村上春樹『羊をめぐる冒険』歌物語
悪く言う気になればいくらでも悪くいえてしまう作家がいる。
村上春樹である。
嫉妬、嫌悪、理論的批判というただの悪口。
むかし、中上健次が、純文学ならあんなに売れたらダメなんだと罵倒したのを読んだときには筆者も笑うしかなかったが、古き良き時代があったらしい。
もちろん、文壇から悪罵を浴びるたびに、飛躍的に読者は増えた。
いかな文壇、評論家とはいえ、売れる小説を無視はできない。無視できないことがいっそう彼らをいらだたせる、そんな時代にこの小説は書かれている。
めんどうくさい言葉でいえば、構造主義物語論という、ふつうの読者にはなんのことやらさっぱり分からない理論で説明される。また、次作となる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』とは兄弟姉妹のような関係にある。
感傷という「詩」から出立した村上春樹が、ある種の「物語」を経てそれにケリをつけるために書かれた、とかつての筆者は読んだ記憶がある。
主人公の「僕」は、決別と終わりのために「冒険」に出る。英雄物語のように、物語そのものに導かれて主人公はエンディングにまでたどりつく。しかし、その結末は旅立つまえの「僕」が予感し、予見さえしていたものだ。
この冒険譚は予言の成就でもある。
いっぽう、この小説のもくろみは「詩」の破産であろう。それを「僕」は自身ではなく、「鼠」に身代わりになってもらうことで果たす。ゆえに、英雄物語の主人公でありながら主人公になれなかった「僕」は残された負債を清算しなければならない。
それは「ちゃんと現実に帰ってくること」である。
奇想天外な遍歴を経たゲド、竜王にして大魔術師、ゲドの武勲に謳われたハイタカでさえ、帰らなければならなかったのだ、その現実へ。*1
それでも「詩」は終わっておらず、「物語」に必ずしもケリはつかなかった。いずれも残ってしまったがゆえに、この小説は「鼠」の「詩」にそえられた歌物語のようにも見えるのである。
むかし、をとこありけり。*2
という、むかし男の歌物語。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとのみにして*3
「月やあらぬ」という論理の破調が傷ましい歌。なお、この章段は
とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣く帰りにけり
と結ぶ。
僕は川に沿って河口まで歩き、最後に残された五十メートルの砂浜に腰を下ろし、二時間泣いた。そんなに泣いたのは生まれてはじめてだった。二時間泣いてからやっと立ち上がることとができた。どこへ行けばいいのかはわからなかったけれど、とにかく僕は立ち上がり、ズボンについた細かい砂を払った。
日はすっかり暮れていて、歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた。
つけくわえることは何もないだろう。