はじめポルトガルが、つぎにオランダ、スペインが、この島を占拠した。

そののち、日本でも有名な国姓爺、鄭成功が占領、統治をおこなった。言わずと知れた鄭成功は明の遺民。満州族である清が大陸を席捲するなか抵抗をつづけたが、やがて滅ぼされた。豊太閤が同じころ出兵を行ったから、明にとって女真族倭人は仇のようなものである。このとき掲げられた「反清復明」のスローガンは、大義名分と華夷思想である。この思想的構造は蒋介石による台湾占領後にも「反復」されるように「見える」。

もったいぶった言い方で恐縮だが、あくまで「見える」に過ぎない。

もとよりこの時間なるものは「反復」しない。過ぎ去った過去は永遠に過ぎ去ったままである。過ぎ去ったはずの時間とその出来事が「反復」するように見えるところに、叙述された歴史の特性、個癖、弊習がある。

むしろ叙述されたことによって、歴史は一定の呪縛に遭う。それを民族の悲劇と呼ぶばあいもあれば、国家の悲願と称すばあいもある。いずれにしても歴史に記されたことにより、歴史の束縛は始まり、拘束された形態を、民族や国家と呼ぶようになる。

こうした束縛や拘束された歴史的言説のなかに、日本の台湾植民地時代もある。

 

曰く、「台湾は植民地の優等生」なる言説だ。

 

とうぜん、朝鮮半島と比較されている。基礎条件が異なりすぎて、比較の対象にはなるまいと筆者などは考えるが、戦後の台湾史研究ではスタンダードな考え方なのだろう。

朝鮮との比較が同時代的なものである一方、国民党政府との通時的な比較もバイアスとして働いている。重ねて曰く、「犬が去って豚が来た」。

 

中国共産党政府が国連の常任理事国になるなかで、国際的に孤立した台湾は、独自の外交的生き残りを図ることを強いられている。そんな台湾が、いたずらに外交的対立や孤立にいたる言説を展開するわけがないではないか。台湾の親日とはそういう親日だろう。別段これは面従腹背を意味しない。対象の置かれている条件を見て見ぬふりをして親近や友好を説くのは言説の暴力と変わらないのではないか。

もちろん、この世には敵と味方、親日反日しかないと思っている向きには理解されないことでは、ある。

別に本書に批判的なわけではない。歴史の悲しさを思うのである。