あんまり褒めるひともない小説。長編小説である。
それでも、筆者がなんど本を整理しても、捨てず、売らず、残っている。
熱心な読者にはなんだか裏切られたようなところがあり、そうでない読者には一顧だにされないようなところがある。
ときはバブル絶頂期という、ことばにするだけでも気恥ずかしい時代の話である。金がすべてで、そのすべてには何もないことを知ったにもかかわらず、日本と日本人が何もできなかった時代である。
懐古的に書いているが、筆者もそこまで年寄りではない。歴史事象として知っているだけだ。
文体、構造、等々、村上春樹が村上春樹を再生産しているようにも見え、それが金が金を作るという自己増殖と再生産にリンクしているようにも見える。
本作で村上春樹らしいとされた感傷は危機にさらされている。作中に通底する不穏さ、それはこの作中でなにごとも起きない、起こすことができないという小説にあるまじきありように見て取れる。そして、鋭敏にあまりに鋭敏にじぶんの傷をみつめていた感傷は、老いた犬が鼻で嗅ぐような習い性のそれになっているとさえ言える。
筆者はこの小説を読んだときに、村上春樹は村上春樹「みたいな」作家になるのかと思った。筆者はかなしんだが、それはこの作品のあと『ねじまき鳥クロニクル』に結実することを知らなかったからだ。傷みやすい感傷を、そこ、に置いてゆく。そんな小説だ。
村上春樹にとって「歌のわかれ」であったのだろう。
傑作のそばに置かれたこの「歌」を、いまも筆者は捨てることができないでいる。